23時30分
「真紀さ~~ん!」
「西野園さん、脅かしちゃってごめ~ん、どこにいるの~?」
福田明美は、鮫太郎と一緒に真紀を探していた。
近くの廊下は一通り歩き回ってみたし、扉が見つかれば全て開けてみたのだが、どこにも姿が見当たらない。こんな迷路みたいな建物の中を、一人でどこに行ったのだろう。でも、それは私が余計な悪戯をして、驚かせてしまったからだ。明美は責任を感じていた。
「本当にゴメン、まさかそんなにびっくりさせちゃうとは思わなくて……」
「いえ、俺もつい目を離しちゃったし……えええ、どこに行ったのかな……」
結局何の成果もないまま、真紀を見失った通路まで戻ってきてしまった。
「どうしよう……私の責任だわ。もっと、手分けして探してみましょう?」
「そうっすねぇ……じゃあ、俺はこっちを探してみます」
鮫太郎はそう言い残して去っていった。
明美は、鮫太郎とは反対方向の通路を歩いていく。
懐中電灯で周囲を照らしながら、ここは本当に素敵な廃墟だなぁ、とつくづく思った。
ところどころ割れたガラス、床に散らばった小物たち、天井に張り巡らされた蜘蛛の巣……。椅子や机、何気なく放置されたペンや紙切れにも、一つ一つ、それぞれの歴史がある。真紀の捜索を忘れて、そうした感慨に耽ってしまう事が何度かあった。
かつてここで生活していた人達の、小さな小さな記憶のかけらが、ホコリとなってうっすらと堆積しているのだ。この廊下を歩きながら、どんな会話が交わされたのだろう。あのペンで、恋文を認めた人はいたのかしら。そのベッドで、眠れぬ夜を過ごした若者もいたかもしれない。そんなノスタルジーに浸りながら廃墟を歩くのが、明美はたまらなく好きだった。
心をときめかせながら進んでいくと、『休憩室』という札のかかった部屋のドアが見えてきた。実は、明美の彼氏である加藤和彦が荷物を運び込んだのはこの部屋だった。明美もついさっきまでこの部屋で和彦の戻ってくるのを待っていたのだが、真紀と鮫太郎の足音と話し声が聞こえて、急いでマスクを被って飛び出した、というわけだ。
明美はその休憩室の扉を開け、中に入った。
そこには長テーブルと、寝そべる事もできそうな長椅子が何組か並んでいる。中央には、木製の台の上に錆びたガスコンロと煤けたヤカン。きっとここでお茶でも飲みながら、上司の悪口とか、くだらない世間話とか、気になる女の子の話をして束の間の休息をとっていたのだろう。
明美がこの部屋を出る数分前に出かけて行った和彦だったが、まだ戻っていない様子だ。尤も、この迷宮のような建物の中である。一たび方向感覚を失ってしまったら、戻ってくるのに相当な時間を要するのは致し方ないところだ。ましてや、和彦は三階の方へ上がっていったのだから、きっとどこかで道に迷っているのだろう。
前の彼氏と出会ったのは、大学に入って間もない頃だった。知的な雰囲気のあるイケメンで、明美は一目惚れして猛烈にアタック。結果、その彼と付き合う事になったのだった。
しかし、その男は女癖が非常に悪かった。明美は、散々弄ばれた挙句、ボロきれのように捨てられた。
傷心のままぼんやりと日常を送っていた明美が、ある時偶然見かけたのは、同学年の間ではコワモテで恐れられている男――加藤和彦が、しゃがんで野良猫に優しく声をかけている姿だった。加藤が呼ぶと、猫はにゃあ、と鳴いて加藤の膝に飛び乗り、ゴロゴロと喉を鳴らした。
明美は、元彼と正反対のタイプの男が持つ意外な一面を目の当たりにして、しばらくその光景に釘付けになっていた。そして、不意に、加藤と目が合った。
すっかり破顔していた加藤は、決まりが悪そうにいつものいかつい表情に戻った。そんな加藤に、明美はゆっくりと近づいて行った。
「その猫、加藤くんの事が大好きなんだね」
その日から、新たな恋が始まった。
――そんな昔の話を思い出しながら明美は、部屋の中を検めていた。流石に、やっぱり、ここに西野園さんは居ないか……。
するとその時、背後で扉の開く音がして、誰かが入ってきた気配を感じた。和彦が帰ってきた、と思った明美は、無警戒に話し始めた。
「あ、和彦~? さっきね、ここの前の廊下を、西野園さんと京谷さんの弟が通って行って、ちょっと脅かしてみたんだけど……西野園さん、驚きすぎて一人でどこかへ逃げ出しちゃったみたいなの~。で、その弟さんと一緒にこの辺りを探してみたんだけど、見つからなくて……和彦、もし見かけたら、ここまで連れてきてくれない? ……ほら、西野園さん、菅山くんと松野くんに狙われてるみたいだし、万が一の事があったらいけないから……」
明美がさっきの出来事を説明している間にも、その人の気配がじりじりとにじり寄ってくる。
「ちょっと、和彦、聞いて――」
そう言いかけ、振り返ろうとしたその瞬間、明美は後頭部に強い衝撃を感じた。
「うっ……」
明美は頭を押さえながら、前方に倒れこむ。何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。頭に添えた手にはべっとりと自分の血がついている。取り落とした懐中電灯が、スイッチを入れたままの状態で転がっていた。
和彦じゃない……一体誰なの……何が起こっているの?
混乱した頭で必死に状況を把握しようとしてみたが、うまく考えがまとまらない。床に横たわった明美の傍を通って、その人物が荷物の入ったバッグをゴソゴソと物色し始めた。
朦朧とする意識をどうにか繋ぎ止めて、明美はそいつを視界に捉える。何か細長いものを持って、立ち上がるところだった。
誰だ……!
暗がりの中で目に全神経を集中させ、そいつの顔を見定めようとしてみたが、無情にも、そいつは既にマスクを被っていた。
手にしていた細長いものが、首に当てられる。ヒヤリとした感触。これはまさか……
ガガガガガガガガガッ!!
「ああああああああっ!!!!」
それはノコギリだった。柄が引かれ、刃の一つ一つが皮膚と肉を巻き込みながら食い込んでくる。そのたびに、言語を絶するような激痛が走った。
「いやああぁぁぁ……やめて……どうしてこんな事するの……」
そいつは無言のまま、傷口に再びノコギリを当て、勢いよく引いた。
「ああああああ……ああっ……」
後頭部への衝撃で意識が薄れかけていたところへ、ノコギリによって更なる痛みを受け、ショックで気を失いかけた。
……和彦……助けて……和彦……
三度ノコギリが当てられ、傷口を深く抉ってゆく。肉が裂け、血がドクドクと流れ始めた。
視界が暗さを増していく。既に声を上げることも、指一つ動かす事すらできない。
薄れゆく意識の中で、明美が最後に感じたのは、下半身に何かがあてがわれる感触だった。




