豹変
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「相沢はここにいてくれ」
若殿薫が言った。
「は」
奴奈川大社大鳥居を抜け、薫が歩いていく。
髷を切り落とし、羽織袴は着用せず、刀も佩かず。護衛についている相沢青年もまえは正直鼻持ちならんガキだと思っていた。しかし、この頃の若殿はどうだ。不満と戸惑いが残る藩をしっかりとまとめているではないか。
若年なれど将器あり。
次の将軍家になるのは――と、この内戦、この戦への相沢青年の認識はそのようなものだが、次に将軍家になるのは長州か薩摩のお殿様か、それ以外のお殿様であっても奴奈川藩は安泰じゃないか?そう思っている。
ただ。
今日の若殿は妙に殺気走っていた。
あれはなんだったのだろう。そして。
武士を捨てて西洋のうおりあーになったと言われる若殿が、今日は見事な造りの刀を佩いているじゃないか。二本差しではないのはご愛敬だが、あれが噂の栗原筑前守信綱か。
「……」
相沢青年には難しいことはわからない。
桜がきれいだ。相沢青年は大社に咲き誇る千本桜に視線を移した。
もとより洋装の薫は大社では歓迎されない。
こちらには正四位下の奴奈川斎姫がおられるという強気もある。奴奈川藩主になっても位階は従五位下なのだ。まして若殿はまだ殿ですらない。しかし、今日の薫にはみな息を呑んで道を譲り、頭を下げる。
激しく怒っている。
「許さんぞ」
薫が口にした。
「ふざけるな」
そして手水舎どころか拝殿にも目もくれず、そのまま足を向けたのは奥の斎姫殿だ。
「あっ!」
と、さすがに斎姫殿の巫女たちが慌てている。
「若殿さま!」
「若殿さま!」
「なりません。こちらは男子禁制でございます」
「若殿さま!」
「どけッ!」
薫が怒声をあげた。
静!
わかっているか! 裏切りだ! これは裏切りだぞ!
春の例大祭が近い。
戦が迫る中であっても大社の活気は変わらない。
斎姫殿、斎姫の間でも何人かの巫女で確認のために静に斎姫の装束を着付けている。これが終われば黒姫高子の装束の確認だ。斎姫がいても斎姫代はいるし、斎姫代の時代であってもうひとりの斎姫代がいる。当日になにかあっても、そしてそれが舞台の上であっても、すぐに入れ替わることができる。そうして奴奈川斎姫の神楽舞の伝統は引き継がれている。
「高子」
と、静は体を動かさずただ口だけを開いて高子を呼んだ。
「はい、斎姫さま」
高子は静より装束に詳しい。着付けを担当している巫女を指導しながら装束のチェックをしている。その手を止め高子は顔をあげた。
「よろしく頼む」
と静が言った。
「はい」
高子は微笑んだ。
よろしく頼む。
私が今夜消えても、おまえが斎姫代としてこの例大祭を、そしてこれからの例大祭をどうか頼む。
ごめんなさい。
じっと瞳すら動かさなかった静が、顔を背後へと向けた。
遅れてその騒ぎが聞こえてきた。
「聖域でございます!」
「聖域でございます!」
「若殿さま!」
「せめて、お刀を!」
高子や他の巫女たちも手を止めて眉をひそめている。
荒々しく次の間の襖が開けられる音がする。乱暴な足音が近づく。そして斎姫の間の襖が開け放たれた。そこにいたのは若殿薫だ。
「薫どの」
と、静は慌てない。
「何事ですか。やんちゃが過ぎましょう」
「静!」
と、薫が言った。
あっと、巫女たちはみな固まった。きょうだいと言えど、奴奈川斎姫は正四位だ。呼び捨てにできる相手ではない。
「巫女たちを下がらせろ、静」
薫はまた呼び捨てにした。
「ああ、黒姫高子、おまえは残れ。必要だ」
ぴくり、と高子が体を震わせた。
「早くしろ!」
線が細く女性のような顔をしていても男だ。
その声はビリビリと鼓膜を震わせる。
巫女たちはおろおろと静の顔をうかがっている。彼女たちの主は静なのだ。そして静は目を据わらせている。この表情になった時の静は頑固だ。彼女たちはよく知っている。しかし静は「みな、お下がりなさい」と言った。
「若殿は私に話があるようです。ああ、でも高子は――」
「残せ」
薫が言った。
巫女たちが斎姫の間を出て行った。斎姫の間と次の間の襖が閉じられたのを確認して薫は静へと顔を向けた。
「かおるど――」
「おれはおまえを自由にさせすぎたようだ」
薫は静に発言させようともしない。
「髪を切り、おれの名前を騙って剣術道場に出入りしているくらいは許した」
静は頬を染めた。
バレていた!
「やんちゃがすぎるだと? おまえはどうだ、静。やんちゃどころかおまえは馬鹿が過ぎる。おれはもう、おまえを許さないことにした」
「おれが――」と、薫は顔を歪めた。
「この内戦の中でこの藩と領民を守るために必死になっているときに、おまえは自分の事しか考えていなかった。静。おまえは今日、この大社を出ることはない」
あっと、静は眼を見開いた。
それまでバレている! なぜ!
そして視線をチラリと高子へに向けた。高子は真っ青になりながらも気丈に背を伸ばし正座している。高子は黒姫俊輔の従姉妹だ。ここで脱藩の話をするわけにはいかない。
「薫――」
「後ろを向け、静」
「いったい――」
「後ろを向くんだ、静」
はじめて顔を合わせた日。
あの時には静が薫を呑み、圧倒した。
今日はことごとく薫に先手を打たれてしまう。そもそもこんな優男の薫に気圧されてしまうなんて。もっとごつい男たちを相手に竹刀を合わせてきた私が――。
「おれはおまえのきょうだいだぞ。そしてここには黒姫高子がいる。おかしなことをするとでも思うか?」
薫の顔に薄ら笑いが浮かんでいる。
「はやくしろ、静。なにを怖がっている?」
「……」
静は薫に背を向けた。
その瞬間、薫が身を沈めた。
走ったのは白刃。木花知流姫だ。
「――」
むしろおどろいたのは高子だった。
静は後ろを向き、そしてなにかを口にしかけていた。しかしそれは言葉にならず、静はのけぞった。床をはうように伸びた木花知流姫が静の両足の足首を斬り裂いたのだ。
悲鳴をあげようと、静の口が開いた。
しかし、その口にねじ込まれたのは薫の手だ。
腱を斬るとすぐに木花知流姫を鞘に納め、薫は静へと飛びかかっている。薫はもう片手で静の口にさらしをねじ込んだ。そのまま静を押し倒し、両腕を足で挟んで抑え込み自由を奪うと、もうひとつのさらしを高子へと投げた。
「止血だ! それで傷を押さえろ!」
高子は動けない。
「急げ!」
静の足首から血が溢れている。
高子は足をもつれさせるように静に近づき、静の両足にさらしを当てた。
「もっと強くだ! 添えるんじゃない、押しつけるんだ! おまえの体重で静の血を止めるのだと思え!」
静は暴れている。
しかし、同じくらいの体格の薫に抑え込まれて動けない。両足も薫と高子に抑えられている。静の抵抗が弱くなっていくのを高子は両手に感じている。
「そうだ、それでいい。黒姫高子」
「……」
「しばらくすれば血も止まる。あとで薬を塗ってやれ。静は奴奈川斎姫だ。その程度の傷、治すだろうさ」
治す?
足の腱ですよ!?
高子は顔をあげ、薫を睨んだ。
「なんだ、おまえ、奴奈川斎姫のちからを信じていないのか」
薫の顔に浮かんでいるのは薄ら笑いだ。
先ほども見た。
なんて残忍なんだ。
「ああ、気づかなかったぞ。これはもしかして斎姫の装束か? 血で汚してしまったな。まあ、替えもあるのだろう?」
ふふ、と薫はまた笑った。
「どのみち、さすがに斎姫でも春の例大祭には間に合わないだろうさ。その場合はおまえが斎姫代をするのだよな。静ほどじゃないがおまえも背が高くて美人じゃないか。よかったな、やっと斎姫として舞えるぞ」
ぶるぶると怒りで高子の腕が震える。
静はもう動かない。
薫は立ち上がった。
「この大社はたった今から明日の朝まで禁足とする。破るものは斬る」
斎姫の間の襖を開け、次の間の襖を開けると、そこに巫女たちが固まっている。巫女たちは鮮血の惨状に悲鳴をあげた。
それに足を止めず、振り返りもせず、薫は歩いていった。
相沢青年はぎょっとした。
戻ってきた若殿薫の表情に。
荒んでいる。まるで人斬りの目だ。いや、おれはまだ見たことはないが――。
「相沢」
「は」
「大社は禁足だ。何人か集めろ。無理に出ようとするものがいたら斬れ。それが斎姫であってもだ」
もっとも、と薫は笑った。
「斎姫が大社を出ることはないだろうよ」
あとは。
と、薫は思った。
あとは俊輔、黒姫俊輔。
そして鷹沢勇一郎、米山鉄太郎、三浦勝之進、そして小林静馬。
おまえら全員、許さない。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
黒姫 高子 (くろひめ たかこ)
巫女長。静のレディスメイド。斎姫代でもある。俊輔の従姉妹。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
バエル
人間名不明。ソロモンの七二柱序列一位のヴァンパイア。
ゴリラ。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
ファンタズマ
聖騎士団最高幹部。ヴァンパイア。名前の意味は「幻」「幽霊」。
黒のシズカ
かつて聖騎士団に所属した修道騎士。ヴァンパイア。
ヴァンパイアとしては特に名前を持たない。自身がカノンだから。太郎丸次郎丸の両刀を操る二刀流。黒の魔女とも。
※木花咲耶姫:コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫:イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫:コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン:正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ:外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ:偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※聖騎士団:使徒座の対ヴァンパイア騎士団。全員がヴァンパイア。カステル・サントカヴァリエーレ(聖騎士城)に本部がある。




