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私の夜歩きは、夢遊病とでも言うのだろうか。白いパンを抱えて夜に歩くとは、まるで物語の少女のようだと思う。だが幸い、夢の中で思う通りにパンを渡せて満足したのか、あの夜から私の夜歩きは一切なくなったらしい。
したがって、オールバンスの幽霊もいなくなった。
というか、最初からそんなものはいないことになっている。
ジュードが調べたところによると、リスバーンにまで流れていた噂は、悪意を持って流されたものではなかった。オールバンスの使用人が私のことを心配して話していたのをリスバーンからきた使用人が偶然耳にして、それをリスバーンの屋敷で話していたのを偶然クリスが聞いてしまったという、偶然に偶然が重なったものだったらしい。
それでも、誰が聞いているかわからないところでうかつに主の噂をしていたことは厳しくとがめられ、減給や配置換えなどが行われたと報告を受けた。
「少し前なら、問答無用で解雇でしたが、それはそれで恨みや憎しみを招きます。ご当主の判断がよいほうに動くよう、私どもも使用人の教育はまたきちんとせねばなりません。実際、人手不足ですしねえ。このたびは私の管理が甘かったせいで、リア様には不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
このようにジュードには頭を下げられたが、人手不足を嘆かれても幼児にはどうしようもない。そもそも夜にうろうろして心配をかけたのは私だ。
「しんぱいかけて、ごめんなさい」
私はきちんと謝れるいい子なのである。
「いえいえ、リア様のせいではございません。死んでからでも迷惑をかけるあやつのせいで、いえ、ゴホンゴホン」
やはりサイラスは名前を言ってはいけないあの人の扱いだ。
だが、私の夜歩きの原因でいえば、ジュードのいうあいつを、幼い頃飢えさせた人たちに責任があると思うのだ。
夜歩きが落ち着いたし、兄さまの夏休みも終わるしで、明日からまた城でニコとクリスと遊ぶことができる。幽霊騒ぎからさらに一か月たち、ニコの五歳の誕生日に、お祝いに外出しただけの私は、ワクワクが止まらなかった。もっとも、夏休みの兄さまとはたっぷりと遊ぶことができたので、退屈とは無縁だったのが幸いである。
「私も明日から学院に戻らねばなりません。面倒ですが仕方ありませんね」
「リアもがっこうだよ?」
「学校……。確かに三人いれば、学校と言ってもいいかもしれませんね」
苦笑する兄さまの通っている学院は、一〇歳の年に入学し、六年間通う。学費が高いので生徒は主に貴族の子弟だ。一〇の年までは、貴族は家庭教師に基礎的な勉強を習い、庶民は町の学問所で読み書き計算を習う。
つまり、私もクリスも本来なら、各家庭で勉強をするはずなのだが、ニコの勉強相手として城で共に学んでいる、いわばまれなケースである。というか、そもそも学ぶ年齢にもなっていない。
本来なら幼稚園と言ったところだが、そんなシステムはキングダムにもないようだ。
「また週末まで会えませんが、お互いに頑張りましょうね」
「はい! リアもがんばる」
お父様と一緒に、ニコの誕生日のあと久しぶりにお城へと向かう。
「ニコ! クリス!」
二人はいつも勉強する、王子宮の図書室で待っていてくれた。
「リア、けっきょくなかなか会えなかったな」
「ほんとにそうよ。リアのおうちにも行けなかったし」
ウェスターから帰っても、会えたのは二回きりなので、とても嬉しい。
クリスがそっと寄ってきて、耳元でささやいた。
「それで、ゆうれいはどうなったの?」
兄さまはクリスに、オールバンスに幽霊はいないと言った。だが、そんなのは嘘だと、子どもたちは皆わかっていたのだ。
「それがね、ゆうれいはやっぱりいなかったみたい」
「なーんだ」
「リアはごまかしたりしないからな。ということは、やっぱりゆうれいなんていないのか」
大人は都合の悪いことはごまかすこともあるということも、子どもたちはわかっているのである。
だから私は、もう少し踏み込んで話すことにした。
「あのね、よるにね、リアがねぼけてうろうろしてたんだって」
「リアがうろうろ?」
ニコはそれがどうしたという顔だ。
一方、クリスははっと何かに気づいたようだ。
「リアがゆうれいとまちがわれたってこと?」
「それ!」
私は腕を組んでうむと頷いた。
クリスも腕を組んで大きく頷き返した。
「だから、ルークはあんなに大きな声を出していたのね。わかるわ。夜にうろうろして、ゆうれいにまちがわれるなんて、リアにとってははずかしいことだものね」
私たちが授業前のお話を楽しんでいるのを見守ってくれていたオッズ先生やニコの護衛の人たちが、驚いた顔をした後眉をひそめ、なにかいいたげな顔をしたが心配ない。
「リアはべつにはずかしくないけど?」
大事なことは自分でちゃんと言い返すことができる幼児、それが私である。
ちなみに、ハンスとナタリーはまったく表情が変わっていない。それどころか、ハンスは笑い出しそうになっているのを必死に我慢しているのが伝わってくる。
ナタリーはどうかって?
幽霊と間違われるリア様もかわいらしいと思っているのがばっちりと伝わっているから大丈夫だ。一見無表情に見えても、お父様と同じで、慣れると案外伝わってくるものなのだ。
「そ、そうなの?」
「そう」
私は重々しく頷いた。
「それで、ねぼけは直ったのか」
さすがニコ、微妙な雰囲気を軌道修正してくれる。
「うん。なおった」
「そうか。よかったな。リアはねぼすけだから、よるねれないと困るものな」
「ねるこはそだつからね。おおきくなれないところだった」
ねぼすけと言われたことにはあえて触れないでおく。
「さて、そろそろ授業を始めましょうか」
パンと一つ、手を叩いて、オッズ先生が声をかけてくれた。
「はーい」
「はーい」
「はーい」
私たちは素直に席に着いた。
「ずいぶん長いことお休みでしたから、書き取りや計算の復習から始めるのがよいのですが」
私はこっそり口を尖らせた。確かに私はニコの勉強のお付き合いのためにここにきているが、勉強がすごく好きというわけでもない。
「ニコラス殿下とリア様がせっかくウェスターへと行ったのですから、なにかそれを生かした授業を行いたいですね」
ただの読み書きよりはよほど面白そうだが、具体的には何をすればいいのかわかりにくい。
「オッズ先生もいっしょに行ったではないか。先生はどうしたいのだ?」
旅の後半はともかく、ウェスターの領都に行くまでは一緒に旅をしたのだ。
「ウェスターへの旅は私にとっても印象深いものでした。ですから、私がやるなら、領都までの地理とその説明ということになりますが、それではいつもの地理とあまり変わりませんからね」
実際、地図を見ながら、各国の産物の説明をしてもらうのは普段の授業でやってもらっていることだ。
だからどうしろという指示出しをせず、こちらを見ているオッズ先生の様子に私はピンときた。
「リアたちが、じゅぎょうする?」
オッズ先生は、よくできましたという表情だ。
「わたしたちがか? 先生のかわりに? そこに立って?」
ニコの鼻がぷくっとふくらんだ。
授業をするということより、黒板の前に立つことのほうがよほど嬉しそうなのはなぜだろう。
「もちろん、旅の感想だけではだめですよ。殿下が先生になるとしたら、リア様やクリス様にとって、学びになることを話さねばなりませんから」
「学び、か。むずかしいが、おもしろそうでもあるな」
ニコが乗り気だが、オッズ先生の話を聞いていると、結局は王子のニコのための勉強なのだなとちょっと思ってしまう。だが、それならそれで、やりようはある。
「オッズ先生! はい!」
私は右手を挙げて発言の許可を求めた。まあ、生徒が三人しかいないのであまり意味はない。
「リアとクリスは、なにをしたらいいですか?」
私は授業の準備をするのは少し面倒なので、聞いているだけでもいいのだが、それではクリスは退屈だろう。
「リア様は、殿下と同じでよろしいでしょう。クリス様はどうしましょうか」
クリスは特にどこにも出かけていないはずなので、先生も思案顔だ。
では代わりに私が聞いてあげよう。
「クリスは、なつやすみ、なにかした?」
「なつやすみ? ええとね」
頬に手を当てて思い出そうとしているのがかわいすぎる。
「ジュリアおばさまといろいろしたわ。買い物にも行ったし、おうちではししゅうやマナー、それからお茶会もしたわ」
「おちゃかい?」
お茶なら、毎日おやつの時間にいただくものだ。わざわざお茶会というからには、なにか特別なものなのではないか。
「そう。しゅくじょのおべんきょうよって、ジュリアおばさまが。じゅんびから、当日、どうもてなすかも教わったのよ。それから姉さまやギルも招いたりして」
「わあ、たのしそう。リアもいきたかった」
「リアもこんど来てくれる?」
「よろこんで!」
ギルのお母様のジュリアおばさまとは仲良くやれているようでなによりだ。
だが、これでクリスの授業は決まった。
「リア、おちゃかいのやりかた、しりたい」
「リアが? あ」
クリスがちょっと気まずそうにしているが、気にしなくてもいい。
そう、クリスも今は母親と離れてしまっているが、私はそもそも母親がいない。オールバンスの家でとても大切にされているが、ラグ竜の乗り方を教えてくれる人はいても、お茶会や刺繍について教えてくれる人などいない。
母親がいない私もかわいそうかもしれないが、母親がいても決して会えないクリスだってかわいそうなのは変わらない。つまり、かわいそう比べをしても仕方がないのである。
「どうやら決まったようですね。それではクリス様は、お茶会をはじめとして、淑女として学んだことを取り上げるといいでしょう。殿下にも、淑女とはどう努力するものなのか知ることは学びになるでしょうから」
オッズ先生も満足そうだ。




