海は広いな
次の日は、朝食の後すぐに海岸で遊べることになった。
私は波の届かない岸辺を、下を見ながらひとりでゆっくりと歩いた。ニコも兄さまも、未だに波打ち際で貝を掘ったり波と戯れたりしている。
「かいそう、かいそう、りゅうぼく、かいがら」
砂の上には波に打ち上げられたいろいろな物が落ちている。
「リア様は何でも知っていらっしゃいますね。私は海藻などというものは知りませんでした」
普段は余計な口を挟まないナタリーだが、こうして誰もいないときは話相手になってくれる。
「たぶん、たべられる」
誰もいなかったら拾って食べてみるのだが、私の周りに誰もいないということなどないのである。
「ブフォッ。こんなものまで食べようと思うなんざ、さすがリア様だな」
三人で歩いているせいか、ハンスにも少し余裕が出てきたようだ。腰のベルトには淡いピンクでレースの付いたハンカチにくるまれた何かが雑にくくりつけられている。
「それ」
「リア様の結界箱です。朝から実験中ですが、まだ動いていますよ。ハンカチでくるんでいるだけですが、ずれもしねえ」
小さいマールライトは、変質に時間こそかかったものの、無事にその役割を果たしているようだ。
「今朝のことですが、ギル様からアリスターに話を通してもらって、これを収められる木箱を工夫してもらってるとこです」
「アリスター」
私は波打ち際に目を向けた。
「アリスター、あさからあそんでない」
なんとなく物足りない気がしたのは、アリスターがいなかったせいだった。
「リア様、俺も別に、アリスターを急かしたりしてませんよ。海で遊んで、時間があったらでいいからって頼んだだけなんです」
ちょっとハンスを責める気持ちになっていたので、そう説明されてほっとした。
「なにより木工が好きだから、そんな話があるなら、海で遊ぶよりそっちがいいと言って、部屋にこもってしまってな。ちょっとタイミングは悪かったなあ」
ハンスも反省はしているようだ。
「けど、バートたちと一緒に海で遊んだこともあるから、気にするなとリア様に伝えてくれと言ってましたぜ」
そう言われて眺めてみると、バートたちは余裕の表情で遊んでいる面々を眺めている気もする。護衛もお仕事の一つだからかもしれないが、ミルあたりはそれでも率先して遊んでいそうなのに、そんなそぶりもない。
よく見てみると、ヒューもいない。
「ウェスターの第二王子はちょっと堅苦しくて面倒くさい男だが、間違いなく優秀だと俺は思うぜ。特にケアリーを出てからこっち、ファーランド一行もルーク様たちも、ちゃんと旅を楽しめてるじゃないですか」
その言葉を聞いて、頼もしいというよりむしろ寂しい気持ちになってしまったのも仕方がないと思う。バートもミルもキャロもクライドも、そしてアリスターも、いくら私に優しくて変わらず大事にしてくれたとしても、それは私の保護者だからではなく、優秀な第二王子の部下だからということだからだ。
「けど、ウェスターの人たちは、虚族には敏感でも、人の悪意には少々うとい。それが裏目に出なければいいが……」
「ハンス、それをここで言ってどうするのです。リア様に余計なことを言うものではありません」
「わかったよ」
ハンスとナタリーの気安い言い合いを背中で聞きながら、私はしゃがみこんで貝殻を拾った。
「ほら、みて。ピンクのかいよ」
「まあ、かわいらしい。春の花のようですね」
「うん。こうして」
五つ並べたら本当の花びらのようだ。
「ま、なんだな」
ハンスが石を拾ってしゅっと海の方に投げた。
「ウェスターも、なかなかいいところだな」
「ええ、本当に。辺境など、蛮族の出る恐ろしいところだとずっと思っていました」
これが普通のキングダムの民である。
夜に外に出られないだけで、人の営みはキングダムでも辺境も同じだ。
「リアも、きてよかった」
そうして手を腰に当てて、楽しそうな兄さまたちを眺めたのだった。
だが旅はまだ終わったわけではない。そして、今日という日もまだ終わったわけではなかった。
私がお昼寝から起きて部屋を出ると、宿がなんとなくバタバタしていた。
「リアはおきたか?」
待ち構えていたという雰囲気でやってきたのはニコだ。
「ニコ、へやにいたの? うみであそんでるかとおもった」
「うむ。あそびたくはあったが、マールライトのこともわすれてはならぬからな」
どうやら私が寝ている間、別室でしっかりとマールライトの変質を頑張っていたらしい。
「やはり、一じかんというのはたいせつなようだぞ」
「へんしつした?」
お互い声が小さくなっているのは、秘密の話をしているからである。
「ああ。一じかん、みっかだな。だが、それはべつにいい」
何がいいのかわからないが、ニコの声が弾んでいる。
「こんばん、そとですごしていいそうだ」
「ほんと?」
私はぴょんと飛び上がった。自分も嬉しいが、なにより夜の海を兄さまやニコに見せられるのが嬉しい。
「普通は怖がるもんなんだがなあ。キングダムのお貴族様は子どもも変わってるな」
「せんどうさんだ」
宿の中で顔を合わせるとは思わなくて少し驚いた。隣に兄さまもいる。
「俺も一緒に過ごさせてもらうことにしたんだ。夜に安全に外に出かけられる機会なんて、初めてかもしれないくらいだからな」
「いっしょ! たのしい!」
「俺は怖いよ」
それが普通なのだろう。
「泊まりはしません。ですが、昼間に遊んだところにテントを張り、結界箱を置いて夕食と夜景を楽しもうという計画だそうです。この間からヒューが大盤振る舞いですね。」
「ヒューがこんどうちにきたら、いっぱいおもてなしする」
「うちにきたら……?」
兄さまが不思議そうな顔をした。
「いっぱいしてくれた。おかえししないと」
身分の高いお客様が危険を顧みずにわがまま放題。客観的に見ると、私たちはこんな感じなのだ。
「そうですね。感謝の気持ちを忘れていたかもしれません。お父様でもあるまいし」
それもお父様に失礼だと思う。
そんな私たちは、日が暮れる前に、波の届かない平たい場所にテントを張った。誰かが寝るわけではなく、ここを中心とするという意味なのだそうだ。
町の人にも声を掛けたそうだが、わざわざ虚族を見たい人はそんなにいなくて、町長とその息子の船頭、そして何人かの漁師の人だけが参加した。
「日が暮れそうになると、早く家に帰らなきゃって心臓がばくばくするぜ」
わかっていても不安が顔に出る。だが、ほのかに期待も見えた。
明るいうちに夕食を済ませると、ザザーン、ザザーンと寄せては返す波の音に耳を傾ける。
やがて日の光が完全に消えると、暗闇と共にヴンと体に響く気配がすると同時に、ニコが大きな声を上げた。
「大きなさかなだ!」
気配の先には、イルカに似た大きな魚が宙に浮かんでいた。いきなり大物である。
「嘘だろ。海から虚族がやってくるだと。海には出ないはずなのに」
町長の息子が思わず立ち上がった。だが私は知っている。あれは海から来たのとは少し違う。正確には海から頭だけ突き出ている小さな岩場から発生した。
「虚族は水を苦手とする。だが、あの岩場から浜辺くらいまでの距離なら移動できるようだな」
バートが指さしたのは、私が見ていた岩場と同じところだった。
「あそこから出てたのか」
「それだけじゃないぞ」
大きな魚が空中をふよりと移動するのに気を取られていたが、波の際を跳ねるように魚の群れが泳ぎ、草原の方からはネズミがやってくる。
静かなはずの夜の海辺は、思いもよらない姿をした虚族でいっぱいだった。
「あれはきょぞく、あれはきょぞく」
ニコが自分の手をぎゅっと体に巻き付ける。
「てをのばしてはいけない」
大きな動物なら、あるいは人型なら怖いという気持ちも湧く。だが小さいネズミや宙を泳ぐ魚なら、触ってみたいと思ってしまう。ニコは自分の経験から、危険を理解しているのだ。
「こんなに小さい物ばかりだと、狩る気にもなれねえ」
バートはローダライトの剣の柄にかけた手を外した。
「窓から海を眺めることはあった。だけど、こんなに間近で夜の海を見たのは初めてだ。美しいものなんだな」
船頭さんの感想である。
「虚族でさえ美しい。王子さんじゃないが、結界がなければきっと手を伸ばしてしまうだろうな」
生き物の気配を感じるのか、寄ってくる魚の群れが結界に弾かれて違う方向に流れていく。
「まるで海の中にいるみたいです」
「うん」
海の底から、海面を見上げているみたいだ。
「海の方を見てみろよ。ああやって魚の虚族ができあがるんだ」
小さい魚の群れがいるのだろうか、飛び跳ねた魚が次々と魚の虚族に捕らえられ、命を失いそのまま海面に落ちていく。
それは幻想的ではあるが冷たい世界でもあった。
「そろそろ戻るか」
虚族に魅入られた沈黙をヒューが破る。
「そうですね。夢から覚めた気がします」
「残りの私たちも宿ごとに移動だ。さあ、テントをたため」
ヒューの声を合図に、少しぼんやりしているニコの手をしっかりと握る。
「よるのうみは、すごかったな」
「うん」
「まっくらなのに、うみはきらきらして、なみは白かった」
「そうだね」
虚族だけでなく、夜の海そのものを楽しめたならよかった。
その日部屋に戻ると、ニコだけでなく兄さまもはしゃいでいて、夜の海について語る言葉が尽きることはなかった。
なかったのだと思う。途中で記憶がなくなったので自信はない。




