ハンナ
「確かこっちのほうに走っていったような気がするんだが」
暗くなった中、がさがさという音と共に人の声がする。ハンナはとっさに私を抱きしめて小さくなった。しかし、
「キーエ」
竜が鳴いてしまった。きっと仲間がいたのだろう。
「ラグ竜の声がした。こっちだ!」
がさがさと何人かがやってくる気配がした。
「当たりだ!」
しぶしぶ目を開けると、男が三人、ラグ竜を連れてそこに立っていた。
「赤ん坊と、こっちは聞いてねえが、赤ん坊の世話をするための女か。まあいい。辺境では人手はいくらあってもいい。おい!」
おいと言われても素直にはいとは言えないだろう。
「なんだ、口がきけねえのか」
男たちはずんずんとそばに寄ってくる。
「おい、顔を見せて見ろ」
「や」
「お、しゃべったな」
満足そうに言うと男は私の顎をつかんで明かりにかざした。
「これは見事な。初めて見たぜ」
「まぶちい」
「おっとすまなかったな」
私はハンナの胸に顔を戻した。
「リックはつかまったか。まあいい、護衛隊は決してこちら側には来ないからな。取引は成功だ。さあ、お前たち、ついてこい」
「や。おうち、かえりゅ」
「ああ?」
男が大きな声を上げた。
「り、リーリア様、ここは、おとなしく言うことを聞きましょう」
ハンナが慌てて私を止めた。そうして降りたばかりだというのにまた竜に乗せられることになった。
「キーエ」
竜だって疲れてるよね。
「キーエ!」
いえ、仲間が増えてはしゃいでいるだけでした。
男たちは仲間が一人捕まったというのに、取引の成功にはしゃいだ様子だ。
「しっかしな、四侯のうちの淡紫は本当に初めて見たぜ」
「なんだよ、他の三侯は見たことあんのかよ」
「ねえな」
「しょうがねえな」
そうして笑い、しかし、
「虚族が活発になる時間だ。急ぐぞ」
と、森のそばから草原に向かおうとした。その時、ヴン、という、耳障りな音がした。この音は、そうだ、疲れ果てた私はぼんやりした頭で考える。パソコンを、そうパソコンの電源を入れた時のような音。
この世界にパソコンなんてないのに。
ぼんやりとそう思っていたら、男たちの焦った声が聞こえた。
「虚族だ……虚族が出たぞ!」
「急げ! まだ振り切れる!」
虚族? 虚族とはなんだ。突然全速力で走り始めた竜に私たちは声も出ない。ちょっと幼児に対してハードモード過ぎない?
「やばい、振り切れねえ!」
「三体だ! 三体ならハンターなら何とかなるだろ!」
「俺たちはハンターじゃねえから問題なんだろうが!」
「しかたねえ!」
男たちは竜を止めると、私たちをかごから引きずり落した。
「でかい仕事だったがしょうがねえ。落ち合う場所がずれすぎたんだ」
そう言うと、腰のベルトから短剣を抜き取り、いきなり竜の横腹に切りつけた。
「キーエ!」
驚き、前足を振り回す竜を避け、
「お前たちがおとりだ!」
と叫ぶと自分の竜に乗って走り出した。その動きにつられるように、ヴン、と私たちの横を何かの影が通り過ぎた。
「っち、竜が思うように動かねえ、うわ、なんで虚族がこっちに来やがった! あっちに獲物が残ってるだろうが!」
「落ち着け! ローダライトの剣があるだろう」
「そ、そうだ、うわ、待て!」
「キーエ!」
何が起こっているのか、声だけが夜の中響く。その声もガチャガチャと装備の立てる音も、やがて何かにくるまれたようにくぐもったものになり、やがて消えていった。
「虚族。ほんとにいたのね」
立ち尽くし、そのようすを震えながら見ていたハンナがつぶやいた。
「はんな」
「リーリア様、リーリア様」
ハンナは私を抱きしめた。
「弟のためだからと、リーリア様の瞳は貴重だから、どこに行っても大切にされるからなんとかなると、自分に言い訳しても、母や弟に恥じることをしては、結局お日様の中を歩くことはできないんです」
「はんな」
「リーリア様、ごめんなさい。ごめんなさい」
ヴン、とまた音がした。ハンナは私をもう一度ふわりと愛しそうに抱きしめると、私をひっくり返してうつ伏せにした。
「はんな?」
「しっ」
そうして体を丸めて私の上に覆いかぶさる。
「キーエ」
血を流してさっきまで走り回っていた竜も戻ってきて、うずくまる私とハンナを口先でつつくと、そばにそっと座り込み、ハンナごと私を足の間に隠した。まるで卵を温めるみたいに。
「はんな」
「駄目です。何があっても静かにしていてください。ああ、リーリア様のそばで働けて幸せでした」
「はんな!」
「しっ」
ヴン、ヴンと音がして。竜の力がなくなり、ハンナの力が失われ。その恐怖をやがて疲れが上回った私は、いつの間にか眠っていたのだと思う。
「やれやれ、越境者か、それとも人さらいか」
「人さらいだろうな、若くて金髪ときちゃあな。裏では高く売れるだろ」
「けど、なんでこんな森の近くで。案の定虚族にやられてやがる。もったいない」
人の声で目が覚めた時には、もう周りは明るくなっていた。
「まあ、虚族がいたらいたで金になるんだがな、よっし、荷物の回収だ!」
どうしよう、どうしよう。しかし、私の体は動かなかった。もっとも動いたところで幼児では逃げられないだろう。
「あーあ、こんなに若いのにな」
「お前よりは上だろ!」
「そいつはさすがに貴重品以外はそのままにしてやれよ。あと身元の分かるものがあればとっておいてやれ」
「わかった」
その声はまだ少年のものだった。それもお兄様くらいの。
「にーに」
私がつぶやくと同時に、竜がぐっとよけられ、ハンナがそこから引っ張り出された。まぶしい。
「これ! 子ども、いや、赤ちゃんか! バート! こっちに来てくれ!」
「なんだ、アリスター、騒々しい」
「見てくれ」
「なんだと! 子連れだったか。なんといたましい……」
なんだか祈りをささげられそうだ。いや、生きてる、生きてるから! 私は何とか体を動かそうとした。
「キーエ!」
竜がそばにやってきた。
「なんだ、ラグ竜が来たぞ」
「キーエ」
竜がこわばった私の体をぐいぐいと押す。立ちなさいと。立たなければやられるのだとそう言われた気がした。しかし立てない。ころん。私はラグ竜にひっくり返された。
「まぶちい」
口は動くのだった。
「生きてる……生きてるぞ!」
「人と、竜。二重に守られていたからか。いや、今はそれどころじゃない。アリスター、起こせるか」
「はい。おい、お前!」
ゆすらないで、起きてるから!
「みじゅ……」
「みじゅ? 水か!」
私はそっと抱え起こされ、水筒から水を飲まされた。
「ふいー」
やっと体が動くようになった。涙でくっついたまつげを腕でごしごししてはがす。見たくないけど。見なくてはいけないものがあるから。私は目を開けた。周りがハッと息をのむ。
「紫の瞳……」
「これか、これをさらってきたんだな」
そんなことはどうでもいい。ハンナだ。
「はんな」
その私の声に一人が動いて、何かを隠した。でも、顔を隠せても侯爵家のお仕着せの服までは隠せなかった。
「はんな」
手を伸ばしても。
「はんな」
声を大きくしても。
ハンナが返事をすることはもうないのだった。
「うあ、うわ、あー!」
弟のために、お母さんのためにであっても、罪を犯したのはハンナだ。だけど15歳の女の子に他にどんな選択肢があっただろう。この紫の瞳がそんなに良いものなら、なぜ私は始めは肉親にさえ疎まれて、あまつさえこうしてさらわれて大切なものを失わせてしまうのか。
「わあーん。わあー」
中身は子どもではないけれど。だからこそ大人では流せない涙を流そう。精一杯の涙を流そう。




