ミルス湖
「みじゅうみ」
私はベッドから降ろしてもらう。お布団をはがすと、ナタリーがかちんかちんとベッドのあちこちを動かしてあっという間に元の座席に戻してしまった。
「しゅごい」
「練習しましたからね」
ナタリーが珍しく満足そうに頷いた。よほど練習したのだろう。
「リア、座席へ」
「あい」
兄さまに抱きかかえられて、座席に立つと、兄さまと一緒に湖を眺めた。だいぶ前から見えていたのだろう。かなり湖の近くまで来ていたようだ。竜車の窓から見える湖は大きく、向こう岸がはっきりとはわからないほどだった。いや、よく見るとかすんで見えるあれは山だろうか。
「うぇりんとんさんみゃく」
「その通りです。ミルス湖はウェリントン山脈から流れ出る水が集まってできた大きな湖なのです。王都がいくつ入るかと思われるほど大きいのですよ」
「実物を見るまでは、ここまで大きいとは思わなかったな。雄大な景色だ」
ギルも一緒に窓から外を覗いている。しかし、感動だけするには、確かに何かが違う。私は首を傾げ、感覚を研ぎ澄ませた。こういう時は、気配に敏感になるに限るのだ。
「なにか、ちがう」
しかし記憶にある気配だ。私は順番に思い出していく。キングダムに戻ってからの記憶ではない。
ウェスターの領都、違う。草原の町、違う。海の町、そう。そしてウェリントン山脈。懐かしいトレントフォースの町。結界に守られた町。でも、結界の端だから時々は結界が揺らぐ町。
「けっかい、あるけど、よわい」
「それです!」
兄さまがかっと目を見開いた。怖いよ。
キングダムの結界は、揺らがない。王都にいればましてそうだ。ウェスターにいる時は、たまに使う結界箱や自分の結界の中にいる方が不思議な感じだった。しかしキングダムに戻ってからは、結界の中にいるのが当たり前で、結界のない状態を忘れていた。湖と湖の周辺は、少し結界が弱いのだ。
「ウェリントン山脈を越えて向こう側がトレントフォースです。リアの話ではトレントフォースには結界が届いていた。ここで結界が弱っていたら、トレントフォースまで結界は届かないはず。なぜだ」
兄さまは頭がよい。しかし、私はバートたちと旅をしていた時の、虚族の性質を思い出していた。なぜできるだけ川の側でキャンプをしたのか。
「みじゅでしゅ。きょぞく、みじゅ、にがて。おおきなみじゅ、こえりゃれない」
「リア、それは本当ですか。そんなことは聞いたこともないですが」
それはそうだろう。キングダムの中の者が知っていたからといって何の役に立つというのだ。それどころか、辺境ですらハンター以外は知らない知識だ。
「しかし、虚族が水が苦手というのと、結界がここで弱まっているというのは問題が違います」
そうだろうか。虚族は魔力の塊だ。その魔力の塊が水が苦手というなら、魔力が変質しただけの結界の力も、水の上では弱くなってもおかしくはないのではないか。
「にいしゃま。けっかいも、まりょく」
「結界も、魔力の一つの形。リア、そういうことですか」
「あい」
兄さまは納得できないように考え込んでいる。
「あの高くて厚い山脈ですら結界は通す。それなのに、なぜ、水で弱まるのでしょう。ここで弱まっても、山脈のところでまたもとに戻るとでもいうのでしょうか」
残念ながら、私にはそれに答えることはできなかった。私自身も知らないことだったからだ。
「さあ、考えている間に湖に着きそうだぞ。それにしても、俺にはわかんねえな。湖の側だからか、多少湿気があるような気がするが、それだけだ」
「それならそのほうがいいのでしょうが」
結界が弱くても虚族が出ないのなら、特に問題はないのである。
「あしょぶ! おみじゅ!」
「その暇があるといいですが。どうやらお迎えが来ているようですよ」
「ええ……」
不満はあるが、今の私はしょせんニコの付き添い。おまけのようなものである。地元の貴族がニコとアルバート殿下を歓迎したいというのなら、水遊びなどせず、それに付きあうしかないのだ。
「ごはん、おしゃかな。りあ、おしゃかなしゅきでしゅ」
「おしゃかな? ああ、魚か。確かミルス湖では、マスのフライが有名だったような気がする」
「ぎる、えりゃい! よくちってた!」
「お、おう。常識だぞ? 王都に近いから王都でもよく食べられているが。もっとも、湖の側だから新鮮だろうな」
遊べないならご飯を楽しみにしよう。結界が弱くても、お魚がおいしければどうでもいいのである。
ウェスターから帰ってきた時のように、四侯だけであれば、私たちもちやほやされたかもしれない。しかし、王族が、しかも王の孫にあたる王子が王都から出たという価値に比べたら、私たちなど路傍の石のようなものであった。
私たちも一応礼は尽くされたが、ニコとアルバート殿下への歓迎ぶりはすごかった。
当主の挨拶に、いつものように鷹揚に頷き、きちんとした対応をしていたニコだったが、その目がちらりと湖の方へ向いたのに気づいていたのは私だけだったかもしれない。
当主の館についたのは夕方になろうとする頃だった。そこから旅の汚れを落とし、当主一家だけでなく地元の有力者との挨拶、会食、その間中、お相手と称して10歳以下と思われる貴族の子どもたちがニコにはあてがわれる。
それは扱いが今一つといえ、私たちも同じことで、特に兄さまとギルは、着飾った女の子たちに囲まれてお相手をするのに大変そうだった。私はと言えば、
「おしゃかな、もうひとちゅ、くだしゃい」
私はどうしたかって? どうやら、ちょうど合う年頃の男の子がいなかったらしく、放っておかれているのである。ありがたい。
ギルの言った通り、新鮮なマスは絶品で、特にたっぷりの油で揚げ焼きした大きなマスに、レモンのような柑橘類を絞った料理は頬が落ちるかと思った。私にはきれいに切り分けられた小さな一皿が出されたが、それだけでは足りない。もう少し食べたいのである。
「お嬢様、この後に、ウェリ栗のケーキも出ますよ。お腹をあけておかなくて大丈夫ですか?」
お代わりを頼んだ給仕の人がこっそりと教えてくれた。
「うぇりぐり! だいしゅき!」
「ここら辺の特産ですからね」
「あい!」
私は小さい声で頷いた。給仕の人が怒られたら困るからだ。しかし、ウェリ栗はウェスターの名産ではなかったか。ほどほどにお腹を空けておいた私は、少し首を傾げながらも、栗のケーキを思う存分に食べられたのだった。
それでも夜はまだ続くらしい。兄さまたちは大変だが、私は戻ることになった。
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