1 アッペルトフト娼館門前にて
「お嬢さん」
「……」
「そちらの美しいお嬢さん」
「はい」
美しくも禍々しい扉のドアベルを鳴らそうとしていたオリヴィアは、誰かにそう呼ばれて顔を上げた。
男性が二人。老齢とおよそ30代くらいの、身なりのいい紳士たちがオリヴィアに歩み寄って帽子を取り、紳士的な距離を置いて足を止めた。
「そちらが悪名高きアッペルトフト娼館の扉とご存じのうえで、そのベルを鳴らすおつもりですか」
「ええ。男の天国、女の地獄。一度入れば命あるうちには二度と日の光を浴びられぬ代わりに、厳しいお眼鏡に適えば家のものに金貨50枚を気前よく払ってくれる淫欲の商人の館の扉と存じたうえで、今まさにベルを鳴らすつもりでおりました」
「あなたのような美しいお嬢様が、なにゆえに」
「大商社の父が、国の威信をかけた品を海外に運ぶ途中で嵐に巻き込まれました。大船十隻と自身の命を失い、屋敷と財産は全て没収。路上に放り出され母が病に倒れ、弟と妹はまだ未成年でございますの」
「お気の毒に」
「よくある話ですわ」
老紳士はじっと、オリヴィアを頭の先から爪先まで見た。
「美しいお嬢さん」
「はい」
「どうせなら我が家の主人のために死んでくれませんか。うちなら金貨100枚出しましょう」
「お支払いの時期は?」
「前50枚、成果報酬50枚でいかがでしょう」
にっこりとオリヴィアは微笑んだ。この紳士たちが身に着けているものの総額を、おそらくオリヴィアは正確に言い当てることができる。
高そうに見えない高いものをさらりと着こなす、身分はおそらく使用人。この人たちの主人は金持ちだ。
「謹んでお受けいたします。今の内容、念のため紙に書いてくださいまし」
微笑み、オリヴィアはゆったりと礼をした。
クラース=オールステット、21歳
古くから王家に伝わる古文書を読み解く、歴史学者の家系の一人息子。
父も母もすでにこの世になく、屋敷の一室に閉じこもり、数人の使用人だけを置き、自身は一日中書と向き合って暮らしているという。
「失礼ですがお嬢さんはおいくつで?」
「17になります」
「花の時期でございますな」
「はい。短い短い、花の時期でございます」
微笑むオリヴィアを、老齢の紳士がじっと見る。
なお皆馬車の中だ。ことことと揺れている。
「おっしゃることに嘘がないかは人をやって調べますので、正直にお話しください」
「わたくし嘘は申しあげません。ご自由にお調べになってください」
オリヴィアは紳士たちを見た。
「申し遅れました。わたくしオリヴィア=アシェル。アシェル商会の娘でございました。つい先月まで」
あっと二人は声を上げた。一人の男が立ち上げた商社の、勢いのある大出世ののちの大悲劇。皆、面白おかしく御存じなのであろう。
オリヴィアはそれを何一つ恥ずかしいとは思わない。父は何か汚いことや悪いことをしたわけではない。どんな大きな商社に育っても、あの人はいつだって勇気ある立派な海の男だった。
その精悍な顔を思い出し、胸が痛んだ。大仕事だと張り切っていた。誇っていた。沈みゆく船の中で、父はどんなに無念だっただろうと思う。
「家の事情は先ほど申した通り。前金は家に運んでくださいますか。家にはもう薬代がないのです」
「わかりました。屋敷に着くころには調べもつきましょうから、なるべく早く」
「お願いします。わたくしに甲斐性がないせいで、出るときに作ったスープがなくなったら、あの子たちはもう、明日食べるものすらないのです」
オリヴィアは頭を下げた。紳士たちが目を合わせ、そっとオリヴィアの肩に触れる。
「おやめください。本当ならば頭を下げねばならぬのは、我々の方なのです」
「……死ねとおっしゃいましたね」
「はい。あなた様には死んでいただかねばならぬのです」
「……お話しください」
そうして紳士は語り出した。
クラースの祖父の時代に起きたことだ。
祖父の名はアードルフ。有能な学者であったが、彼は妻を迎えたのち、真実の愛に目覚めてしまった。
「ろくでもない予感がいたしますわ」
「そうでしょう」
うんうんと若いほうの紳士が頷いた。
「あ、失礼名乗っておりませんでした。オールステット家の使用人、兼クラース様の助手の、コニーと申します」
「同じくトビアスでございます」
「トビアス様、コニー様、よろしくお願いいたします」
「おやめくださいませ奥様」
「あら? 嫌な予感がするわ」
そうしてトビアスが語りに戻る。
祖父アードルフが妻に迎えたのは、貴族の娘であった。名をカミラという。
気位の高い彼女は、夫が書斎にこもりきりで自分を顧みないことを苦々しく思い、その態度は日を追うごとに棘だらけ。二人の間に夫婦らしいあたたかなものは何もない。
安らぎを求め外に出たアードルフは、夕暮れの路上で美しい花売りに出会う。
「あー……」
「口説き文句は『この、世界で一番美しい花が欲しい』」
「あー…………」
女を囲い、アードルフは通った。
そのうちに彼女との間に子ができた。アードルフによく似た男の子だ。
夫の態度に不信感を募らせていたカミラはある日その事実に気づいた。夫の書斎で、彼女宛の手紙を見つけてしまったのである。
「そこはちゃんと隠しておきなさいな!」
「ねえ」
カミラは呪った。彼女の生家に伝わる呪術をもってして。
銀の針を己の身に刺す。流れた血を小瓶に溜め、針はそこに浸しておく。
毎夜毎夜、全100夜。その針を呪いたい相手のいる家のなかのどこかに隠し、最後の仕上げに、己の命を断つことでその呪いは完成する。その針が屋敷の中にある限り、カミラの呪いが解けることはない。
「彼女は自分の寝室で毒をあおり、死んでいたそうです。『カミラの100滴の血はオールステット家を三代呪う。オールステットの男が愛した女は、12月の満月の夜に死ぬ』と書置きを残して」
「……女の呪いでございますね」
そこはシンプルに『死ねアードルフ』でよかった気がする。だがそこで、夫が愛した女と子を呪いたくなるのが、女というものなのであろう。
花売りは12月の満月の夜に別邸で死んだ。子だけが残され、その子はオールステット家の跡取りとなった。クラースの父である。
「アードルフ氏はおいくつまで御存命でしたの?」
「50の歳に、流行り病にかかりまして。ところでここがポイントなのですが」
「はい」
「花売りの死後、アードルフ様はまた真実の愛に目覚めまして」
「ずいぶんとロマンティックなお方ですわね」
「はいお恥ずかしい。後妻にその方を屋敷にお迎えになったのです」
「加えて無神経」
「はい。ところがその方には何事も起こらなかった。どうやらカミラの呪いの効果は一度だけだったようだと安堵したものです」
それまでスキャンダルらしいスキャンダルのないまま、長年王家に寵愛されていたオールステット家の醜聞。『カミラの呪い』は終息したかに見えた。花売りとの間に生まれた男の子、クラースの父も充分に父の才を継ぎ、優秀な学者の片鱗を見せていた。
「クラース様の父セリシオ様は真面目なお方であらせられました。18で順当に妻を迎え、アードルフ様のような真実の愛に目覚めることなくまっすぐにこの方を愛しました。そして愛された妻は12月の満月の夜に、死にました」
「……」
「クラース様の御兄弟を、その腹に入れたまま。むごいことでございました」
「……」
「『三代呪う』と言うからには、カミラはオールステットの血を絶やすつもりまではなかったとみえる。むしろこうして長くアードルフ様の醜聞を世間に続かせることこそがあの女の狙いだったのやもしれません。その後セリシオ様も後妻を迎え、やはりこの方には何の障りもなく、クラース様を産み落とされました。ですが不幸なことにクラース様が6歳の頃事故にて儚くなり、セリシオ様もまたクラース様18歳の夏、病にてこの世を去られました」
「……お寂しいでしょうね、クラース様は」
「はい。表面上は飄々とされておいででしたが、仲の良いご家族でしたので、心のうちはおそらく」
「……クラース様はまだ『真実の愛』に目覚めておられませんの?」
「クラース様は女性を見たことがございません」
「はい?」
「徹底的に遠ざけ、目に映さぬと決めておられるのです。カミラの呪いで死ぬ女性が、もう現れぬようにと」
「……」
「屋敷に籠りきり、書と生きておられます。年頃になれば変わるだろう。我々にもそう思っていた時期がございました。とんだ勘違いでございます。葡萄酒を飲んだことがないものが『ああ葡萄酒飲みたい』と思わぬのと同様。なんの障りもなく今日もクラース様は書と生きておられる。このままではオールステットの血と才が途切れてしまうと、我々が勝手に、このように動いておるのです。先代がそのためにと残した金貨を使って」
「……クラース様に、葡萄酒の味を覚えさせるために」
「……左様でございます」
三代祟るカミラの呪いは消え去り、葡萄酒の味を覚えたクラース坊ちゃんが、『葡萄酒おかわり』と言い出すように。
なるほど。とてもわかりやすかった。
「12月の満月の夜にわたくしが死に、三代祟ったカミラの呪いは消え去り後妻を迎えてめでたしめでたし。そういう筋書きでございますね」
「はい」
「金貨100枚など出さずに、そのへんの娘さんをだまくらかしておしまいにしようとはお思いになられませんでしたの?」
「我々にも、後味というものがございます」
「そうね。お金があるからできることですけれど」
だから彼らはあそこで待っていたのだ。せめて『死んでもいいからお金が欲しい』と思う者に、この仕事を頼もうと。そっちのほうが残された者の気が楽だから。
オールステットはお金を出してでも誰かに死んでもらわなくてはならない。オリヴィアは死んでもいいからお金が欲しい。釣り合いのとれた話だ。
「12月までお屋敷にいることが前金分のお仕事、クラース様に愛されて死に、カミラの呪いを終わらせることが成功報酬分のお仕事、そういうことでございますね」
「はい」
オリヴィアは微笑んだ。
「そういうことでしたらわたくし全力でクラース様を篭絡いたしますわ。奥様とおっしゃいましたが、籍も入れねばなりませんの?」
「堂々と大きな声で外に発表できますからな。『結婚した。妻が死んだ』……カミラの三代にわたる呪いはもう終わったのだと。そうでなくては次がするんと来ない」
「なるほど。そうですね」
金貨100枚。悪くない話。
否、あの娼館でぼろ雑巾のようにされたうえ半死で川に投げ捨てられる予定だったことを思えば、こんなにいい話はないだろう。
「それでは、12月まで。どうぞよろしくお願いいたします。トビアス様、コニー様」
「よろしくお願いいたします」
「……」
「どうしたコニー」
「いえ……」
コニーの顔を見て、くすりとオリヴィアは微笑んだ。
「『最初の葡萄酒がこんなに上等じゃ、逆に気の毒だなクラース様』とお思いでして?」
「読心術の免許をお持ちで?」
「父にくっついて、大人の駆け引きを見て育ちました。わたくしオリヴィア=アシェル。持てる限りの技を持って、クラース様の愛を得るよう努力いたしますので、皆様ご協力の程お願いいたします」
「たぶん何もしなくても瞬殺だと思いますよ」
「そうだといいんですけれど」
「お、そろそろでございますよ」
大きな屋敷の門が開く。
伝統を感じる、レンガ造りの美しい屋敷。
「ようこそ、オールステットへ」
そしてさようなら世界、と、オリヴィアは微笑んだ。




