第36話 光のあとで
刻々と移り変わる色の波が寄せては返していき、やがてそれも遠のいていく。
光の届かない闇に覆われたその世界は、天も地も音すらも無い、意識の水底。
ただ静寂のみに抱かれて、訪れたものは恐怖ではなく、その対に座す、安堵。
流れゆく時間の感覚はおろか、自己の存在すらも認識できない。
眠っているのか死んでいるのかさえ、今は何一つ分からない。
思考はもはや意味を成さず、あるとすれば唯一、無、のみ。
無とは一体、何のことだったのか。
一体とは、何を差す言葉なのか。
言葉、とはどんな意味なのか。
いみはもう、なにも、ない。
………………。
…………。
……。
?
なに?
なにかが。
何かがふれた。
何かが聴こえた。
か、のん?
それは、何?
意味は、ないの?
ううん、意味は無くても、
きっと大事なものだった、気がする。
だって、他でもないあの子が、
私のことをそう呼んでくれたんだから。
誰も知らない世界で初めて目覚めた、あの時のように。
「カノン!」
次の瞬間、何処から伝わって来た熱によって、再び感覚を取り戻したカノンと呼ばれた存在が感じたものは、柔らかさと少しの重み。前者はとても心地が良いもので、後者はまるで何かが覆い被さっているような、そんな感覚だった。
そしてやがて緩やかに開かれた世界で最初に映しだされたものは、見知らぬ誰かではなく、誰よりも知っている顔がいつかと同じように、しかしそのいつかよりは遥かに近く、目睫の間にまで寄り添っている光景だった。
「う……」
「――っ、カノン! 息を……! 息をしてみせて!」
「すぅ……はぁ……」
「やった……やったわよエリス! カノンが……カノンが息を吹き返したわ!」
次第に明瞭となっていく意識の中で、カノンと呼ばれた少女は自己を再認識し、自らが椛音であることをようやく想い出し、そして自身の目前に居る少女がミルルであり、更にその後ろに笑顔を浮かべて佇んでいる人物がエリスであることが判った。
「二人、とも……いったい、ここ、は……?」
「もう大丈夫よ、カノン。その、正直に言って、私やエリスにも、何が起きたのかは全く判らなかった、けれど――」
ミルルによると彼女は、エピストゥラの医務室にティナを預けたエリスと共に、同船の上甲板へと向かい、其処から椛音を残したままの輸送船から放たれた不思議な輝きの拡がりを眺めていた矢先に、突如として周囲の空域全体が七色の光に包み込まれ、一時は何も視認できない状態だったものの、その光の中でとても暖かい温もりのようなものを彼女達は揃って感じ取ったという。
それからややあって光が過ぎ去ったあと、其処に在ったはずの輸送船は既に影も形も無くなっており、その代わりに辺りを遊弋する雲の群れが壮麗な極彩色に染め上げられ、さらに先程まで空域を席巻していた光が小さな粒のようになって緩やかに地上へと降り注ぐ光景が広がっていたのだと、ミルルは続けた。
そしてその中で、同じように宙をゆっくりと下っていく人影を遠くに見つけたミルルは、間もなくそれが椛音であることを認めるや否や、傍らで自らと同様に一部始終を眺めていたエリスと共に椛音のもとに急行し、彼女と協力しながらその身体を空中で受け止め、地上まで安全に導くことに成功したのだと語った。
「でも、ここに辿り着いた時に、カノンが息をしていないことに、エリスが気が付いて、私もそれを確認した。そこからはもう、無我夢中で、蘇生を……したの」
「そせい……ってことは、私、死ぬ寸前だった、ってこと?」
「そう。原因はおそらく、瞑力を一度に喪失したことによるショックで、瞑核が停止して、生体にもその影響が、心肺停止という形で表れた、ということだと思う。だからミルルが急遽、蘇生処置として、口伝いに、カノンに瞑力を注ぎ込んだんだ」
「え……口、づたい……?」
椛音は実際にその言葉を口にして、先に感じた何処か心地よく、そして柔らかい感触の正体がミルルの唇であったことを悟ったと同時に、その全身が奥底から急激に熱くなっていくような感覚を覚えた。
「し、仕方……無い、じゃない! その、あの時は、それしか思いつかなかったん、だから! 人の命を救うって時に、恥ずかしいも何も、ないでしょう!」
そう言ったミルルの顔は、口伝いという行為そのものを今になって椛音以上に意識したのか、頬はおろかその耳までもが火照ったようにすっかりと紅く染まっており、どうにも面映ゆいといった色を湛えながら空を仰いでいた。
「う、うん……そう、だよね! あ、ありがとう、ミルル、ちゃん。私のこと、必死になって、助けてくれて。それと……私の名前をまた、呼んでくれて」
「えっ、名前?」
「そう、名前。きっとミルルちゃんが私の名前を呼んでくれたからこそ、私はまた、こうして、目を覚ますことが、出来たんだと思う。だから……ありがとう」
椛音はそう言いながら自身の身体を起こし、立ち上がろうとしたが、まだその四肢に上手く力を入れることが叶わず、すぐに膝を付きそうになったものの、それに気付いたミルルがいち早く反応し、倒れそうになった彼女の身体をその腕で支えた。
「カノン、大丈夫……? 立てる?」
「ごめんね、まだちょっと、力が上手く入らなくって」
「それなら私も、肩を貸すよ」
そうして左側をミルル、そして右側をエリスが支えるといった形で、ようやく椛音は地面から立ち上がり、ふと自分が降ってきた空の彼方に視線を投げかけた。
「うわぁ……すごく、綺麗……」
椛音が見上げた先には、虹のように移り変わる光が見渡す限りの空一面に広がり、そしてまた、其処から降り注ぐ七色の煌めきが雪のようにひらひらと揺れ舞いながら、宙に踊る花弁の如き緩やかな速度で地上にまで到達し、まるでこの世のものとは思えない奇景を世界そのものを画布として描き出しているようだった。
「暖かい……」
椛音が、天から降りて来るその光の粒をその手に取ると、其処に僅かばかりの熱だけを残してまたすぐに元の空へと還っていく様子だったが、彼女はそこから伝わった人肌のように柔らかな温もりに、安堵感のようなものを感じ取ることが出来た。
「この優しい光、ずっと空や山の向こうにまで届いているみたい。きっとこれが、カノンが言ってた、人を想う気持ち……のあらわれ、なのかな」
「きっとミルルの言う通り、だと思う。そしてこの、光が、人と人とが繋がり合うことで、初めて生み出される、人間の可能性、そのものなのかも、知れない」
そう言いながら傍らに立つミルル、エリスと共に、眼前に広がっている偉観を恰も時を忘れたかのように半ば恍惚として眺望し続けた椛音だったが、やがてそんな彼女達のもとに見覚えのある流線型の物体が姿を現し、そしてそれは三人が並んで立っていた牧草地と思しき場所に、程無く着陸した。
「あれは、さっきまで私達が乗ってた船だ……ということは――」
椛音が言い終わるよりも先にその船から降りて来たのは、彼女が想像していた通りの人物だった。
「ご無事で何よりです、カノンさん」
「やっぱり! シルファさんだ」
シルファによると、椛音のもとに独断で急行したエリス達を見送るしかなかった一方で、周囲の空域に浄罪の雨に相当するウイルスの分子が残留していないかどうかを重力波等の観測にも利用する超高感度センサーを活用し、可能な限り詳細に分析したところ未検出という判定が二度に渡って出たため、すぐさまエリス達が降りて行ったルートを辿り、此処にやって来たのだと語った。
「不思議なことに、輸送船に搭載されていたはずのウイルスの反応は、何処にも認められませんでした。かといって、機体ごと別次元に転移させられたような形跡も無く、文字通り消滅した、としか言いようがありません」
「私……上手く、やれ、たんだ」
「上手く、なんてもんじゃないわ。完璧、よ、カノン。本当に、ありがとう」
ミルルはそう椛音に言いながら、そのまま右手でサムズアップの形を作って見せ、さらにその左目からウインクを彼女へと送った。
「あなたが、命を賭けてまで救ってくれた……この世界を、大事にしようとしない奴は、これから私が自慢の大槌で叩き潰すから! 安心してね、カノン」
椛音は、きっと該当する人物が居れば、本当に叩き潰すであろうミルルの笑顔に対して微笑みを返しながらも、あの時自身の総てを賭してでもこの今に繋がる答えを選んで本当に良かった、と心からそう感じ、その気持ちを噛み締めていた。
「さぁ、カノンさん、お身体のこともありますから、ひとまずはこの船で、医療機関へと参りましょう」
「ええ、それが良いわカノン。エリスの妹さんも少し衰弱しているし、あとはあのエレナって人も含めて、まずは病院まで送り届けてあげないと、いけないからね。ここから近くのソル・マジョールまで飛べば、一際大きな中央病院があるはずよ」
「うん、分かった。それじゃ行こっか、ミルルちゃん、エリスちゃん」
「ん……了解」
そうして椛音が船内へと向かって歩き出した直後、傍らのミルルが彼女の方を向きながら唐突にその口を開いた。
「あ、カノン、どうせなら私、医務室までおんぶしていってあげるよ?」
「ううん、支えて貰うだけで、十分歩けるから、別に大丈夫、だよ」
「お姫様抱っこの方が良いって言うなら、そっちでも私は全然――」
「い、いいよ! このままで、大丈夫、だから……!」
エリスはその二人をやり取りを間近で見ながら、何処か不思議そうな表情を浮かべていたが、やがて少しの間を置いてから、くすりと控えめな音を鳴らした。
「うん? エリスちゃん、どうしたの?」
「いや……別に、何でも、ないよ」
そして椛音達を収容した船――エピストゥラは、再び宙へと舞い上がり、山の稜線を軽々と飛び越えると、七色に染まりきった美しい穹窿を渡り始め、その途中で一度だけきらりと閃くや否や、その彼方へと向かって一気に空を駆け抜けていった。
淡い一筋の軌跡だけを、その後に煌めかせながら。




