プロローグ
「……ん、雨ぇ?」
夏の夜。
それまで昏々と眠りについていたその少女が、不意に訪れた妙な感覚に、その双眸を開かされた。
しかしその眠りを妨げたのは、熱帯夜が齎す暑さではない。
それは閉じていたはずの瞼、その奥で眠る瞳に、雨の雫を垂らされたような不可思議な感覚。まだ昏い意識の泉に落ちた雫は波紋となり、冷たいようで熱い温度が全身へと流れる。
それは、重く閉ざされていた彼女の両瞼を否応なしに持ち上げ、微睡みの余韻すらも赦すことはなく、ほんの数秒前まで継続的に失われていた彼女の意識を瞬間的に再構築させた。
「あれ、まだ夜、なの……?」
少女の名前は、彩月椛音。年齢は十一歳。
仄かに桜色が差す長い金の髪に、淡い川蝉色の瞳を燈す、小学五年生の女の子。
特筆すべき点として、母親は日本人であるが、父親は北欧の生まれであるため、彼女はいわゆるハーフとして生まれた。なお兄弟には二つ下の妹――澪音がいる。
椛音はこれまで何不自由のない生活を送ってきたが、今から遡ること約二週間前に父親の仕事の関係でそれまで暮らしてきた土地より遠く離れ、海に幅広く面する対外貿易の盛んな玉響市へと急遽引っ越し、学校は同市において進学校として名が知れている私立翠巒学園の初等部に転入した。
現在はその学校が夏休みに入った直後であり、椛音は翌日の朝から新たに友達となった、神河瀬玲奈というクラスメイトの家に初めて遊びに行く予定になっていたため、時計の針が午後十一時を少し回った頃には少し浮かれた気分のままで既に寝息を立てていた。
「参ったなぁ……私、一度でも夜中に目が覚めちゃうと、中々寝れなくなっちゃうタイプなのに」
椛音はそう呟きながらベッドからその身を起こすと、ひとまず気分転換に夜風でも浴びようと、その手をすぐ傍にある窓へと伸ばし、そのままガラリと開けた。
「あれ? 意外と涼しいかも」
空調は就寝前からタイマー設定がされており、椛音の目が覚めた時には既に切れていたため、部屋の中は少しだけ蒸し暑く感じられたが、その開けた窓からは肌に極めて心地よい感触を持った、新鮮で冷涼な夜風が次から次へと入ってくる。
そしてふと月明かりで浮かび上がった時計に彼女が目を配ると、暗がりの中で蛍光色に燈る針が、午前三時を少し回った辺りを指していた。
「うぅん、朝まではかなり長いなぁ。でも寝なおすのはちょっと無理そう、かも」
窓枠に頬杖を突きながら、少し欠けた月と星々の瞬き以外は認められない夜空を何となしに眺めていた椛音だったが、その視線の先に蒼白い光の尾を引く物体が突如として現れ、近くの林道を抜けた先にある丘の方へと比較的緩やかに流れていくのが見て取れた。
「何あれ? もしかして、流れ星……にしては、ちょっとゆっくり過ぎ?」
椛音自身には、流星と思しきその光の軌跡がかなり緩やかな速度を保ったまま、やがて真っ直ぐに暗い丘の向こう側へと落ちていったように見えた。
「お、落ちた? あの辺りって確か自然公園だったはず」
そのまましばらく思案した椛音だったが、ついには降って湧いた好奇心に押し切られ、間もなく普段着に着替えると、長い髪をお気に入りの白いリボンで素早く左側に結い、自らのスマートフォンと家と自転車の鍵だけを持って、誤って家族を起こさないようにしんと静まり返った家の中を忍び足で歩きながら、ひっそりと自宅から抜け出した。
(ちょっと確認しにいくだけなら別に大丈夫だよね。あのままベッドに戻ったって、どうせすぐには眠れないだろうし、何より自転車で行けば割とすぐのところだもん)
***
夜の道は家の中と同様、ただただ静寂に包まれている。日中には活気のあった商店街も今では不気味な程に静まり返っており、大通りに出ても車の光はほとんど見受けられない。
椛音の耳に入ってくる音といえば、遠くから時折聴こえて来る犬の鳴き声と、先程から彼女自身が漕いでいる自転車の車輪が発する回転音ぐらいのものであった。こんな時間に外出するのは椛音にとっては生まれて初めてのことである。
(まぁ、この辺りにはまだ街灯があるからそれ程でもないけど、もう少し先の林道なんてほとんど真っ暗だろうし、この時間帯に通るのはちょっと気持ち悪いかも)
そうこうしている内に、椛音の漕ぐ自転車は目的地である丘に通じる林道へ差しかかろうとしていた。そこさえ抜けてしまえば、その先に比較的広く照明も多い『緑ヶ丘自然公園』がある。
其処に至るまでの道筋は幾つもあるはずだったが、まだ土地勘の浅い彼女が知っていたのは少し勾配のある林道のみであった。しかしその道中には照明となるものが月の光を除いて一切存在しないため、夜間はかなり忌避的な雰囲気を醸し出していたのである。
「う……夜だとかなり気持ち悪い場所だなぁ、ここ」
林道は途中からちょっとした坂道になっていたが、少しでも早く丘の上に辿り着けるように、椛音はペダルを踏み込む力を一層強くして、車輪の回転数を上げた。
そして数分後、椛音の自転車は、目的地である自然公園へと辿り着いた。
公園の敷地内では、等間隔に配置された照明により、一定の明るさがあるため、椛音が林道を走っていた時に感じていた薄気味の悪さは、大分和らいできていた。
「さっき流れ星みたいなのが落ちていったのは、多分この公園内のはずだけど、一体どの辺りに落ちたんだろう?」
少し弾んだ気持ちに後押しされながら、椛音は自転車で草根を掻き分けて行く。
「どこにもないなぁ……流れ星。いや、落ちたらもう隕石だったかな?」
公園内をしばらく観て回ってはみたものの、やはりその全体が水を打ったような静けさに支配されているだけであり、いくら辺りを見渡してみても何かが燃えていたり、破壊されていたりするような光景などは何処にも見受けられない。
「まさか公園に落ちる前に、完全に燃え尽きちゃったとか? でも実際になんにもないってことは、普通に無駄足だったってことだし……はは、本当こんな時間に何しに来たんだろ」
せっかくの苦労がただの徒労に終わり、期待感が脱力感へと変わっていく。そんな中で椛音は、徐に自身のスマートフォンをポケットから取り出し、現在時刻をそっと確認する。
「やば、もう四時前じゃない! このままだと、明日せれなちゃんのところに行くのが遅れちゃいそうだし、さすがにそろそろ帰らなきゃ」
そう言って椛音が踵を返そうとしたまさにその時、何か妙な音が彼女の耳ではなく、その頭の中に響き渡った。
「えっ、今の音は……何?」
椛音は眉間に皺を寄せながら辺りを数回睥睨すると、その意識を不可思議な反響音が今もなお聞こえ続ける、頭の中へと傾け始めた。
(こは――)
それは傍らで自転車の車輪が織り成す回転音とは程遠く、
(の組成が――)
先程から時折耳に届いていた梟の鳴き声とも明らかに違うもの。
(ここの――では)
だが彼女はそれが、一体何の音なのかを知っていた。
(存在を――できない)
何故ならその音は人間の肉声、そのものだったからである。




