第32話
音が聞こえる。その音は水の雫の垂れる音とも、心臓の鼓動とも聞こえるが、それらとは全く異なる機械的な音が俺の頭の中を反響している。
その音はまるで何かを俺を調べるかのように反響して、頭蓋骨に当たればその音は次第に大きくなり、頭が割れそうなほどの音になる頃には俺の中にある不快感は苦痛に変わっている。
叫び出したいくらいの音量なる頃には、目をギュッと瞑って無感覚を演じるが顔は歪んでしまうのは仕方のない事だろう。
早く終われ、早く終わってくれ。そう願うだけで、それ以外の方法はなかった。
ただ時間の無慈悲な流れに身を任せて、時間の経過こそこれを終了させる方法だった。
目を瞑って、寝る時は、最近いつも悪夢を見る。
あのキノコ雲の光景を、村人たちの怨念を、カブールで跋扈する悪鬼たちの姿を。
悪夢ばかり見過ぎて俺は寝る事すら恐れ始め、ここ最近はずっと寝ていなかった。たくさんの眠剤を入れようと、浴びるほど酒を鯨飲しようと悪夢は俺に付きまとう。
だったらもう眠らない方がいい。そう決めて眠剤を断ち、アルコールを断ってそれで患うのは、譫妄と極度の緊張そして振戦。
最悪なタイミングで最悪な症状が最悪な組み合わせで出てくるので、俺も参って来ていた。
こんな事今までなかった。だって病院だと適切な治療とカウンセリングを常時受けられるからそんな心配もなく、ぬくぬくとその環境に慣れ親しんできた。
だがここは戦場に最も近い場所でカウンセリングも、薬物療法も十全とは言えない場所で安静とは最も程遠いい場所なんだから、悪化もする。
だが、これを誰かに相談しようなんて殊勝な心掛けもなくただ心の奥底に沈めて自らを痛めつけていくしかなかったのだ。
月一の身体メンテでいつもの超音波刺激で脳の活動の計測で、この棺桶のような機材に詰め込まれ、この人ひとりがようやく入れる棺桶には少々狭いこれに入れ込まれ頭に超音波を喰らっているのは、偏に俺が未だにピューパ素子の影響が表れていないのが原因であった。
俺に注入されたピューパ素子は頑ななようで未だに変化をもたらしてくれず、あれやこれやと検査検査、調査調査の連続。この超音波検査機だって一環だった。
閉所恐怖症じゃないにしてもここは狭すぎだ。それに加えて音なのか振動かよく分からないそれで頭の中を調べられたなら気が変になっても仕方ないだろう。
『超音波検査終了だ。もう出ていいぞ』
ドクの声に俺はそこから飛び出て、外の新鮮とは言い難い空気を肺一杯に吸い込んで深呼吸する。やっぱり、これはあまり続けたくない検査だ。
体からじっとりとした汗が滴り検査着に汗の跡が浮いている。
病院が嫌だ嫌だの年頃じゃないにしても病院は嫌いだ。だって俺の知らない所で俺の体の分からない部分を弄ってくるから不気味でならない。
それが俺の健康の為だとしても生理的に受け付けないからこそ、こんな異常な発汗を起こしている。腸内カメラなんて以ての外、レントゲンなんてもっと嫌だ。
人の中身は見えないから良いんであって、それが見えるのが不快だ。
「もう行っていいぞ。検査はこれで終わりだ」
俺は胸を撫で下ろし、大きく背伸びをしてあの棺桶の中で凝り固まった筋肉を解す。
さあ今日は何をするか。久方ぶりの休日で、前回の休日はカブール大殺戮で返上しているからに約三週間ぶりの休暇と言う事になる。
俺は検査着を脱ぎ捨て、上半身裸のズボンとクロックススタイルで基地の売店に向かってエナジードリンクを買って、果たして何をするかと考えていると。
「もう一回言ってみろ! 。比嘉!」
怒鳴り声が聞こえてくるではないか。
ああ。なんだなんだ……。一体何事かと俺はエナジードリンクの蓋を開けその声のする方へ向かうと。
いつにも増して剣呑な雰囲気の葛藤さんが柊の胸倉を掴み上げているじゃないか。
おいおい、マジでどうした。
「早く戦争になったらいいのにって言ってんのアタシは!」
「戦争がどんなものかも知らないでよくもそんな事を言えるものだな。お前は!」
「言って何が悪いのさ! 。戦争が起こった方がアタシたちのlikeになるじゃない!」
「お前……!」
喧々言い争っていたのは、柊と葛藤さんだった。
たぶん何となくだが予想が付く、柊が余計なこと言ったんだ。
あの様子からするに、アフガン解放戦線に核が渡っちゃえばいいのにーとか、パキスタンとインド全面戦争起こせばいい稼ぎになるのにー、とか言ったんだろう。
ここに来て葛藤さんはやけに神経質になっているのは俺の目から見ても確かであるのに、あの借金女は無神経を心得ているからに思った事をすぐ口にしてそれが葛藤さんの地雷を踏み抜いたんだろう。
嗚呼ヤダヤダ争いごとだなんて。仕事以外で争うほど俺にそんな元気はないし、関わる気にもなれなかった。
物陰に隠れて、俺はその言い争いを聴きぐびぐびとエナジードリンクを呑んだ。
「戦争して何がいけないのさ! 。アタシたちは傭兵、戦争が無きゃ生きていけない人間じゃん!」
「戦争なんてない方がいいに決まってるだろ! 。それを率先してしたいなんて、馬鹿の言う事だぞ!」
「じゃあアタシに飢え死ねっての? 。責任持てんのかよ!」
「この、死にたがりが!」
パンと乾いた音が響いたので俺もチラッと見ると、葛藤さんがついに手を上げていた。柊の頬を張ったようでそれを喰らって柊は倒れていた。
「死にたきゃ勝手に首括れ、人を巻き込むな!」
その一言にキッと睨み返す柊であったが、その眼には涙をいっぱい貯めていて、今にも大声で泣きだしかねない様子が見てとれるので俺は耳を塞いで見るが、その声はせず柊は逃げるようにその場を後にする。
全く、元気がよろしい事だろう。感性と言う感性が捻て壊れてしまっている俺にはこうした争いごとの一切が面倒な事に感じられる。
フランシス班長が争いを聞きつけたのか来て葛藤さんに話かけているが、俺と来たら無関心無関係を装い、只いるだけの存在として振舞う。
「見てたら止めたら?」
「お前が止めろよ。俺は面倒事は勘弁だ」
いつの間にか俺の隣にいた紙白がそう言うので俺はそう言い返した。紙白も勘弁と言った様子で俺と同じで無関係を装っている。根っこの部分では同じなんだから、わざわざ俺に止めに入ったら? 。なんて見え透いた質問するなってんだ。
「君たち、そこでいつまで観客を決め込んでいる気だい? 。班の問題ならみんなで解決しないかい?」
そう班長が呼ぶので俺達も渋々出て行き、バツの悪いその雰囲気に俺は頭を掻いた。
「……情けない所を見せた」
「良いっすよ。人なんですし怒るのは普通じゃないっすか?」
俺は他人事のようにそう言い。さも当然のような当たり障りのない慰めの言葉を言う。自分で言っていて本当に驚くほど白々しい言葉に呆れてしまうのは当然だろうと思っていたが、葛藤さんには刺さったようで顔を伏せて落ち込んでいる様子だった。
湿っぽいのはこれだからいやだ、さっさと離れよう。
「ちょっと柊の様子見てきますわ」
そう言い、柊が戻ったであろう宿営舎に向かって足を向けた。
足も重い、あんなことがあったばかりだし何より泣き出した女程面倒臭い生き物はいない。男には女の涙はめっぽう弱いのが相場が決まっていて俺にもそれは当て嵌る。
泣いた女と子供ほど、どう手を付けていいのか分からない者はいない。そう思ってしまうほど俺は泣いた女は嫌いであり、面倒だ。
が、班員の事だ。
バタフライ・ドリーム班の運営に支障が出るのも目に見えているに、柊の機嫌も取ってやらねばなるまいて。葛藤さんもカッカしているが、ああ見えて俺達の中で最年長だし、班長のお叱りもあって落ち着くであろうと思わる。
だが柊はそうではない、年の功もないし俺よりも年下だと反発したくなる気持ちもあるんだろう。つい口に出た何気ない事に嫌事言われれば言い返したくなるのが若ゆえだろう。
柊の部屋の前で俺はノックしてアイツの顔を見ようかとした瞬間、バンと扉が開いて俺の顔面に扉がぶつかったではないか。
「いっ──ったあ!」
「あ。ご、ごめん」
あまりにも勢いよく開けたに俺の鼻がひん曲がって鼻血が出た。
ぽたぽたっと滴った鼻血、その赤々とした血にハエが集る姿を見て顔を顰める。
鼻を押さえ顔を上げると、目の周りを赤く腫らした柊がティッシュを渡してくる。
「なんか用?」
「いや、お前、泣いて行くとこ見えたから」
鼻を啜ってそっぽを向く柊はずんずんと進んでいくんで、俺は呼び止めようとする。
「おいどこ行くんだ!」
「どこでもいいでしょ!」
「たく……俺に当たるなよ……」
ティッシュを鼻に詰めて柊を追いかける。
コイツ、ホントに脚早い。ピューパ素子の影響で脚力が上がってるのは知っていたが、ここまで速いとは。
俺はバテバテで肩で息をしている中で柊は基地の駐車場に行き備品部から一台の車を借りていた。
「はァ、はァ。どこ行くんだよ。離班は違約金が発生するぞ」
「別に離班する気ないし。気分転換よ」
車を出そうとするので俺がその運転座席を先に占拠した。
「どこ行くんだ」
「なんでアンタが座るの……一人にさせてよ」
「ふざけるな。あんな後で一人にさせられるかってんだ」
俺が強くそう言うので、柊も食い下がる事が出来ない様子だった。
俺は煙草を咥えて行くのか行かないのか催促するように火を付け、スパスパとその煙を柊に浴びせかけると、小さな声で柊は言う。
「東に行って、国境超えてパキスタンのペシャーワルの街。ドラゴレース場があるからそこに向かって……」
「あいよ」
車のエンジンを掛け走り出す。
ワールドマップを開くとジャラーラーバード地区からペシャーワルまでは百キロあるかないかだ。ぶっ飛ばせばすぐ着く距離だったから俺は調子こいて速度を出して、柊が行きたいと言うそのドラゴレース場へとノンストップで走る。
高速を使って二時間程度だろうか、車を走らせ国境線を越えペシャーワルの街の外にあるドラゴレース場と到着する。
「ほら着いたぞ」
ツンとした様子でレース場を見て動かない柊に、俺は面倒と言うのが一番の感想だった。機嫌の悪い女は泣いた女の次に俺と相性が良くない。ほったらかす訳にも今回はいかないので俺は訊く。
「賭けてこないのか? 。ドラゴレースなら博打だろ」
「そうだけど……いい」
「賭けないのか? 。じゃあなんで来た?」
「音、聞きたくて」
「音?」
俺はドラゴレース場の方を見て見る音と言う音はジェット機の轟くような風切り音と観客たちの歓声の声だった。
ドラゴレースと言えば今を輝く小学生の成りたい職業第一位のそれだし、見ていて飽きる事はないだろう。ドラゴがジェット機背負って突っ走る姿は俺もネット配信でだが見た事あって確かに盛り上がる。
競馬や競輪、モータースポーツの花形、柊の大好きな博打の代表格みたいなところがあるのに、柊はどこか懐かしさすら感じる様子でレース場の外を見ていた。
「アタシの父さん。ドラグーン・レーサーだったんだ」
「マジか。じゃあ尚の事見たいだろ?」
「うん。でも競技者の身内がレースには賭けられないの知ってる? 。アタシは身内だったから賭けられなくて、ずっと那覇レース場の外で見てた」
「ふーん……で」
「父さんの奔りは凄いってみんな言ってたけど、那覇レース場って、ヤクザとか半グレが取り仕切ってるから八百長が酷かったの。でも父さんの奔りは凄かった、スマホ越しに見ても凄かった、誰よりも早かったし誰よりも操作が巧かった。でも、八百長で負けろって言われてたレースでも本気を出して勝ったもんだから、疎まれてた」
コイツの親父がドラグーン・レーサーと言う事はドラゴの操縦技術は親父譲りって事か、俺以上にドラゴの適性が高かったのはそのせいか。
柊は腫れた目で懐かしそうにレースの音を聞入る。
「だから、メカニックに変なのが混じって事故って死んだんだ」
「それ、事件だろ?」
「ドラグーン・レーサーの死亡事故なんて年中無休だし、何しろ那覇レース場は悪名が高すぎて警察も介入してこなかった。散々ドラゴに散財していいパーツなりジェット積んで借金返さないといけなかったのに、死んじゃった……」
「そいつは……ご愁傷様だ」
「アタシ間違ってるかな。戦争起こってみーんな消えちゃえばいいってたまに思うんだけど。アタシって間違ってる?」
難しい質問だ。確かに全てが煩わしくて俺もたまに全部消えろとか思う事はあるが、それよりも先に俺の場合は死にたいが勝るから判らないと言うのが本音だった。
だが、柊は消してしまいたいんだ。借金も、この世の中も。
それを一概に悪い事とは言わない。俺はもう人でないだし、誰かをとやかく言う権利はない。
承継の里心に浸る柊に俺から言える事はなかった。浸らせてやるくらいの猶予は幾らでもあった、なんせ今日は休日だから。
「間違っちゃいねえよ。俺達は銃撃って人殺して金稼ぐ職業に付いちまったんだから」
煙草を咥えて言う俺に柊はこっちを見て聞いてくる。
「なんでこの仕事選んだの? 。賢吾は」
「俺か? 。まあ、likeの為ってのが一番だけど、たぶん逃げたかったんだ。俺が鬱って言う現実から、それを取り巻く環境から」
「ふーん……なんかあったの?」
「何もなかった。何もなくて何もしなかったからおかしくなった。だから何かしたかったんだ俺はここにいたぞって言う事実を残したくて、仕事に就いた」
「生きてて苦しくない?」
「死にたいくらい苦しいさ。でも死ねない、死んだらそれまでだからな」
煙草に火を付け深く紫煙を吸い、俺は一息ついた。
「何でもいいけどよ。葛藤さんの前ではそのこと言うなよ、あの人核の件でただでさえ神経質になってんだから、火に油注ぐのはあんまりお勧めしないぞ。年長者として言っとく」
「五歳しか変わらんじゃん」
「その五歳の年の功が俺にはある、騙されたと思ってよ。たまには口喧しく喋くり倒すより寡黙にいる方が得な時だってある」
「倉敷っちってさ」
「ん?」
「モテなかったでしょ。性格のせいで」
「うるせえな……まあ、モテたと思った事は一度もないけど、今言うか」
「じゃあ──」
瞬間、柊が俺の唇に己の唇を重ねてきて、固まってしまう。
「これの意味も分からないんだ」
「…………」
「鈍感さん。あー! 。何か馬鹿らしくなってきた、人生初めてのドラゴレースで賭けて見るわ」
そう言い車を降りる柊に未だに思考がフリーズして呼び止められなかった。
意味、意味──はァ? 。
いや、キスされた意味って、なんだ? 。
俺はその感触を忘れようと煙草に口を付けて紫煙をフーっと吐くとその意味も噛み含んで考えてみるが、その意味なんて、なんなんだ? 。
「分からん。女と言うのは」
分からん。本当に分からん話だ。
女ってのはやっぱり男とは違う思考の中で生きていて理解し合えるものがいるのが不思議なくらいだ。男女の契りと夫婦となる人間に俺は尊敬する。
他人を受け入れる勇気を、その度量を。




