20 「狂犬」のお願い①
結婚後三日目からは、エドウィンも騎士団に復帰することになっていた。
「王女の婿」であれば仕事を辞めて妻と一緒に公務を行うことが多くなるけれど、彼はあくまでも「姫の婿」だ。私自身サイネリアたちほど公務は多くないし、それと同様にエドウィンもずっと城でデスクワークをしなければならないわけではない。
私がサイネリアに呼ばれたときとかは基本一人で本城に出向き、パーティーなどのときはエドウィンを呼んで一緒に行けばいい。だからエドウィンは基本的に騎士としての仕事を続ければいいんだ。「カトレア姫を守る一番の騎士として常に鍛錬する」というすばらしい建前もできるから、女王陛下やカトレアからも推奨されている。その分、戦地でぽっくり死なれたら困るから、どうしても遠征任務などは少なくなるらしい。
「あの……ですね。カトレア様」
「はい」
「お願いがございます」
そう言って、エドウィンはベッドの上で正座をした。なんでこんなヨーロッパ風の世界観で正座――と思ったけれど、「シークレット・プリンセス」を開発したのは日本の企業だし、土下座と同じようにそういうこともあるんだろうと流す。
朝一緒に起き、キティを呼ぶ前にちょっとお喋りしていたら、今日からのエドウィンの行動スケジュールに関する話題になった。そうすると彼は何かを決意したかのようにきりっと表情を引き締め、こうして私の目の前で正座をするに至ったのだ。
なんとなく私もノリで正座をしたら、「カトレア様はいいです」と言われたので、お言葉に甘えてそのまま両足をずらし、楽な姿勢をさせてもらう。
「……えーっとですね。今日から俺、仕事が再開するんです」
「そのようですね。気を付けて行ってきてくださいね」
「んっ……え、ええ。もちろんです! それで、ですね……」
最初からどことなく言葉のキレが悪かったけれど、いよいよ彼はもごもごと口ごもり、「いや」「でもやっぱ……」と私から視線を逸らしてなにやら呟き始めた。私はあえて先を促したりせず、彼が自分から話すのを待つことにした。
「……その、カトレア様もご多忙のことと思いますし、本当に、よかったらでいいんです。お時間があったらでいいんですけど……お、お見送り、してくれませんか……?」
「お見送りですか?」
今にも消え去りそうな彼の言葉を聞き取り、念のため聞き返す。
それはつまり、仕事に行くエドウィンを「いってらっしゃい」と送り出してほしいということだろうか。
彼は真っ赤になって頷き、まだ結っていないため首の横ではらはら零れる自分の髪をいじりながら言う。
「お、俺の両親はすっごく仲がよくて、毎朝仕事に行く親父――じゃなかった、父を母が見送っていたんです。子どもながらに、それが羨ましいな、って思ってて。俺も結婚したら嫁さんにそうしてもらえたらな、って思ってたんです」
ごにょごにょと彼が語るのは、初耳のエピソードだった。
ゲームのイベントで、彼が自分の両親について語る場面があったと思う。ただ、「俺が住んでいた町は八年くらい前に流行病が流行して、両親は死んでしまいましたが」と軽く触れられるくらいだ。「カトレア」になってからも、それ以上の話を聞くことはなかった。
でも、両親について語るときのエドウィンの表情スチルは穏やかなものだった。親子仲は悪くなかったんだな、というのはゲームプレイ当時から感じられたものだ。
なるほど、と私は頷く。それくらいならおやすいご用だ。
「もちろんいいですよ。……実は私も、そういったことに憧れていまして」
「マジっすか!? ……あ、いえ、その、嬉しいです! あー、よかった! 断られなくて!」
「断ったりしませんよ。……その、私も朝からサイネリア様に呼ばれたり本城に泊まったりすることもあるかもしれないので、毎日は約束できませんが」
「もちろんです。本当に、カトレア様の気が向いたとき、時間のあるときで構いませんので。……ああ、よかった! これなら俺、仕事に行くやる気が起きそうです!」
「大げさですよ」
両手を挙げて歓喜の声を上げるエドウィンを見ていると、自然と私の頬も緩む。エドウィンのことは可愛い弟のようなものだと思っているから、こんな感じで少しずつステップを踏んでいけたらいいな。
……と思って油断していた。
「そんなことないです! あ、そうだ。お見送りのときには、アレもお願いしますね!」
「アレとは?」
「いってらっしゃいのちゅーですよ! 鉄板でしょう!」
さっきまでの遠慮がちな態度はどこに行ったのか、一度私からオッケーをもらった彼は無敵状態のようだ。
彼は正座の姿勢のまま両手を前につき、きらきらの目で私の顔を覗き込んできた。頬は相変わらず赤いけれど、丸く見開かれた灰色の目は期待に満ちている。私が「それは無理」なんて言わないと信じている人の眼差しだ。
……いや、ちょっと待って。
「い、いってらっしゃいのちゅー?」
「そうです! あなたからキスをもらえたら、その日の俺は調子抜群ですよ! いやぁ、これは騎士団の先輩から聞いた『夫婦仲良好のポイント』なんですが、あなたと交際してからはずっとこれを夢見ていたんです!」
騎士団の先輩、余計な知識を。
だが彼は動揺する私を見ても目を輝かせたままで、私が内心むちゃくちゃ焦っていることには気づいていないようだ。
いってらっしゃいの……そ、それは確かに男の浪漫かもしれない。エドウィンはキス魔キャラらしく、ゲームのスペシャルエピソードで主人公にチュッチュしまくっていたっけ。あと、痕を付けるのがお好きらしい。
「カトレア」は控えめで恥ずかしがり屋なので、自分からエドウィンにキスをすることはなかった。だから今後も「恥ずかしいから作戦」で押し通せるかな、なんてことも思っていたのに、早速壁出現だ。
キスをする……きっとこの場合頬でもいいんだろうけど、私がエドウィンに――ようやく弟のようだと思えるようになった人に、毎朝キスをする――
正直……きつい。
彼にキスをするのが嫌ってわけじゃない。でも……倫理的にも何の問題もないはずなのに、ものすごい罪を犯している気分になる。
それは、私がジルベール様に未練たらたらだからだろう。
倫理的に問題があるのはこっちの方なのに……。
……悶々と考える間も、エドウィンはきらきらの笑顔で私を見ていた。それはまるで、おやつを前にしてご主人様の「よし」を待つわんこのよう。
でも私があまりにも長考しているからか、彼の頭部に見える三角耳がだんだん萎れ、元気よく左右に振られていた尻尾がへたっとベッドに伸び、灰色の目がどんよりと曇っていった。
「……すみません。そこまで悩まれるとは……お嫌でしたか?」
「え!? い、いえ、まさか! その……想像してみたらちょっと恥ずかしくなってきて……」
この世の終わりのような悲しい声で尋ねられるものだから、私は焦って言い訳した。恥ずかしい、というのも全くの嘘じゃないはずだ。
するとエドウィンは見るからにほっとし、茶色の尻尾をぱさりと振った。
「あ……そうでしたか。それもそうですよね。でも俺、恥ずかしそうにキスしてくださるカトレア様のお顔を拝見したいんです」
「うっ……」
「だめ、ですか? 俺、あなたからのキスがほしいんです。今は他には我が儘は言いませんから、これくらい……お許しいただけませんか?」
心底申し訳なさそうな顔で、捨てられた子犬のような眼差しで言われると――私の良心がグサグサ刺され、同時に母性本能のような何かがゆさゆさ揺さぶられる。
おかしい。こういうあざとい手を使うのはエドウィンではなくアルジャーノンのはずなのに。
この四年間でアルジャーノンと一緒にいる時間も増え、彼から余計なスキルを受け継いでしまったのか!? 分かっていてやっているアルジャーノンより、無意識っぽいエドウィンの方が数倍たちが悪い。
ここまで追い込まれた私が取るべき道は、一つだけ。
「……分かり、ました」
「カトレア様……! ありがとうございます!」
私がぼそぼそと答えたとたん、エドウィンはぱあっと顔を明るくして私に抱きついてきた。不安定な格好で座っていた私は小さく悲鳴を上げて後ろに倒れてしまう――けれど、エドウィンに抱きしめられた格好だったからさして痛い思いをせずにベッドに寝ころぶ形になった。
「ああ、よかった! これで俺、毎朝元気に出勤できそうです! 愛しています、カトレア様!」
「っ……私も愛しているわ、エディ」
嘘つきな私は、下手くそな嘘をつく。
私を純粋に慕い、愛し、守ってくれるこの人を傷つけないために。




