レベルアップしたみたいです

玄関のドアに手をかける。

ただそれだけの動作なのに、ひどく重たい。

――一か月間、このドアは開かれていなかった。

もしかしたら「お前なんか出てくるな」と外の世界に拒絶されているのかもしれない。……いや、そんなファンタジーめいた考え、ありえないのは分かってる。分かってるんだけど、今の私にはやけにリアルに思えた。

「……よし」

小さく呟き、ノブを捻る。

ギィィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、その隙間から暴力的なまでの光が差し込んだ。

「うっ、眩しっ……！」

思わず腕で顔を庇う。

ずっとカーテンを閉め切った部屋に引きこもっていた目には、太陽の光は刃物そのものだ。涙で視界がにじみ、しばらくは外の景色にピントが合わない。

一か月ぶりに吸い込む空気は、濃い緑の匂いがした。湿った土の香りも混じり合っていて、肺にまとわりつく。……森の匂いだ。

けれど、妙に静かだった。

普段なら遠くの車のエンジン音とか、上空を飛ぶ飛行機の残響とか、なにかしら人工的な音が混じるはずなのに。今聞こえるのは、木々を揺らす風と鳥の声だけ。世界のBGMが、環境音オンリーに設定されたかのような、不自然な静けさ。

「……まあ、平日の昼間だし、こんなもんか」

自分に言い訳をしながら、玄関に放置してあった薄汚れたスニーカーに足を突っ込む。

心臓が無駄にうるさい。たかが買い物に行くだけだぞ。……いや、今の私にとっては大冒険なんだけど。

第一歩を外の世界へ。

自宅から麓の町へ続くのは、舗装すらされていない獣道みたいな山道だ。祖父母が生きていた頃はまだ整備されていたらしいが、今じゃ誰も使わないただの古道。

その古道が、記憶にあるよりさらに荒れ果てていた。

「うわ、草ぼうぼう……。役場の人、仕事サボってない？」

ぼやきながら草をかき分ける。蜘蛛の巣が顔にまとわりついて、思わず変な声が漏れた。やっぱ帰ろうかな……いやダメだ、食料がない。

そんな自分との押し問答を続けながら、十分ほど歩いただろうか。

木々の隙間から光が差し、視界が開けた瞬間。私は、信じられない光景を目にした。

――白い軽トラックが、道の真ん中で無様にひっくり返っていたのだ。

運転席側のドアはへこみ、フロントガラスは蜘蛛の巣状にヒビが走っている。荷台から落ちたらしい段ボールが、路肩に散乱し、無残に転がっていた。

「……事故？」

なんでこんな山道で？ 崖から落ちたわけでもなく、道のど真ん中で横転って、どういう運転をしたらそうなるんだ。

辺りに人の気配はない。……じゃあ、運転手は？

最悪の想像が頭をよぎり、喉がごくりと鳴る。

「うわぁ……やな展開きた……」

面倒なことに巻き込まれる未来が見えすぎて、踵を返したくなる。けれど、目の前の惨状を完全スルーできるほど私は図太くなかった。

心臓を無駄にドンドン鳴らしながら、私は軽トラへとおそるおそる歩を進めた。

……小説では書き慣れた「サスペンス展開」だけど、実際に体験するのは本気で勘弁してほしい。

「……誰か、いますかー？」

か細い声で呼びかけてみる。返事は、ない。

風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく耳に刺さる。

運転席側へ回り込もうと足を踏み出した、その瞬間だった。

――ぐにゃり。

足の裏に、嫌すぎる感触。

熟れたトマトを踏み潰したような、ぬめっとした柔らかさ。

「ひっ……！？」

慌てて足を跳ね上げ、視線を落とす。

そこに横たわっていたのは……全長三十センチはある、ぬめぬめ光る巨大ミミズ。だったもの。

無惨にも、私のスニーカーの下で圧殺されていた。

「き、きもちわるっ……！」

鳥肌が一気に立つ。咄嗟に近くの木の幹へ靴底を擦り付け、必死にぬめりを落とそうとする。

なにこれ。なんでこんな化け物サイズのミミズが……。感触、まだ残ってる……思い出すだけで吐きそう……。

その嫌悪感で頭がいっぱいになった瞬間。

――ピロン♪

耳に飛び込んできたのは、場違いすぎる電子音。

「え？」

幻聴？ 疲れすぎてとうとう壊れた？

そう思ったのも束の間、視界に半透明の文字が浮かび上がった。

【経験値を獲得しました】

【レベルが上がりました！ Lv.1 → Lv.2】

「…………は？」

いやいや、何そのゲームみたいな表示。私、とうとう幻覚ステージに突入？

経験値？ レベルアップ？ あのミミズで？

さらに文字が切り替わり、詳細ステータス画面っぽい青いウィンドウが現れた。

汐見 凪

Lv. 2 (+1)

HP: 30/30 (+5)

MP: 1250/1250 (+50)

筋力: 7 (+1)

耐久: 9 (+1)

敏捷: 12 (+1)

器用: 16 (+1)

幸運: 180

「……ご丁寧に上昇値まで表示されてるし。芸が細かいな、私の幻覚」

いや、幻覚じゃなかったらどうするよ。

つーか筋力7って何。バカにしてんのか。

それに比べて幸運180ってどういうバランス？ 宝くじ当てろってこと？

レベルが上がったんだから、スキルとか技とか……そういうのも出てきたり？

「……まさかビームとか、出ちゃったりして」

完全に現実逃避。私は軽トラに向かって、人差し指をビシッと突きつけてみた。

「えいっ」

その瞬間。

足元の小石がふわりと浮かび、次の瞬間、甲高い音を立てて弾け飛んだ。

カァンッ！！

軽トラックのドアに、見事な風穴が空いていた。

「……え？」

呆然とする私の視界に、新しいメッセージが点滅する。

【スキル『マインド・バレット』を取得しました】

「…………いやいや、まじでスキル？」

声が震えた。冗談のつもりが、現実になってしまった。

静まり返った山道に、私の呟きだけが浮いていく。

恐る恐るトラックのドアの穴に指を伸ばす。

冷たい金属。縁は熱で歪み、ギザギザが皮膚に食い込む。

「いっ……！」

リアルな痛み。……うん、幻覚じゃない。

自分の手のひらを見つめる。

小説家の、非力で頼りない手。そこから、さっきの「何か」が飛び出した。

これ、アレじゃん。私が書いてきたファンタジー展開、そのまんまじゃん。

「読んでた側」から「当事者」へ。……いやいや、そんな無理ゲーある？

ぞわり、と背筋に悪寒が走った。

異様な静けさ、荒れ果てた山道、ひっくり返った軽トラ。

全部が線で繋がった気がする。ここはもう、私の知ってる日常じゃない。

「……そうだ、運転手さん」

はっとしてトラックの中を覗き込む。

――空っぽだった。

誰もいない。キーは差しっぱなし。助手席にはコンビニ袋が転がり、中身は食べかけのおにぎりとペットボトル。

確かに“さっきまで人がいた”痕跡だけが残されている。

「どこ行ったんだろ……運転手さん」

事故？ ……にしては消え方が不自然すぎる。

まさか夜逃げ？ トラックごと？ 意味がわからない。

ただ一つだけ分かる。

ここに長居するのはマズい。

家に戻れば餓死エンド。ここに留まれば不明なバッドエンド。

「……もう、行くしかないじゃん。町へ」

私は、震える足に力を込めて前を向いた。