第97話 一つ屋根の下で
俺たちが席に着くのを確認してから、上田さんがテーブルの脇に置いてあったスマホを手に取り、操作をしながらも聞く。
「アカウントだが、確か、なつみかんでよかったな」
「そう、なつみかんで」
「プロフィール画像が、なんともかわいらしい、みかんのイラストのやつか?」
俺へと、スマホの画面をかざす。
「そう。それ。フォロー申請をしてもらってもいいか?」
「無論だ」
間髪を容れずに『フォローする』のボタンを押すと、上田さんはスマホをテーブルの上に置いて、まるで確認しろとでも言わんばかりに、俺に差し出した。
画面上には、なつみかんのトップページが表示されている。
先ほどまでは『フォローする』になっていた右上のボタンが、今は『フォロー許可待ち』にしっかりと変わっている。
完璧だ。
今まさに、ドラペや漫画好きだったならば、誰もがうらやむだろう雲の上の存在、ウルヴェル先生が、くるみのアカウントにフォロー申請を送った。
あとは申請がきていることにくるみが気づいて、承認をしてくれれば、今現在のくるみのタイムラインを見ることができる。
見ることができれば、もしかしたら今どこにいるのかとか、どんな状況なのかとか、どんなことを思いどんなことを考えているのかとか、そういった諸々を知ることができるかもしれない。
「さあ、これでいいのだろう?」
口元に笑みを浮かべて、相手の反応をうかがうように首を傾げた上田さんが、俺に手を差し向けながらも言う。
「では次に、我の言うことを聞いてもらおうか」
「もちろん。それで、俺はなにをすればいい?」
「一つ目は既に決まっている」
先ほどキャラ絵を描いていたノートへと目を落とすと、優しくそっと手をのせる。
「実はこの夏、出版社に一本、漫画を持ち込んでみようと考えているのだ。その持ち込み用の原稿の、手伝いをしてほしい」
「漫画を描く、手伝いをしてほしいってことだよね? でも俺、絵とか全然描けないけど」
「問題ない。夏木京矢に頼むのは、誰にでもできる、いわゆる雑用業務だ。消しゴムかけとか、トーン貼りとか」
「まあ、それぐらいなら。……それで、手伝う日っていつか分かる?」
「まだはっきりとは決まっていないが、おそらく八月の後半ぐらいになる予定だ」
スマホを手に取ると、上田さんはラインのQRコードを表示して、俺へと差し出す。
「連絡先を交換しておこう。修羅場の時期が分かり次第、早急に連絡を寄こそうぞ」
「了解。じゃあそんな感じで」
俺もスマホを取り出すと、ラインを開いて、差し出されたQRコードを読み取った。
登録された上田さんの連絡先を見ると、ペンネームである『ウルヴェル』ではなくて、彼女の本名、『上田しおん』とあった。
どうやら完全なる個人アカウントのようだ。
とはいえウルヴェルの中の人といえば中の人だ。
彼女のファンからしたら、おそらくは垂涎ものの連絡先なのだろう。
もちろんウルヴェルに対してさして興味のない俺にとっては、クラスメイトの連絡先が一つ増えただけとしか思わないが。
俺と上田さんが連絡先を交換したのを確認してから、細谷が、若干身を乗り出しつつも言った。
「上田さん、一つ聞いてもいい?」
「うむ。我に答えられることならば」
「さっき出版社に原稿を持ち込むって言ったけど、それってつまり二次創作をやめて、オリジナルを描き始めたってこと?」
「まあ、そういうことになるかな」
「つまり商業誌で、プロを目指すってことだよね?」
「いかにも」
「そうなんだ。なんか意外っていうか」
「意外?」
首を傾げて、一瞬目を閉じてから、今一度細谷を見る。
「して、意外とは?」
「なんていうか、今さらそんなことをする必要がない気がしたから。もう既にその界隈では有名なんだし、出版社からお声がかかるのも時間の問題っていうか」
「いや、そうではないのだよ」
テーブルに肘をつき、組んだ手にあごをのせると、上田さんはなにかを思い出すように、そっと目を伏せる。
「長い間同人でやっていると、オリジナルを描きたいという抑えがたい創作欲求が、どうしても湧き上がってきてしまうものなのだよ。これはおそらく、我だけではないと思う。同人小説を書いている者も、同人音楽をしている者も、皆いつか到達する真理だ」
――皆いつか到達する真理……そういうものなのだろうか。
二次創作どころか、そもそも創作活動をしたことのない俺には、さっぱり分からない。
「というのはもしかしたら、建前なのかもしれない」
組んだ手にあごをのせたままの状態で、上田さんが口元に笑みを浮かべる。
「建前? ということは本音があるの?」
興味深げに細谷が聞く。
「実はな、とある二年の先輩に、二人で組んでオリジナルを描こうと誘われたのだよ。先輩が話を考えて、我が絵を描く。そして夏休み中に出版社に持ち込んで、一旗揚げてやろうと。正直、その誘いがなかったなら、今この段階で、オリジナルに踏み出すことは、まだしなかったかもしれない」
「へえ……なんか、すごいね」
感心した俺が、思わず感嘆の声を上げる。
「ちなみに、どんな感じの話なの?」
「まだシナリオが上がってきていないのではっきりとは言えないが、双子の姉妹に恋をする、とある男子高校生の話だと聞いている」
「つまり、現代が舞台のラブコメってこと?」
「そうだ。ラブコメだ。瓜二つの姉妹という設定ではあるが、直球のラブコメでいくと本人は言っている。だがな……」
中途半端にも言葉を切ると、上田さんがうっすらと笑みを浮かべる。
そしてテーブルから体を起こしてそのまま椅子に背中を預けると、腕を組んで続きを話し始める。
「その先輩、今は男女のラブコメの話を作ってはいるが、つい先日までは、無類のBL好きだったのだよ」
「BLからラブコメに?」
中指で眼鏡を持ち上げた細谷が、眉間にしわを寄せながらも聞く。
「そんな宗旨変えみたいなこと、あり得るのか?」
「うむ。正直我も、初めは驚いたさ。だがな、彼女の話をよくよく聞いて、そういうことかと納得した――いや、納得せざるを得なかった」
「というと?」
「彼女、恋をしたんだ。初めて男子を好きになったとも言っていた。いわゆる初恋というやつだな。結婚したとも言っていたが、まあそれは置いておこう。とにかくそういう事情があり、異性間の愛の素晴らしさに目覚めたと、我は踏んでいる」
……ん? んんん?
一つ上の先輩で……無類のBL好きで……最近結婚したとのたまっている……?
それってよく考えたら、あの人しか思い当たらないのですが、おいらの気のせいでしょうか?
まるで俺の疑問を代言するかのごとく、一ノ瀬さんが質問の言葉を口にする。
「その先輩ってもしかして、山崎鈴さんではなくて?」
「うむ。ご名答だ。そういえば山崎鈴も、生徒会の一員だったな」
や、やっぱりそうですか……。
こんな偶然ってあるもんなんですね。
でもまあ、同じ学校内だし、漫画という共通の趣味があれば、全然あり得ないことでもないのかな?
「しかしあれだな」
椅子から背中を離して、頬杖をついた上田さんが、うかがうようにして俺へと視線を送る。
「夏木京矢と山崎鈴が既に知り合いというのは、実に好都合だな」
「好都合?」
「一つ屋根の下で、長時間、共に作業をするのだ。初対面よりかは既に知った仲の方がやりやすかろう」
「まあ、それはたしか……」
「いく!」
言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、ずっと黙り込んでいた一華が、まるで割り入るように言った。
「は? いくって、どこに?」
「わ、私も……お手伝い、いく……」
「ええとつまりは」
言葉足らずな一華の発言を、俺は頭の中で補完する。
「一華も原稿の手伝いに、きてくれるってことか?」
「うん。そう。私も上田さんの漫画、手伝う」
「そりゃー人手は多い方がいいだろうし、きてくれるのはありがたいけど……」
判断を仰ぐためにも、俺はちらりと上田さんを見る。
「上田さん、どう?」
「…………」
不自然な沈黙。
上田さんは頬杖をついたままの状態で、一華を凝視している。
まばたきをすることもなく、食い入るように。
「ええと……上田さん?」
「貴様」
言うと同時に、音もなく立ち上がる。
そしてそのまま一華へと近づくと、指でつまむようにしてあごを持ち上げて、ぐっと顔をのぞき込む。
口をふにゃふにゃにして、あわあわと怯える一華。
上田さんはというと、そんな一華の思いなどいざ知らずといったていで、なおも一華の顔の観察を続けている。
「ちょっ、上田さん? 一体なにを……」
「貴様、確か同じクラスだったな。名はなんという?」
俺の質問を無視して、上田さんが一華に聞く。
「い、いいい、一華。……小笠原……一華……」
「小笠原一華か。……うむ。いい名だ」
それから上田さんは、一華の髪をかき上げて、まるで盲目の人が他人の顔を調べるように、もう片方の手でぺたぺたと触った。
「や……やめ……やめやめ……うう……」
一華の肩が小さく震えている。
目も涙で潤んでいる。
――限界だ。
そう判断した俺は、ここでようやく助け舟を出す。
「あの、上田さん。一華、怯えてるんで、そろそろ……」
「ああ、そうか。これはすまない」
気づいたように手を離すと、一華の髪を直してから、自分の席に戻る。
そして今一度、組んだ手にあごをのせる先ほどのポーズを取ると、視線だけで俺と一華を交互に見てから、意味深長にも聞く。
「夏木京矢に一つ聞きたいことがあるのだが、いいだろうか?」
「聞きたいこと? 別にいいけど」
「夏木京矢と小笠原一華は、一体どういう関係なのだ?」
「どういう関係?」
改めて聞かれると、俺と一華って一体どういう関係なのだろうか?
親戚? といえばそうなのだろうが、あまりにも遠すぎてどうもピンとこないし、ただの友達というのもなにか違う気がする。
じゃあ一体なんだ?
幼馴染? 腐れ縁? それとも……。
不意に数日前の、あの浜辺でのできごとを思い出す。
一華が俺に膝枕をして、最後に俺との関係性を宣言した、あのできごとを。
ああ。そうか。
俺と一華の関係を表す、もっとも適した言葉があるじゃあないか。
俺はなんのためらいもなく、そのままを口にする。
「主従関係だ。俺は一華の奴隷で、一華は俺の主人」
しーんとした。
俺と一華をのぞいた残り三人が、どこか冷めた目で俺を見つめた。
あれ? また俺なにかやっちゃいました?
「夏木、お前うらやましすぎだろ」
中指で眼鏡を持ち上げながらも、細谷が言う。
は? 細谷お前なに言ってんの?
奴隷のなにがうらやましいんだよ?
「夏木くん、あなたの性癖には心底呆れはてるわね」
まるでごみを見るような目で、一ノ瀬さんが言う。
もうやめて! とっくに俺のライフはゼロよ!
「いや、そうではない」
首を傾げて、まるで俺の発言を振り払うかのように空で手を振ると、上田さんがもう一度聞く。
「家族とか親戚とか、なにかそういう近しい間柄なのかと思ってな」
「ああ、そういうこと。まあ一応、一華とは遠い親戚同士って感じだけど」
「うむ。そうか」
どこか満足げに、口元に笑みを浮かべる。
「実に興味深い」
「え? なにが?」
「いや、なんでもない。それよりも」
一華へと視線を送る。
目が合うと、一華は先ほどの恐怖を思い出したのか、目に見えて表情を強張らせる。
「先ほどの原稿を手伝ってくれるという件だが、是非ともお願いしたい」
「う、うん……」
「こちらとしては断る理由もないし、願ってもない申し出だからな」
「私……頑張る」
自分を鼓舞するように強く口を結ぶと、一華は前で手を握る、いわゆる『ぞいの構え』をして、その場で大きく一人で頷く。
健気だなあ。
本当にかわいらしいやつだ。
いつもの調子で、俺は自然と一華の頭を撫でると、特になにかを期待することもなく、何気なく、聞く。
「ところでどうして一華は突然漫画の手伝いをするだなんて言い出したんだ?」
「ええと……それは……」
頬を染めて、きょろきょろと視線を漂わせる。
「ん? どうして? なにか理由があるんだろ?」
「だ、だから、それは……」
「それは?」
「だって、同じ屋根の下で……ぁぃつとぉ…………」
「え? なに? 聞こえないんだけど」
マジで聞こえなかったので、俺は耳に手を当てて、ぐっと一華へと近づける。
「だからぁ……」
「おう、だから? ……って、これって」
――やばいと思ったが、時既に遅し。
俺は急いで一華から離れようとしたが、残念ながら間に合わなかった。
本日の勝敗、俺の負け。
俺の鼓膜は、無事に消滅する。
「も、もういいでしょ!! しつこい! 京矢なんて、知らない! 知らない知らない知らない!!」
――キーン……。
一華の大声が、店内に響き渡る。
深夜で、お客さんが俺たち以外にいなかったからよかったものの、昼時だったなら、間違いなく店員から注意を受けていたことだろう。
俺は手で耳を押さえると、聴力が戻ってくるまでのしばらくの間、外部の音の一切を遮断した。




