第92話 凡夫と才子
ちょうど、カタログに載っている時計のように、壁にかけられた時計が十時十分三十秒に差しかかった時だ。
突然、俺はある者に声をかけられた。
「ええと、もしかして、夏木?」
振り向くと、そこには紺のパーカーを着た、一人の男子の姿があった。
背は、俺と同じぐらいだ。男子の割には小柄といっていいだろう。
髪は長めで、眼鏡のフレームに少しだけかかっている。
肌は白くて、正直根暗に見えなくもないが、顔が整っているためか、とりあえずは悪い印象はない。
「ああ、確か、同じクラスの…………細谷翔平」
あっぶねー! 名前が出てきてよかった!
向こうが覚えているのに、こっちが覚えていないって、印象最悪だからな。
「でも、どうしてここに?」
「ああ、だって僕、ここでバイトしているから。さっきあがったところ」
「え? そうなの? もしかして調理? 全く見かけなかったから」
「ああ。基本的にはキッチン。たまにホールもやるけど。そんで、同じ制服の人がいるなと思ったから、もしかしてと思って」
「そうなんだ。バイトとかって、偉いな」
「まあ夏休みだし。ていうか、パソコンの部品買いたいから」
『パソコン』じゃあなくて、『パソコンの部品』ってことは、自分で組むってことだよな。
なるほど。
確かに見た目通りだ。
切れ者というか、ハッカーみたいというか。
「あっちの席にも、西高の人いるよ」
細谷は俺たちのいる場所からちょうど対角線上を指さす。
「え? そうなの? 誰が?」
「上田しおん」
「上田しおんって、同じクラスの、あのハーフの? すごい偶然だな」
「いや、上田さんは、この時間は大体ここにいるから」
「そうなの? でもなんで?」
「いつも漫画を描いてる」
「漫画? へえ。すごいね」
俺は背もたれに肘をつくと、上田さんがいるだろう方へと視線を送ってみる。
しかし残念ながら、すりガラスのパーテーションが邪魔をして、見ることができない。
「でも意外。上田さんが漫画を描いているなんて。なんていうかあの子、すごくかわいいだろ? いや、かわいいから漫画を描いちゃいけないとか、そういうことじゃなくってさ」
「え? 夏木、お前知らないのか? 上田さんのこと」
「なにが?」
「彼女、その界隈では結構有名なんだぜ」
「その界隈って?」
「同人誌とか、ピクシブとか。ペンネームは確か……ウルヴェル」
「へ? ウ、ウルヴェル?」
顔を落として、もくもくとジュースを飲んでいた一華が、ウルヴェルという名前に、強い反応を示す。
「ウルヴェルって、あのウルヴェルさん? ……ドラペの同人誌描いたり、同人CDのジャケットを手掛けたりしている」
「うん。多分それ。ええと……確か小笠原さんだよね? もしかして結構好きだったりする?」
「へ!? あ……う、うん……うぅ……」
目をきょろきょろさせながらも、膝の上で手をもじもじさせる一華。
勢いで話しかけたはいいが、やはりコミュ障が発動してしまい、気恥ずかしくなってしまったといったところだろう。
一華の脱陰キャラまでの道のりは、まだまだ遠い。
一華を救うためにも、俺は細谷に話しかける。
「一華が知っているぐらいだし、本当に有名なんだな。俺は同人誌とかピクシブとか全然見ないから、知らなかったけど」
「ツイッターフォロワー数は、なんと驚異の五万人超え」
「五万!? ……ガチでパネェな」
俺なんて一桁だぞ。
つかもう完全に放置で、パスワードすら忘れちまった。
「ああパない。高校生のアマチュアでは本当に驚異的な数字だよ」
まさか俺のクラスに、そんな人がいたとは……。
よく考えたら、西高に入学してからは、ずっと一華につきっきりだったからな。
……あれ? 俺の友達、少なすぎ……!?
「話しているところわるいわね」
俺と細谷との会話に、一ノ瀬さんが割り入る。
「あなた……細谷くんといったかしら? あなたも私たちと同じうちの生徒なのよね?」
「え? あ、は……いっ!?」
一ノ瀬さんの姿を見ると、細谷は見るからに動揺する。
どうしてここに生徒会長が!? という動揺なのか、どうしてここに学校一の美少女が!? という動揺なのか、はたまたどうしてここに変態さんが!? という動揺なのかは、分からないが。
「分かっているとは思うけれど、うちの学校はアルバイト禁止よ。学校側に報告したら、一体どういうことになるか分かっているわよね」
「ひ、ひいっ!」
「夏休み明けの一週間は、おそらくは折檻……特別教室登校になるのは、ほぼ確実かしらね」
「ど、どどど、どうかそれだけはご勘弁を!」
「じゃあ、力を貸しなさい」
「はい?」
「だから、私たちに協力をして、無事に解決することができたなら、見逃してあげるって言っているのよ。つまりは、取引ね」
「言っていることが、よく分からないけど……」
「そうね、取引を受けるかどうかは、内容を聞いてからよね」
あごに手を当てて頷くと、一ノ瀬さんがあいている隣の席をぱんぱんと叩く。
「座ってくれるかしら。説明をするから」
選択の余地はないだろう。
細谷はその眼鏡の向こうに心底嫌な表情を浮かべながらも、仕方がないといった面持ちで腰を下ろした。




