第90話 家庭崩壊の足音
覚悟はしていた。
妹との関係が気まずくなるだろうとは、ある程度は身構えていた。
しかし、まさかこれほどまでにおおごとになってしまうとは、正直思ってもみなかった。
それは、くるみが部屋から出てこなくなってから、三日目のことだ。
外出から戻った俺は、リビングにて、焦燥感漂う声音で、電話をかける母さんの声を聞いた。
「……ええ……はい……そうですか、そちらにもうかがっていませんか……はい……はい分かりました……それでは失礼します」
受話器を下ろしたところで、俺は母さんに聞いた。
「ええと……なにかあった?」
「京矢……」
俺の名前を呼ぶと、母さんは暗い表情でため息をついて、首を小さく横に振る。
そしてそのまま崩れ落ちるようにしてテーブルに腰を下ろすと、肘をついて、手のひらを額に当てる。
今までに見たことのない母さんの様子から、俺は腹の底から湧き上がる不安を感じつつも、母さんの正面に腰を下ろす。
「もしかして、くるみのこと?」
「ええ……そうよ」
「なにかあったの?」
頷いて応えると、母さんはテーブルの上を滑らせるようにして、一枚の紙を差し出す。
それはA4サイズのルーズリーフだった。
俺から見て左側にいくつかの穴があいており、薄い罫線が、積み重なるようにして整然と並んでいる。
受け取ると俺は、ルーズリーフに書かれた文字を、声に出さずに読んだ。
『さがさないでください』
典型的な、家出の文章だ。
ペンかなにかで書いたのだろう。
くるみは左利きであるので、乾く前に触ってしまったインクが、所々に滲んでしまっている。
「家出? いつから?」
「さっき仕事から帰ってきたら、これが机の上に置いてあって……」
俺が出かけたのが昼を少し回ったところだったから、大体その六時間の間に、くるみは部屋から出て、どこかにいってしまったということか。
「友達の家には、電話したんだよね?」
「今、仲のいい子の家には」
「で、結果はだめだったと」
頷いて応える。
となると、一体どこに?
くるみはまだ中学生だ。
極端な言い方をすれば、学校が世界の全てだと言っても過言ではないほどに、子供だ。
となるといける所なんて友達の家ぐらいなものだと思われるが……。
「お父さんがね……」
戸惑ったような弱々しい声で、母さんが話し始める。
「警察に連絡しろって」
「警察に?」
「そう、警察に」
「いなくなったのはまだここ数時間だろ? さすがに時期尚早なんじゃあないか?」
「私もそう言ったんだけど、お父さん聞かなくて。今の時代、なにがあるか分からない。早いに越したことはないって」
「言いたいことは分かるけど……」
「ねえ京矢、どうしたらいい?」
今の母さんは焦っている。
いや、まあ、俺も焦ってはいるけれど、多分母親である母さんの方が、圧倒的だろう。
とにかく落ち着かないと。
少なくとも長男である俺が、現状の最適解を導き出さないと。
「父さんは、母さんに警察に相談しろと言っているだけで、まだ自分からは警察に相談していないんだよね?」
「ええ、多分」
じゃあ、父さんも分かっている。
焦って母さんに口走ったが、心の奥底ではおおごとにしたくない、するべきではないと、理解している。
俺はポケットからスマホを取り出すと、すかさず父さんに電話をかけた。
「あ、父さん? 今母さんから話を聞いたよ。くるみのこと」
『ああ。それで、その後はどうなった?』
「特に進展はなし。友達の家に電話をかけたみたいだけど、どこの家にもいっていないみたい」
『警察はどうなった?』
「そのことなんだけど、ちょっと待ってくれないか?」
『待つってどういうことだ? そんなことをしているうちに、くるみになにかあったらどうする?』
父さんの言いたいことは分かる。
しかしやはり、いなくなってからたったの数時間で、警察に相談するというのは一般的ではないだろう。
早くても二日三日というのが妥当なところだ。
とはいえ今俺が問題にしているのは早い遅いの問題ではない。
警察沙汰にするというその行為そのものだ。
「警察沙汰にしたくないんだ。だってそこまでおおごとになれば、必ず友達に知れるだろ? そうなれば当然学校にも知れる。くるみは今年受験だ。もしも志望校に家出で警察沙汰になったと知れたら、どうなると思う? そんな問題を起こしそうな生徒を、他にも志願者がたくさんいるのに、わざわざ採ろうとは思わないだろ? だから、警察に相談するのは本当に最終手段。あらゆる手をつくして、なにも成果が出なかったその時に」
納得したのか、父さんはうなるような声を出してから、黙った。
――ここだ。
心に迷いが出た、今この瞬間がチャンスだ。
俺は畳みかける。
「二日、時間をくれないか? つまりは今月いっぱい。明後日までにくるみを見つけられなかったら、その時は警察に連絡をする。それまでは俺が、全力でくるみを捜すから」
『……分かった。今月中だ。月を跨いでもくるみが戻らなかったら、即警察に電話をするからな』
その時は、言われるまでもなく、俺が警察に駆け込む。
『京矢……』
最後に父さんは、少しだけ間をあけてから言った。
『くるみのこと、頼んだぞ』
電話が切れると、俺はホーム画面に戻ったスマホに、顔を落とす。
くるみが引きこもったのは、俺のせいだ。
くるみが家出したのは、俺のせいだ。
くるみを追い詰めてしまったのは、俺のせいだ。
全部全部、この俺のせいなんだ。
あの日俺が、一華の姿に女装をしてなっつんさんに会いにいったから。
なっつんさんが妹のくるみと分かって、おせっかいにも、一華とくるみの間を取り持とうとしたから。
一華とくるみの間になにかわだかまりがあると知って、無粋にも探りを入れようとしたから。
全部、俺が悪い。
だから、この俺がくるみを見つけ出して、全部全部、なんとかするんだ。
「京矢、あんたなにか当てでもあるの?」
テーブルに目を落としたままで、母さんが聞く。
「くるみの携帯には電話したんだよね?」
「ええ、したわ。でも出ないの。そうこうするうちにも、そもそもつながらなくなってしまって」
電源を切ったか。
というか、くるみはスマホを持参している。
「部屋は見た? なにかなくなった物は?」
「旅行用の鞄が。多分着替えも、いくらか持っていっていると思う」
鞄と着替えが……?
どこか泊まる当てがあるということか? いや……。
考えを振り払うように首を横に振ると、今一度考えをまとめる。
決めつけや凝り固まった考えは捨てよう。
今はお金さえあれば泊まれる所なんていくらでもある。
上手く年齢をごまかせば、カラオケにだって漫喫にだって泊まれる。
そうでなくても二十四時間営業のファストフード店に朝までいることだってできる。
とにかく糸口が必要だ。
なんでもいい。
とにかくくるみにつながる、小さな糸口を……。
不意に、一華の姿が脳裏に浮かぶ。
どうしてここで一華なのだろう?
俺はさらに思考を進めるためにも、つかみかけたなんたるかを、暗く沈んだ精神の中に探し求める。
すると、イメージが連鎖をするように、次のイメージが意識の表層に持ち上がってくる。
それは先日、一華と一ノ瀬さんの三人で過ごした、あの日の夜の光景だった。
カチリと、ピースがはまった。
無数にあるピースのうちの、たったの一つではあるが。
――ドラペだ。
くるみはドラペにはまっている。
そしてドラペにはギルドがあり、メンバーも一華の他に、あと二人いる。
家族でもない、リアルの友達でもない、でも頻繁にやり取りのある連中ならば、意外にも悩みを打ち明けることができるんじゃあないか?
リアルではしないような話題を、結構気軽に話してしまうのではないか?
場合によっては、家出の手助けをすることだって、あり得るかもしれない。
そうと決まれば――。
「母さん。俺ちょっといってくるよ」
「いくって、どこに?」
「決まっているだろ? くるみを捜しにいってくるんだ」
「そ、そうよね。私ももう少しだけ頑張ってみるから」
「ああ。なにか分かったら連絡する」
踵を返すと、俺は今しがた入ってきた玄関を、飛び出した。




