第89話 破滅に向かって
予期せぬ横からの力により、バランスを崩したヤンキーは、その場に音を立てて倒れ込む。
なにが起きたのか分からない他の二人のヤンキーは、倒れた仲間と、突然現れた俺の姿を交互に見ながらも、顔をしかめている。
「え? 一華? ……なんで?」
両腕を広げて、くるみの前に立った俺へと、くるみがなにがなんだか分からないような声音で聞く。
「どうして私を……かばうの?」
ニ・ゲ・テ。
俺は肩越しにくるみを見ると、声を出さずに口の動きだけで伝える。
「え? でも……」
ハ・ヤ・ク。
「いてえなぁー」
起き上がったヤンキーが、軽く腕をさすってから俺の胸ぐらをつかむ。
「てめえ! なにしてくれてんじゃこらぁ!!」
びりびりと、肌を通してヤンキーの怒声が脳裏に流れ込んでくる。
というか超怖い!
ヤンキーに本気で罵声を浴びせられるのって、想像以上に脳がぴりぴりするんですけど!
「なんとか言えやこらぁ! 無視決め込んでんじゃあねえぞ、あ!?」
く……苦しい。
でも、くるみが逃げてくれれば、それでいい。
ちらりと横目でくるみの方を見ると、くるみはまだそこにいた。
というか、別のヤンキーに再び腕をつかまれて、どこかに連れていかれそうになっている。
考えている暇はない。
俺は片脚をうしろに振ると、振り子を戻す要領で、思いっきり相手の股間を蹴った。
「――かはぁっ……」
声にもならない声を上げたヤンキーが、両手で股間を押さえて、その場に倒れ込む。
構うことなくくるみを振り返ると、俺は一緒に逃げるためにも、くるみの腕を急いでつかむ。
「逃がすかよっ!」
「……ぇ?」
過ぎ去り際に、ヤンキーが俺の腹へと、膝蹴りを食らわせた。
――かはっ……。
一瞬息が止まった俺は、たえきれずにその場に腹を抱いてうずくまる。
「死ねやこらぁ!」
続いて脇腹に蹴り。
「女だからって容赦はしねえ! ぶっ殺してやる!」
続いて頭部にナックル。
「くそ生意気なブス女がよ!」
続いて顔面への蹴り。
やがては股間の痛みから復帰したもう一人のヤンキーも加わり、俺への暴行、俗に言う『フクロ』が、徹底的に、見るも無残に、白昼堂々と行われた。
…………どれぐらい時間がたっただろうか。
うっすらと目を開けると、悪態をつきながらも去る、ヤンキーたちの姿が目に入った。
太陽は、昼間と比べるとだいぶましにはなったが、じりじりと、このアスファルトに覆われた大地を焼いている。
すぐ脇に、見下ろす格好で立っているのは、無事な姿のままのくるみだ。
周囲には通り過ぎてゆく歩行者がいるみたいだが、無情にも、誰も立ち止まらないし、誰も声をかけない。
この国の人々は、いよいよをもって、情けや気遣いをも失ったか。
ああ、日本終了のお知らせだな。
まあ、別にどうでもいいけど。
しかし、なにか様子がおかしい。
なんとも名称し難いが、くるみの様子がすごくおかしい。
一体どうしたというのだろうか?
俺は起き上がろうと、地面に手をつく。
なにかに触れた。
わさっとした、毛の塊のようなものに。
手でつかみ、持ち上げると、それは長い黒髪の、ウィッグだった。
そう、女装のために俺がつけていた、一華の髪型にそっくりな、ウィッグ……。
「え? ……うそ?」
一歩二歩とあとずさりながらも、くるみが聞く。
「……どうして?」
「…………」
なにも言えない。
なにもできない。
俺の脳裏には、どうやってごまかすか、今後どのようなことが起こるのか、どうやってごまかすか、今後どのようなことが起こるのか、が、何度も何度も、文字通り壊れたレコードのように、意味もなく繰り返された。
「お兄ちゃん……だよね?」
首を縦にも振れないし、横にも振れない。
いかなる反応も……できない。
「どうして、そんな格好を……はっ」
緊迫感の漂う声を発したかと思うと、両手で口を覆い、その場に固まる。
そしていやいやとでも言うように首を横に振ると、顔を真赤にして、目に涙を浮かべる。
「じゃ、じゃあ私……全部言っちゃったんだ。全部聞かれちゃったんだ。お兄ちゃんに、私の気持ち、全部ばれちゃったんだ……」
「く……くるみ……」
なにか言わなければと思った俺は、とっさに妹の名前を呼ぶ。
それがいけなかったのかもしれない。
はっきりと、目の前にいるのは兄であると認識させてしまったのか、くるみはびくりと肩を跳ね上げると、間髪を容れずに走り出してしまった。
遠ざかる妹の背中。
やがては人の波に飲まれて、完全に見えなくなってしまう。
残された俺は、ズタボロになった自分自身の姿を見た。
シャツは、一番上のボタンが飛んでしまっている。
ニーソは所々裂けて、痛々しくも血が滲んでしまっている。
今は確認できないが、地面に血が滴った跡があることからも、どこかを切ったか、もしくは鼻血で顔面がべたべたとか、そんな感じなのだろう。
警察を呼んだ方がいいのか? と一瞬頭をかすめたが、すぐにその選択のばからしさに、自分自身で辟易した。
警察に一体なんて説明する?
家族にはなんて説明する?
一華には?
警察を呼んだら呼んだで、色んな意味で意味が分からない、珍事件に成り果ててしまうではないか。
――被害者である夏木京矢は、近所に住む幼馴染、小笠原一華の格好に女装をして、実の妹である夏木くるみとデートに出かけた。帰り際に、三人の男に絡まれた夏木くるみを、兄である夏木京矢が身を挺して助けたら、ひどい暴行の末に女装が解けて、正体がばれてしまった。女装をした夏木京矢のことを、小笠原一華だと完全に思い込んでいた夏木くるみは、デートの最中に、兄への気持ちを告白してしまっていたので、小笠原一華が実は兄である夏木京矢であると知り、深く深く傷つき、その場から、逃げるように立ち去ってしまった。ちなみに、妹である夏木くるみが、兄である夏木京矢に言った告白は、以下の通りである。『私、お兄ちゃんとセックスするから!』
……なんだこれ。
絶対に公にしたくないわ。
あまりの痛さと惨めさに、俺は一人でくすくすと笑うと、盛大に溜息をついてから、とりあえずは一華に服をだめにしてしまったことを謝るためにも、帰途に着いた。




