第88話 DQNが到来
つい昨日までは――いや、くるみからの告白を聞く数十秒前までは、夏木家は、どこにでもある普通の家族だった。
邪魔くさい兄に、うざったい妹。このまま特になにかが起こることもなく、ある一定の距離を保ちつつも、思春期を終えて、互いに丸くなるはずだった。
しかし、しかし今はどうだ?
こんなことを聞かされてしまって、知ってしまって、今まで通りに同じ屋根の下で生活できるのか?
何事もなかったかのように振る舞うことができるのか?
それっていわゆる、『家族ごっこ』をしているということにはならないのか?
いや、そうじゃない。
そうじゃないんだ。
まだ、間に合うんだ。
だってそうだろう。
確かに俺は、くるみの気持ちを知ってしまった。
しかし今のくるみは、俺のことを一華だと思い込んでいる。
つまりはくるみの告白は、以前と変わらずに闇の中に隠れているということだ。
だったら、俺が知ってしまったということ以外は、なにも状況が変わらないじゃあないか。
黙って、このまま墓場まで持ち込めば、今までの関係を崩すことなく、もっと言えば家庭崩壊を招くことなく、一見どこにでもある家庭を、続けることができるじゃあないか。
それでいいんだ。
これでいい。
だから俺が今、くるみに言うべき言葉は――
『うん。分かってる。今日はごめんね。じゃあ……』
スマホをしまうと、俺はくるみの横を通り抜けて、改札の方へと向かった。
そしてそのまま一度も振り返ることなく改札を抜けると、その場に立ち止まり、深く息をはいた。
……かなり、疲れた。
正直もう、今はくるみとは一切かかわりたくない。
だからこのままさっさと電車に乗って、一華の女装を脱ぎ捨てて、もとのお兄ちゃんに戻るんだ。
くるみがいつも言う、『ばか兄』に。
というか、一体俺はなにをしているんだ。
俺の横を素通りする、同い年ぐらいのカップルを見る。
皆は健全にも、純粋な異性同士でいちゃいちゃと夏休みを満喫しているというのに、俺は幼馴染の姿に女装をして、よりにもよって実の妹とデートだぞ。
しまいにはセックスしたいとか告白されて……間違いなく、どこからどう見ても、こんな青春は間違っている!
しかし、これでおしまいと俺自身が決めても、そうは問屋がおろさなかった。
不運が不運を呼び込むように、欠けた歯車が、メカニズム全体を狂わせるように、そしてサイズの合わないタイヤが、やがてはシャフトを焼き切るように、立て続けに、起こるべきではない、起こってはいけないできごとが、勃発してしまったのだ。
「ねえねえ。きみ、きゃわうぃーね。なに? お友達と喧嘩でもしちゃったの?」
振り返ると、絵に描いたようなヤンキーに絡まれる、くるみの姿があった。
ヤンキーは三人で、くるみを取り囲むようにして見下ろしている。
くるみはというと、苦い顔をして視線をそらし続けている。
「俺たちがなぐさめてあげようか?」
「楽しい所知ってるからさー」
「絶対に元気出るよ」
ヤンキーの言葉を無視したくるみが、立ち去ろうと、男と男の間に踏み出す。
しかしすんでのところで、腕を伸ばされて進路を阻まれてしまう。
「ちょっと、どいてよ」
くるみが低い声で言う。
「だからさー、予定なくなっちゃったんでしょ? 俺らと遊ぼうよー」
「遊ぶわけないじゃん」
体の向きを変えて、別のところから逃げようとする。
「私、帰るから」
「はい通しませーん」
ヤンキーの一人が、先ほどと同様に腕で進路を塞ぐ。
「通して」
「なんか食べたいものある? おごるよ」
「通して」
「カラオケとボーリングって言ったら、どっちがいい?」
「大きい声、出すよ」
「あ?」
突然、ヤンキーの雰囲気が変わる。
空気を感じ取ったのか、くるみも一瞬怯えたように肩をすくめる。
「だからさー、誘ってんじゃん」
「いや……だから……」
「俺ら早く遊びにいきたいんだけど」
「私、断ってるし……」
メンチを切ったヤンキー共が、威嚇するようにくるみへと顔を近づける。
――くそっ! くるみ!
なにやってんだ!
早く逃げろよ!
それとも俺が飛び出すか?
いや、それはできない。
こんな格好をしているし、なによりも一華が俺であったとばれたらマジでやばい。
しかし、着替えて戻ってくる時間もないし、というか着替えなんて持ってきてないし……くそっ、くそっくそっ!
そうこうするうちにも、ヤンキー共のくるみに対する態度がどんどんと荒々しくなってゆく。
「もう面倒だからさっさと連れてかね?」
「そうすっか。慣れりゃ、そのうち楽しくなんべ」
「はいはいれっつだごー」
がしっとくるみの華奢な腕をつかむと、無理やりにでも引っ張ってゆくヤンキー共。
くるみはというと、目に涙を浮かべて抗おうと腕を振っている。
誰も助けてくれない。
くるみに彼らを振り払う力はない。
じゃあ一体、誰がくるみを救うんだ?
俺か? 兄である俺なのか?
一瞬、改札越しに、くるみと目が合った。
くるみは泣いていた。
恐怖におののいていた。
助けてほしいと、声にならない声を上げていた。
どうする……どうするどうするどうする……。
いけ!
俺、いけ!
でも!
しかし!
呪縛は解けない。
今の俺は一華なのだという呪縛が。
そしてなによりも、今の一華が、実は兄である俺であったと、絶対にばれてはいけない圧倒的な制約が、勇気という名の無謀さに、ぎりぎりのところで歯止めをかけてしまう。
「……けて」
くるみ……。
「たす……けて」
くるみ……くるみくるみ……。
「助けて! お兄ちゃん!」
――……………………。
糸が切れたように、俺の身体から力が抜けた。
重力から解放されたように、俺の身体から抵抗という名の概念が消滅した。
走り出す俺。
駅員の声を無視して、改札を押しのけるようにして無理やりにでも通ると、疾走の勢いのままに、くるみの腕をつかむヤンキーを、両手で突き飛ばした。




