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第84話 夏の朝の対話

 家の前で一華と分かれると、俺はなっつんさんとの約束の場所へと向かうためにも、駅へと向かい歩を進めた。


 隣には、乾いた制服を身にまとった一ノ瀬さんの姿がある。


 こんなにも暑いのだから、せめて一番上のボタンぐらいははずせばいいのにと思うのだが、一ノ瀬さんはそれをしない。

 しないどころか、緩めることなくリボンまでもしっかりとつけている。


 真面目というか、ばか正直というか……まあ、そこが一ノ瀬さんのいいところと言えるのかもしれないが。


 人気の少ない住宅街から、ちらほらと店もある繁華街に出たところで、周りからひそひそと、俺たちに対する声が聞こえてきた。


「見てみてあの二人。すごく綺麗」

「モデルとかかしら」

「おい健二、お前声かけてみろよ」

「やっば! スマホで撮っていいかな」

「ブッヒー! 近頃のJK、マジパネェでござる!」


 顔を落として、俺は自分の服装を見つめる。

 女装をして、一華の姿になった、なんとも女々しい、そんな俺の姿を。


 丸襟の白シャツに、プリーツの入った黒のスカート。

 脚のごつごつ感を隠すためにニーソックスをはいているが、正直に言えば、熱くて蒸れるので今すぐにでも脱ぎたくて仕方がない。

 本当はこれにカーディガンを羽織る予定だったが……断ってよかった。

 というかこんな炎天下でカーディガンなんて羽織ったら、リアル人間蒸し肉が完成してしまう。


 一ノ瀬さんが俺の手を取ったのは、顔を上げて、やれやれと首を振った、ちょうどその時だった。


「え? ……ええと」


 戸惑った俺は、もう片方の手で頬をかきながらも、一ノ瀬さんへと視線を送る。


 一ノ瀬さんは、頬を染めて俺の顔を見つめている。


 ――え? ええええ!?


 潤んだ瞳。

 しっとりと汗ばんだ手。

 そして握った手は、一本いっぽん指を絡めるようにして、やがては恋人つなぎへと変化してゆく。


 い、一体なにを、考えているんだ? 一ノ瀬さんは……。


「ちょっ、一ノ瀬さん? なにしてるの?」


「はっ」


 気づいたような声を上げてから、一ノ瀬さんは俺の手を振り払い、自らの体を抱くようにして、俺から一歩二歩とあとずさる。


「ちょっ、ちょっと! なに勝手に私の手を握っているのよ! 今度やったら、警察を呼ぶわよ!」


 えええーなにそれ。

 自分からやっておいてひどくね?


「というか、ようはあれだろ? ぼうっと歩いていたら、俺のことが本物の一華に思えてきて、我慢できなくなったっていう」


「ええ、そうよ。わるい?」


 目を閉じて、ぷいっと顔を逸らすと、一ノ瀬さんは一歩二歩と俺に近づいて、また同じ距離感で歩き出す。


「わるいかわるくないかで言えば、まあわるいんじゃあないか? 勝手に勘違いして、勝手に手を握ったんだから」


「もう。そこは『わるくない』ってフォローするのが普通でしょ? 夏木くんは一応男なのだから」


「一応……ですか」


「そう、一応。だって今の夏木くん、どこからどう見ても一華さんにしか見えないのですもの」


「ほめてくれてる?」


「大絶賛よ」


 拝むようにして、胸の前で手を合わせると、一ノ瀬さんはぐうっと顔を寄せて、俺の目をのぞき込む。


「あら、よく見たら夏木くん、きれいな茶色の瞳をしているのね。そこのところは、一華さんとは違うわ」


「一華は何色なの?」


「黒よ。とても深い、落ち着いた黒」


「へえ……他の人の瞳なんて、そんなまじまじと見たことがなかったから」


「他にも色々と知っているわよ。例えば肩甲骨の左下に小さなホクロがあるとか、つむじが若干左にずれているとか、湿気の多い日は右の髪が少しだけ跳ねるとか、犬歯が他の人と比べると少しだけ大きいとか、胸が小さいことを非常に気にしているとか」


 それは知っている。


「微笑む時、必ず一瞬視線を右斜下に落とすとか、あとスリーサイズとか。ちなみにスリーサイズは上から順に……」


「と、とにかく! 一ノ瀬さんは一華のことが好きなんだね」


「ええ。好きよ。大好き。どのくらい好きかというと……」


 人差し指をあごに当てて、空を仰ぐ。


 好きの度合いを表現する、適切な表現を探しているのだろう。


 一ノ瀬さんは青い空に浮かぶ大きな入道雲を見るともなく見つめながらも、まるで独り言を呟くように、かすかに口を動かしている。


「夏木くん」


「うん」


 信号で立ち止まり、眼前に車が走り始めたところで、一ノ瀬さんがようやく口を開いた。


「好きよ」


「ん?」


「私、夏木くんのことが好きよ」


「……は!?」


 確か今は、一華がどのくらい好きかという話をしていたよな。

 どうして俺のことが好きかどうかの話になるんだ?

 もしかしてまた俺のことを一華と勘違いしているのか?

 いや、でも、はっきりと『夏木くん』と言っているしな。

 本当に完全に、わけが分からんぞ。


「ええと……一ノ瀬さんって、俺のこと好きなの?」


「ええ。でも、本人の目の前で簡単に『好き』と口にできてしまうぐらいには、ということだけれども」


「……ああ、そういうことか」


 俺は二の腕を胸の方に押し当てるようにして脇にかいた汗を拭う。


 あー焦った。

 一瞬パニックになって全身に冷や汗が浮かんだわ。


「そういうこと。一華さんの前では好きだなんて絶対に言えない。本気だから。本気だからこそ、好きという言葉はとても大切なの。それに……」


 はにかむように、口元に寂しそうな笑みを浮かべると、一ノ瀬さんは小さく首を横に振る。


「……いえ、なんでもないわ」


 信号が青になったので、俺と一ノ瀬さんは歩き出す。


「それよりも」


「うん」


「さっき夏木くんのことを好きと言ったけれども、勘違いしないでよね。あくまでも生徒会のメンバーとして、友達としてということであって、決して恋愛の対象とか、そういった特別な意味じゃあないから」


「大丈夫。勘違いはしていないから。なんていうか、ありがとう。どんな意味でも、好きって言ってもらえて嬉しいよ」


「どういたしまして」


「でも……」


 言いかけて言葉を飲み込む。


 途切れた言葉に対して不審感でも抱いたのか、一ノ瀬さんが首を傾げて俺へと視線を送る。


「いいの?」


「いいのって、なにが?」


「いや、なんていうか、俺……」


 数日前の、お台場でのことを思い出す。

 俺が純にしでかした、あの過去のことがばれて、ぼこぼこに殴られて、そして皆の心が離れていった、あのできごとを。


「昔純にあんなひどいことをしただろ? それで一華がいじめられて、陰キャのひきこもりになって……」


「ああ、あのこと」


「一華と純には、もっと早く謝るべきだったのに、俺はそれをせずに、ずっと隠して……」


「私は別に気にしないわ」


「そうなの?」


「だって、言ってはいけないことをつい口走ってしまったとか、やってはいけないことをついやってしまったなんてことは、誰しも一度くらいはあるものよね? ましてや小学生という子供の時だったなら、なおさら」


「あ、ああ……」


「それに夏木くんは、とても後悔しているじゃない。後悔して、被害者である一華さんを、本気で支え続けていた。だったらもう、同じ過ちは繰り返さない。そうよね」


「ああ……そうだ……」


 一ノ瀬さんは、俺が一番ほしかった言葉を、言ってくれる。

 一ノ瀬さんは、こんな俺でさえも、肯定して、あまつさえ好きだと言ってくれる。

 すごく……すごく嬉しいし、なんか心が温かい。


 涙がこぼれそうになり、俺は思わず顔を上げる。


 本当に、本当に本当に、いい友達を持ったな。


 一ノ瀬さんとなら、これから先も、ずっとずっと、いい関係でやっていけそうだ。


「一ノ瀬さん、なんていうか、本当にありが……」


 俺の言葉を遮るように、いや、まるで聞こえていないようにして、一ノ瀬さんがぶつぶつと、言った。


「大体渡辺純とかいうマセガキがいけないのよ。小学生の分際で、神聖なる一華さんに恋心を抱くなんて、穢らわしいにもほどがあるわ。ああ、おぞましい。ああ、憎たらしい。汚いオスは、一華さんの半径一万メートル以内に立ち入ってはいけないという、法律を作るべきだわ。そうよ、日本は法治国家なのだから是非作るべきよ」


「あ、あのー……。一ノ瀬さん?」


「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて。とにかくまあ、夏木くんはよくやったわ。むしろほめられてしかるべきよ。小学生のあの時に、夏木くんが渡辺くんのラブレターをやぶってくれていなかったなら、今頃どうなっていたか。夏木くんは、自らリスクを負ってまでして、一華さんという神を――いや、希望を、この社会という名のゴミ溜めから守ったのよ」


「そんな、大げさな」


「大げさかしら? 夏木くんとなら、分かり合えると、そう思ったのだけれど」


「俺となら、分かり合える? どういうこと?」


 俺の質問に、一ノ瀬さんが訝しげな表情を浮かべながらも顔を寄せる。


「わざと……じゃあないのよね?」


「は?」


「そう。……まあ、私にとっては、都合がいいか」


「え? なんだって?」


「別に、なんでもないわ。気にしないで」


 駅に着くと、一ノ瀬さんは改札前にある券売機で切符を購入した。


 まだスイカには残金があるだろうが、ついでなので、俺もすぐ脇にあったチャージ機で数千円分をチャージした。


「じゃあ私、反対側のホームだから」


「ああ」


「昨日今日と、とても楽しかったわ。次は、特になにもなければ、月初めにある林間学校かしら」


「ああ、そういえばそんなのあったな」


「もしかして忘れていたの? しっかりしてよね。一応生徒会での活動もあるのだから」


「マジか。あとでしおり読んでおくよ」


「頼んだわよ」


 言うと一ノ瀬さんは、小さく、まるで蝶が舞うようにひらひらと手を振ってから、階段を上っていった。

 上るたびに揺れる黒くてしなやかな髪が、キラキラと光を反射して綺麗だった。

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