第74話 大切なお願い
一華が目覚めたのは、夕方過ぎのことだった。
部屋を照らすのは、カーテン越しに差し込む、妙に色の濃い橙色の陽の光だけだ。
室内には、一華の立てる衣擦れの音と、クーラーの風の音しか聞こえない。
「起きたか?」
一華は俺を見ると、不思議そうに辺りを見回してから、恐る恐る言った。
「きょ、京矢? どうして京矢がここにいるの……?」
「は? なに言ってんだ? 一華が俺をここに呼んだんじゃあないか」
「へ? 私が?」
布団を引き上げると、口元を隠す。
「昼前ぐらいにいきなり電話かけてきて、『たすけて』って。だから俺は急いできて、そんで薬を飲ませたり、パジャマを替えたり、背中を拭いたり、プリンを食べさしたり」
「へ? え? だってだって……あれは夢の中の話で……」
気づいたように顔を真赤にする。
そして目をうるうるさせると、そのまま布団を頭からかぶり隠れてしまう。
「なにやってんだよ。体調はもういいのか?」
「体調は、だいぶいいと思う」
俺から目を逸らしたままの状態で、ちょこんと布団から顔を出す。
「まだちょっと熱っぽいけど……」
「とりあえず熱測るぞ」
「うん。体温計は……」
一華が言うか言わないかのそんなタイミングで、俺はぐっと身を乗り出して、一華のおでこに俺のおでこをぴたっと当てた。
「うん。昼の時よりかは、だいぶいいかな」
「――だっ」
だ?
「だ、だだだ、だめー!」
叫ぶと同時に、一華は、俺を両手で突き飛ばした。
い、いてえ……。
「と、突然なにするの!? ち、近すぎ!」
「なんだよ!? さっきはお前、のりのりで抱きついてきたじゃねーか!」
「だ、だき……」
沸騰したように頭頂から湯気を出す。
「知らない! 知らない知らない知らない!」
一休さんの桔梗屋かよ。
熱に浮かされて、請求書をびりびりにやぶって、そんで治ったら、そんなことしていないとしらを切り始めた、あの悪徳商人。
まあ、さすがに知っている人はほとんどいないと思うけれど。
「まあいいや。だいぶ体調がよくなったみたいだし、俺そろそろ帰るわ」
「ちょ、ちょっと待って」
立ち上がろうとした俺を、一華が袖をちょこんとつまみ止める。
「昼からってことは、……京矢、ずっとそばにいてくれたの?」
「ん? まあ、そうだけど」
「その……あの……ありがとう」
「別にいいって。俺と一華の仲だろ? 普通普通。じゃあ俺はそろそろ」
しかし一華は袖から手を離さない。
それどころか先ほどよりも強く、まるで獲物を逃さないとでもいうかのごとく、ぎゅっと握っている。
「どうしたんだよ。まだなんかあるのか?」
「うん。ある……」
一華はベッドから出ると、俺の前に、ぺたんと直接床に座る。
パジャマが着崩れているので、片方の肩が少しだけ顕になってしまっている。
しつこい寝癖がついてしまったのか、頭の上で、髪が束になってぴょこんとはねてしまっている。
俗に言うアホ毛だ。
リアルアホ毛とか、初めて見たかも。
「で、なんだ?」
俺は一華のパジャマを直してやると、照れを隠すためにも、素っ気なく聞いた。
一華はほのかに頬を朱色に染めると、頷いてから口を開いた。
「京矢にまた、お願いがあるの」
「お願い? なに?」
「実は……その……明日の一時頃なんだけど……」
「お、おう」
「デートしてほしいの!」
は? デート?
「女装姿で!」
女装姿で?
一体一華はなにを言っているんだ?
なにがなんだかわけが分からないぞ。
落ち着けー。
とにかく落ち着けー俺ー。
とにかく説明してもらうんだ。
順を追って説明してもらうんだ。
返事は、そのあとだ。
「おーけい。とりあえず詳しく聞かせてもらおうか」
「う、うん」
頷くと一華は、床に落ちていたゲームの箱を手に取り、俺に渡した。
受け取ると俺は、ひらひらさせるように、表、裏という順にパッケージを見た。
ドラゴンエンペラーⅨ、通称ドラペだった。
「ああ、今一華がハマっているっていうゲームだよな」
「私、そのゲームの、『ミルク・ラビッツ』ってギルドに入ってるんだけど、そのギルメンの、なっつんさんって人と仲がいいの」
「知ってるよ。確か前のオフ会に誘われたけど、当の本人が体調不良でこられなかったっていう」
「そう、それ」
で、と言うと、一華がおもむろに続ける。
「あのあと何回か二人で会おうってことになったんだけど、私……約束の当日になるとどうしても体調が悪くなっちゃって」
「体調が? そうなの?」
「う、うん。……お腹が、痛くなるの」
それはあれですよね。
コミュ障とか引きこもり特有の、腹痛というやつですよね。
「しかも私今こんな状態だし、多分明日までには完治しないし、……だから」
「正直に風邪引いたからって言って、約束の日ずらしてもらえばいいだろ」
「ううん……だめ」
悲しそうな顔をして首を横に振る。
「これをドタキャンしたら、もう三回目だから」
「三回目かー」
確かに、そこまで面識のない人に、三回もドタキャンをされたら、それは縁の切れ目になるかもしれない。
ああ、この人は社交辞令で会おうって言っているだけなんだな、もう連絡を取らない方がいいかな、みたいに。
だがしかし、このチャンスをみすみす逃してしまっていいのか?
人生を大きく変えるのは、人との出会いではないのか?
ここでまた一華がチャンスを失ってしまったら、ようは挫折を味わってしまったなら、今度こそ本当にポキリと心が折れて、もう二度と浮上できなくなるかもしれない。
そんなのは嫌だ。
俺が望まない。
俺は昔の一華に戻ってほしいんだ。
明るくて、きらきらとした笑顔が絶えなかった、あの頃の一華に。
「分かったよ。そのなっつんさんとやらに会ってやるよ。一華の姿に女装して、この俺が。それが、今回の一華の、願いなんだろ?」
「きょ、きょうやー……」
俺の手を取ると、ぎゅっと握る。
一華の手は若干汗ばんでいて、温かくて、俺はなんだかぞわぞわした。
「ありがとう」
「ただし、今回だけだからな。次からは、一華がしっかりとなっつんさんと向き合うんだぞ」
「うん、約束」
手を離すと、なんとなく俺は、一華の頭を撫でた。
一華は恥ずかしそうに俺から目を逸らしたが、されるがままにしていた。




