第65話 訪れた未来に残ったのは、痛みと、後悔と、絶望と、あとは幼馴染の、悲痛に満ちた涙だけ
「ちょっと! ちょっとタンマ!」
「え?」
「純、あんた何やってんの? 一華、怯えてるっしょ?」
「……あっ、わるい。つい取り乱した」
「取り乱したって、あんた……」
純が手を離すと、一華は目に涙を浮かべたまま、識さんの胸へと飛び込んだ。
識さんはそんな一華を優しく抱きしめてから、すぐ脇に立つ俺へと顔を向けた。
視線の定まらない、パニック状態に陥った、俺へと。
色々察したのだろう。
溜息をつくと、識さんは冷静さを装いつつも言った。
「とりあえず今日はもう帰ろっか」
「いえ、だめよ」
しかしすぐに、識さんの気遣いを踏みにじる輩、一之瀬さんが立ちはだかる。
「私の一華さんをこんな風にしたのよ。しっかり説明してもらわないと。渡辺くん、さっきの話は一体どういうこと? 昔一華さんに告白したとかどうとか」
「言葉のまんまだよ。今から五年前、小学校五年の時に、俺は小笠原さんに告白したんだ。下駄箱にラブレターを入れて、校舎裏に呼び出して」
「でも先ほど渡辺くんは、『近藤』という名前を口にしたわよね。それは?」
「それは……」
目を落とした純が、まるで白状するように言う。
「親が離婚したんだよ。だから姓が変わった。『近藤』から『渡辺』に」
「なるほど。それで?」
「小学校卒業と同時に母方の実家へと移り住んだ。だから小笠原さんとはそれっきりだった」
「で、偶然にも高校で再会したと」
「ああ。でも小笠原さんは俺のことに気付いていなかった。当然といえば当然だよな。数年ぶりだし、姓も変わったし、なにより背がすごく伸びたし。俺はチャンスだと思ったよ。気付かないなら、別人としてもう一度アタックできる、近藤ではなく渡辺として、もう一度アタックできる……と」
純と一之瀬さんの問答が終わった。
聞き終えると俺は、現在自分が崖っぷちに立たされていると理解した。
近藤=渡辺。
渡辺=純。
純=俺が振った男子。
ずっと隠してきた真実の姿が、今一華の目の前に顕現している。
絶対に知られてはいけない真実が、何も知らない一華へと投げかけられている。
このままじゃ……。
「話をうかがう限りでは、確かに当時の振り方は酷いと思います」
山崎さんが言った。
「しかし小笠原さんはそんな記憶はないと言っているのです。やはり人違いなのではないでしょうか?」
「そんなはずはない。小笠原一華とフルネームで合っているし、顔だって一緒だ。どんなに印象が変わったって、間違えるわけがない!」
「で、あるならば……」
識さんに抱かれた一華へと、山崎さんが顔を向ける。
「小笠原さんが嘘をついているということになりますね。おそらく過去に行ってしまった醜態を、隠蔽するために」
「――へ?」
山崎さんの言葉に、一華が動揺して言う。
「ち、ちがっ! 本当に知らない! 私本当に知らない! 別の人! 絶対に別の人!」
「小笠原さん、見苦しいにもほどがありますよ。時には素直に認め、謝るのが、人の道であると、ボクはそう思います」
「だってだって! 本当に知らないんだもん! やってないんだもん! やってないんだから、謝るなんて絶対におかしい!」
涙を流す一華。
苦い顔をする識さん。
溜息をつく一之瀬さんと山崎さん。
俺は……俺は…………。
「がっかりなのです」
「へ? や、山崎さん……?」
「せっかく同じ生徒会の一員になり、今日一緒にお出かけをし、友達になれたと思ったのに……。まさかこんなに腹黒い人だったとは」
「ちっ、ちがっ」
「私は」
一華の言葉を遮るようにして、一之瀬さんが割り入る。
「一華さんのこと好きよ。今でも心優しい人だと信じているわ。……でも、こんな姿を見せられてしまっては、今後どうやってお付き合いしていけばいいのか……」
心なしか、一華から身体を背ける二人。
二人の心が、一華から離れてゆく。
そんな悲しい光景を見て俺は思う。
全ては俺のせいなんだと。
俺が全部悪いのだと。
だったら、今ここで全てを白状して、一華の名誉を守ってやる――取り戻してやる、それがせめてもの償いだろう。
まさかこんな形でばれるとはな……。
俺は口を開いた。
「皆、聞いてくれ。一華はなにも悪くない。一華の言っていることは本当だ」
「ちょっと京矢」
気持ちを察したのか、識さんが俺の肩をつかむ。
「あんたまさか……」
俺は識さんの手をどけると、小さく首を振り続けた。
「あの日、小学校の時に、校舎裏で純を振ったのはこの俺なんだ。この俺が一華の姿に女装して純を振ったんだよ」
「はっ」という息を呑む声が聞こえた。
目だけでそちらを見ると、そこには青ざめた一華の姿があった。
『一華の姿に女装して』――その一言で、一華なら全てが理解できたはずだ。
……終わった。
おそらく、いや間違いなく、一華は俺のことを嫌いになる。
もしかしたら憎むかもしれない。
でも、それは当然の感情だ。
当たり前の反応だ……。
「おい京矢、お前一体何を言ってるんだ? 小笠原さんに女装? は?」
「今の俺は髪も短いし、当然男の格好をしているからぱっと見には分からないかもしれないが、女装すると俺、一華に凄い似るんだよ」
まだ信じられないのか、純は困惑した表情で女子たちに視線を送る。
答えたのは一之瀬さんだ。
「本当よ。私もだまされたもの。夏木くんは、女装すると一華さんと瓜二つになるわ」
「マジ……なのか?」
俺の方へと顔を向ける。
「なあ京矢、だったら何で……」
「一華が取られると思ったんだ。ラブレターをびりびりに破ったのも、顔に投げつけたのも、そして決定打として唾を吐きかけたのも、もうリトライする気が起きないぐらいに、純を徹底的に突き落とすためだった」
「お、お前……」
「一華」
一華へと歩み寄る。
目から光が消えて、茫然とした、一華のもとへと。
「全部俺のせいなんだ。俺がそんな自分勝手なことをしてしまったせいで、一華はいじめられ、友達を失い、ひきこもりになり、大切な時間の大半を失った。全部全部、俺のせいなんだ」
ゆっくりと、俺の方を向く一華。
戸惑ったように、その瞳は揺れている。
俺は強く目をつむりこぶしを握ると、五年分の思いを、潔く吐き出した。
「一華! 本当にすまなかった! 女装なんていうむちゃなお願いを聞いたのも、全部自分のためだったんだ! 贖罪のためでしかなかったんだ! 本当に本当に、ごめんな!!」
――一瞬、全ての音が消えた気がした。
波の音も、
風の音も。
そして答えは、意外というか当然というか、頬に感じる強烈な痛みと共にやってきた。
「京矢! てめー!」
無慈悲にも、純により振り上げられるこぶし。
圧倒的体格差だ。
俺は吹っ飛ばされて、そのまま砂浜に倒れ込んでしまう。
「よくも俺の恋心を踏みにじりやがったな! 絶対に許さねー!」
眼前に迫る打撃。
俺は防御の姿勢を取ることなく、
――二発
――三発
――四発
――五発
と受け続ける。
すげー痛いし口の中に血の味もする。
でも……でもこれが、純が、そして一華が、俺のせいで受けた心の傷の痛みなんだよな。
その時、パンチがやんだ。
細く目を開けると、そこには強く歯を噛み締めて、大きく振りかぶった純の姿があった。
いわゆる超本気モードだ。
…………。
言葉にならない思いを胸に、俺は来る衝撃に耐えるべく、その場に目を閉じた。




