第215話 陽光に白む朝と、新たな日々の始まり
身支度は、一瞬にして終わった。
というか荷物なんて、スマホ、財布、鍵の、三点セットしかなかったので、ズボンをはいて、シャツを着て、あとは適当に髪を整えたら、それで終わりだった。
なので、ロビーにやってきたのは、識さんと別れてからほんの数分後のことだった。
受付カウンターでカードキーを返却して、料金を清算したところで、出入り口の方から俺を呼ぶ声がした。
「京矢! 遅いし! こっちこっち!」
さすがに、おそかあねえだろ。
これ以上早くとか、そりゃもうゴクウみたいに瞬間移動するか、黒子みたいにテレポートができなきゃ無理だろ。
顔には出さずにぶりぶりしつつ、俺は早足で出入り口へと向かい、大きなガラスの自動扉から正面玄関にあるホテルのロータリーのところへと出る。
するとそこには、二台の車がとまっていた。
普通の車ではない。
マーチとか、キューブとか、なんかそういった、一般的で乗りやすい、実用重視の車ではない。
一方はベンツで、もう一方がレクサスだった。
しかも両方とも、いかついセダンタイプの黒塗りときている。
「……ええと、これは?」
答えたのは、助手席に座る、バリアートの子分、キャップだった。
「おはようっす。夏木の旦那。俺らで、姉貴たちを、集合場所の学校まで送るんで」
「送る? ええと、どうしてです?」
「敬語はやめて下さいっす。俺らは姉貴の舎弟っすよ。姉貴の舎弟は、姉貴のダチの舎弟でもあるんすから」
「あ、ああ……分かった。じゃあ、なんで?」
なれないなーこれ。
ぶっちゃけ敬語の方が気が楽なんすけど。
「あのあと俺ら考えたんすよ。姉貴たちのためになにかできないかって。そんで、始発を待つより、俺らが車で送った方が早くね? ってことで、話がまとまったっす。西高等学校っすよね? ナビで検索したら、高速ぶっ飛ばせば、三時間ぐらいでつくみたいっす」
三時間ぐらい……今は五時半だから、学校に着くのは大体八時半ぐらい。
学校からバスが出るのが確か八時半だから、結構ギリギリじゃね?
俺の気持ちを察したのか、識さんが補足を加える。
「多分それぞれの家に寄る時間はないから、家族とかに頼んで学校に荷物を持ってきてもらって」
「ああ、それは多分問題ないと思う」
別に荷物なんて、制服と……あと体操着? ぐらいだし。
「これで林間学校に初日から参加できる」
「というか、そこまで林間学校大事か? 正直俺は途中から参加できればそれでオッケーなんだけど。最悪もう欠席でも」
「あり得ないし! 高校一年の夏だよ? 一生に一回の林間学校だよ? 参加できる可能性があるんなら、絶対に参加するべきだし!」
さすがは陽キャ、学校行事に対しての情熱をすげえ感じる。
というか陽キャラとかリア充って、学校行事にマジで人生かけてるよな。
中学の時もいたな。バンドに命かけてるやつ。
確かそいつ、文化祭当日に高熱が出たけど、文化祭でバンド演奏するために、解熱剤やら咳止めやら痛み止めやら風邪薬やらを服用しまくって、なんとかかんとか学校まできたっけ。
まあその後、そいつのせいかはしらんけど、クラスターが発生して、学級閉鎖になったけど。
「とにかく乗って下さい」
ベンツのうしろにとまっていた車、レクサスの運転席からあごひげが出てくると、うやうやしく後部座席のドアを開けて、俺を導く。
「少しでも時間が惜しいんで」
前の車、ベンツには、おそらくは識さんが乗るのだろう。
後部座席にはすでに、一華が座っている。
レクサスの助手席にはくるみの姿があるので、あいている席として、自動的に、俺が後部座席に腰を落ち着けるというわけだ。
……と、なると……あとは……。
俺は、レクサスに乗り込む前に、今一度、ホテルの出入り口の方を仰ぎ見る。
「なにやってんだ? こいよ」
俺の言葉にその者は、まるで物陰から様子をうかがうようにして、そっと姿を現す。
──純だ。
「早く乗れよ。俺たちと一緒にこれば、純も林間学校、遅刻なしで参加できるんだぞ」
「……でもいいのか?」
「なにが?」
「だって俺、京矢たちにすげえ迷惑を……」
ぎりりと歯を噛みしめる。
「恨まれたって……つか恨まれる覚悟で、色々しでかしたのに、こんな……」
考えている暇はなかった。
一瞬、純の言葉を受け入れて、突き放して、この場に置きさることも考えたが、直感的にそれはだめだし、俺の本位ではないと悟り、すぐに却下した。
というか、そんなことをするぐらいなら、そもそも純を起こすこともしなかったし、帰りの準備を急かすこともしなかった。
だからきっと、俺の中ですでに純への気持ちがかたまっていたのだろう。
今回の件については、俺は純を許すし、同時に純からも許されたい……結局はそれが、俺の本心なのだ。
「純、乗れ、早く。早く乗れ」
有無をいわせぬ口調で、俺は純にいう。
「いくんだよ。俺ら皆で、林間学校に。誰一人欠けちゃいけないし、正直……欠けるなんて嫌だ」
「…………」
純は、幾瞬間、言葉にならない言葉を認識するように、俺の気持ちを、隔たる空気を通して吸い込むように、驚きと冷静さ、気づきと認識をないまぜにした、どこか蒙を啓かれたような顔をしてから、俺にはなにも応えずに、無言で後部座席に乗り込んだ。
バリアートたちの車は、ホテルを出発すると、温泉街を抜けて、結構ヘビーなワインディングロードに入った。
当然彼らは見た目通りのヤンキーであり、陽キャ中の陽キャであり、なによりもパリピであるからして、安全運転の『あ』の字すらしらない。
黄色信号は素早く渡れの精神を宿した名古屋よろしく、山道は早く走り抜けろの精神で、通常の一般道よりもスピードを上げた。
直線は加速。
カーブは速度を緩めずにドリフトカーブ。
俺は右へ左へと激しく体をシェイクされながら心のなかで安堵した。
ああ……朝食を食べていなくてよかったオエエゲロゲロ……と。
山道を抜けて高速道路に入る頃には、地平線から太陽が顔をのぞかせ、空は薄い水色に染まり始めていた。
順調だ。
順調どころか、予定よりもだいぶ早い。
この分なら余裕で間に合うかも……。
そして俺は、物語ならもちろんのこと、現実世界においても、こういう状況において、決して口にしてはいけない言葉を、思わずぼそりと口にしてしまう。
「……やったか?」
言葉は、言霊となり、間髪を容れずに、天に聞き入れられてしまう。
識さんたちの乗る、前のベンツが、突然ハザードランプをたいたかと思うと、徐々に速度を落とし始めた。
当然バリアートの子分であるあごひげも、バリアートにならい、ハザードランプと共に、車間距離をあけつつ、速度を緩めてゆく。
「ええと……どうしたんですかね」
「なんでしょう。渋滞ですかね」
ハンドルを握り、前を向いたまま、あごひげが答える。
車は、完全にとまった。
それからは、のろのろ進んだり、たま完全にとまったりを、何度も何度も、とめどなく繰り返す。
焦燥感がつのる。
車のフロント部分についたデジタル時計が、虚しくも数字を重ねてゆく。
ほどなくして、先ほどからスマホに顔を向けていた純が、誰にではなく、独り言のように呟く。
「事故みたいだぞ。これはしばらく……続くかも」
「マジか……なんでこんな時に……」
これで、どうなるか分からなくなってしまった。
間に合うのか?
いやこの分だと、まず間違いなく間に合わない。
「どうしま……どうする?」
俺はあごひげに、タメ口で聞く。
「高速出る?」
「今高速の出口過ぎたばっかですし、つか下からいくと間に合わないですよ」
下からいくとそもそも間に合わない。
上からいくと渋滞で間に合わない。
これって万事休すじゃね?
それからすぐに、あごひげは、バリアートに連絡を取り、しばらく話し合ったようだが、とりあえずこのまま高速を出ずに様子を見てみようということになったみたいだ。
当然といえば当然だろう。
下からいけば絶対に間に合わない。であるならば、もしかしたら意外とスムーズに進んで間に合うかもしれない高速を選ぶのは、至極当たり前の考え方だ。
バリアートたちの考えは間違っていないし、多分俺が運転手でもそうする。
時間は確実に、刻一刻とすぎてゆく。
正直俺は、当初、最悪林間学校に参加できなくてもいいと思っていた。
だが人というものは勝手なもので、一筋の光、そう希望というものが提示された瞬間、やっぱり心変わりするものなのだ。
事実今現在の俺は、多分間に合わないという今の状況に、少なからず失望の念を抱いていたからだ。
そしていよいよ、まだ高速を走っているというそんな状況で、学校の集合時間であり、バスの出発時間でもある、八時半を迎えてしまう。
一件のメッセージ、一件の通話が入ったのは、もうなにもかもをあきらめて、スマホの画面をロック状態にした、その時だ。
メッセージは母さんからで、集合場所の学校で俺のことを待っていたが、こなかったので、とりあえず荷物だけをバスに積み込んでもらっておいたというものだった。
通話については前の車に乗る識さんからで、おそらくは今後の方針についての連絡、もしくは相談だろうと思われた。
もうなにもかもをあきらめていた俺は、特になにかを期待することもなく、空漠とした頭で、ただただ応答のボタンをタップした。
『作戦変更』
出し抜けに、識さんがいう。
「作戦変更?」
『うちらのバス、目的地にいくあいだに、一回高速のサービスエリアに入るっしょ』
「ああ、確かしおりにそう書いてあったような……って、まさか」
『そのまさか。このまま高速を出ずに、そのサービスエリアに向かう。そんで、そこでクラスに合流する。それだったらバスからだし、ぎりぎり初めから参加ってことになるっしょ?』
いや……まあ、そうとも考えられるけど……。
「本気?」
『超本気だし。荷物とか、大丈夫だよね?』
「あ、ああ。母さんがバスに預けたって」
『こっちもそんな感じ。純は?』
隣に座る純に、今後の動きを簡潔に説明する。
純も、家族が荷物をバスに預けたということなので、問題なさそうだ。
『一華も大丈夫っぽいから、あとは私らが身一つで乗り込むだけだね。だったらもう余裕っしょ。現地で合流するか、途中で合流するか。善は急げ。早い方を選ぶべきじゃない?』
ということで、俺たちはバリアートたちのいかつい車に揺られて、怒涛のごとくそのまま、林間学校へと参加することになった。
え? ……マジで?
どうなんの?
どうすんの?
ええいもう! なるようになれってんだ!




