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第211話 緊急事態?

 純と別れると、俺はそのままロビーを離れて、くるみがいるだろう五階へと上がった。

 エレベーターから降りると、俺は迷うことなく右手へと向かい、奥から二番目の部屋、先ほど識さんと純が激しすぎる戦闘を繰り広げた、『517号』室へと足を運ぶ。


 ……この中にくるみがいる。


 ドアの前に立つと、俺はほぼ無意識に呼吸を繰り返してから、くるみと話すことを、一度頭の中でまとめる。


 一に、家出の理由を、親にどう話すのかを話し合う。

 二に、理由が固まったら、即座に家に電話を入れて、謝罪の言葉と共に、明日には必ず帰ることを約束する。

 三に……なんつーか、今後の俺とくるみとの関係性、家族付き合いの仕方、方向性を明確にする。


 特に三つ目が重要だ。


 なんといってもくるみは、先ほど俺が間違えてコンドームを箱ごと渡してしまったが故に、物凄い勘違いをしてしまっているからだ。

 だがこの勘違いは現状にとって至極都合のいい勘違いであり、今ここで覆してしまうわけにはいかない。

 つまり俺がするべきは、あくまでも俺も、くるみに気があるという素振りは変えず、それでいて良識のある関係を、自宅に帰っても続けましょうと、うまく話を持っていって、くるみを納得させること。

 納得させられたと意識させることなく、なんかそういう空気を醸し出して、自ずと読ませること。

 特に後者。

 ここまで持っていければ、俺の優勝だ。


 よし……いくぞ──


 手を握ると、俺は意識的に頭の中をからっぽにして、ドアを三度打つ。


 ノックノックノック……。


 返事がない。


 おかしいな。

 この部屋にいるはずなんだけどな。


 もう一度ノックをする。


 ノックノックノック……。


 やはり同じだ。

 ドアを打つ音は、どこにも反響することなく、まるで深淵にでも飲み込まれていくかのように、無情にも虚空へと消えてゆく。


 いないのか?

 いや、そんなはずはない。


 今度は、ノックしつつ、部屋の中にいるだろうくるみへと、呼びかけてみる。


「おい。くるみ。いるんだろ? 俺だ。京矢だ。ここを開けてくれ」


 沈黙。


 本当にいるのだろうか? どこかに出かけて、留守にしているのではないだろうか? と思った俺は、ドアに耳を引っ付けて、室内の音を確かめてみる。



 キィ……トン……キィ……トン……キィ……トン……キィ……トン……。



 なんの音だろう?

 なにかが軋む音と、なにかがぶつかる音。


 イメージを膨らませるため、俺はさらに室内に響く謎の音へと、耳を澄ませる。



 キィ……トン……キィ……トン……キィ……トン……キィ……トン……。



 軋む音は一体なんだろう。

 物についたなにかが、規則正しく揺れ動いている……そんな感じか?

 トンという音は、その揺れ動いた先で、物と物がぶつかる音?

 だったら、交互に連続するのに説明がつくし……って、え?


 嫌なイメージが、俺の脳裏に広がる。

 それは以前どこかで観た、ホラー映画の一場面の映像。

 首を吊った老人が、ゆらゆらと揺れて、足が壁に当たり、トントンと壁を鳴らす、そんな光景。


 ……はあ……はあ……はあ…………。


 いやいやまさかな。

 さっきまで、あんなにうきうきした様子だったんだ。

 その後に自殺なんてあり得ないだろ。

 第一今のくるみに、自殺をする理由なんてありゃしないし……。


 はたと気づく。

 うきうきした様子だったのは、一華と話し合いをする前までで、その後は物凄い形相で、俺たちをおいて、あの展望台を立ち去っている。


 実は、一華との会話で、くるみはひどく傷ついたんじゃあないか?

 なにかに憤ったとはいえ、一華を叩くほどだ。

 楽観的に考えて静観をしようと心に決めたが、実はとんでもなくいかんともしがたい内容が、話されたんじゃあないか?

 だからこそくるみは、部屋に引きこもり、悩み、追い詰められた末に……最悪のタイミングが重なって、つい…………。


 嫌な感情が溢れてきた俺は、くるみの名を叫びながら、ドアノブへと手をやる。

 当然ドアは、オートロックで内側から鍵がかかっているので、開けることはできない。

 ガチャガチャと、硬い音が無情にも響くだけだ。


「くるみ! くるみ!! ここを開けるんだ! くるみ! 聞こえているんだろ!? なあ! くるみ!!」


 すると突然、向かいの部屋のドアが開いて、そんな焦る俺へと声をかける。

 その言葉は、俺を殊更、絶望の淵へと突き落とすものだった。


「あんたこの部屋の人の知り合い?」

「え? あ、はい」

「なんか……結構ヤバいんじゃないの?」

「え? 一体どういう……」

「さっきまでえらい騒いでたよ」

「騒いでいた?」

「なんか『きゃー』とか『わー』とか、でかい声で。発狂? っていうの。そんな感じ」


 ……発狂。


「そんで突然の沈黙でしょ。だからなんか、うわーって感じ」


 突然の沈黙……。


 そしてその者は、決定的な一言を、口にする。


「自殺とかやめてよ。せっかく骨休めに旅行きてるんだから。目の前の部屋で……とか、もう心落ち着けないし」


 自殺?

 くるみが自殺?

 嘘……だろ?

 くるみが自殺?

 嫌だ!

 嫌だ嫌だ嫌だ!

 くるみがこの世からいなくなるなんて、絶対に嫌だ!


 ああああああ。


 あああああああああああ。


 うわああああああああああああああ!!


 パニックを起こした俺は、ドアノブを握り、ガチャガチャガチャガチャと、何度も何度も、何度も何度も何度も、無意味な音を響かせる。

 無駄とは分かったが、強く強くドアを打ち、ありったけの声で、くるみへと呼びかける。


 だめだ……だめだ、だめだ、だめだ、だめだ、だめだ。

 どうする。

 今の俺になにができる?

 なにをするべきだ?

 最善の方法は?

 最善の行動は?

 まだ間に合う。

 きっとまだ間に合う。

 さっきの人の話しぶりだと、くるみが沈黙してからまだそれほど時間がたっていない風だった。

 やることは単純だ。

 なんとか部屋の中に入り込み、締り、滞ってしまった首の血管に再び血流を戻すため、くるみの脚を持って、ぐっと持ち上げるんだ。

 その後になんとかしてロープを切り、天井から外す。

 それしかない。

 それしかない。

 それしかない。

 部屋に入るんだ。

 部屋に。

 部屋に入るんだ。

 部屋に入らないと、部屋に。

 部屋に。

 部屋に入るんだ。

 部屋に入らないといけない。

 部屋に。

 部屋に入るんだ。

 どうやって?

 どうやって?

 どうやって入ればいい?

 鍵?

 鍵はどこだ?

 ああカードキーだから、部屋の中か。

 多分ドアの脇にあるカードケースみたいなところだ。

 この向こうだよな。

 壁壊せないか?

 なんか漫画であったよな。

 壁壊して試験突破するみたいな。

 あれできないか?

 つるはしないか?

 シャベルは?

 蹴るか?

 蹴っても壊れないか?

 カードキー。

 あーカードキーがあれば。

 フロントで借りるしか?

 一階に下りて、フロントで説明をして。

 ああ時間がない。

 そんな時間は絶対にない。

 今ここで対処しないと絶対に手遅れになる。

 今ここで、今ここでなんだ。

 ああドアってすり抜けれないかな。

 異世界の能力みたいな。

 ああカードキー、キー、鍵、カギ。

 中に入らないと。

 カギ!

 入る方法入る方法ああ!


 ドアを殴って、ドアノブをガチャガチャする。


 開けよ!

 開け開け開け開け開け!

 開けってクソが!

 ああああ!


 ドアを蹴る。

 ドアノブをガチャガチャする。

 もう一度ドアを蹴る。


「ああっ! ああクソッ! ああっ!」


 頭を抱えて、その場に円を描くように彷徨い歩いて、歪んだ表情で忌々しくドアを見る。


「あああああ! ぁぁぁ……ぁぁ……」


 極度の絶望から、つうとよだれが、糸を引いて床に滴る。


「はああぁぁぁぁぁぁがあぁぁぁぁはあああぁあ」


 どうしようもできない自分に対して、心底憎悪の感情が湧き上がり、俺は自分を何度もビンタしてから、崩れ落ちるように床に倒れ込む。

 そして悲痛なうめき声を上げながら、床の上をごろごろと、何度も転げ回る。

 先ほど純の前で見せた、半分冗談なゴロゴロではなく、マジな、洒落にならない、末期の鬱病患者のごとく、重々しいゴロゴロだ。


 助けてくれ……はあ……はあ……誰かマジで助けてくれ……助けて……ちょーほんと助けてくれよ!

 はあ……はあ……はあ……なんで助けてくれないんだよ!

 ほんと助けてくれよぉぉぉおおおぉぉたすけろよおおおおぉぉぉあああああ……助けて助けて助けてあぁぁぁぁ助けてくれってマジでよぉぉぉぉ……はあああ助けてよー頼む助けてくれよおおおぉぉはあああああああ。


 頬に、固くて薄い、なにかプラスチックの板のような物が触れる。

 一体なんなんだと、思うともなく思うと、俺は上体を起こして、冷や汗や脂汗により、頬に張り付いたそのなにかを取ろうと、手をやる。

 しかしそのなにかは、俺の手が届くほんの寸前で、重力に負けて、はらりと、絨毯の上に落っこちる。


 カードキーだった。


 先ほど識さんから受け取った、今日俺たちが泊まる部屋の、カードキー。

 カードキーには部屋番号が印字されているのだが……そこには『518』とあった。

 キーンと、俺の頭の中に鋭い音が響く。

 そのするどい音は、どこか鋭利な刃物というか、いやむしろ先の尖ったレイピアというか、なんかそんな一点集中で対象を穿つ、冷たくも鋭い印象を俺に与えた。

 氷の世界……クリスタル。

 冷静な思考……茫漠とした、意味のない、ただただイメージによるイメージ。

 意味なんてなかったのかもしれない。

 意味なんてない。

 イメージになんの意味もないし、それが故に答えを導いただなんて全くもって言えないけど、俺は答えを、ようはくるみの部屋に、今すぐ、最短距離で進入する方法を、言語ではなく思考として、理解した。


 俺はつかむようにして『518号』室のカードキーを取ると、くるみのいる『517号』室の、隣の部屋のドアを解除する。

 そしてそのまま全速力で、クローゼットとユニットバスに挟まれた狭い廊下を突っ切り、ベッドの脇を突っ切り、窓際にある、見晴らしのいいバルコニーへと続く、吐き出し窓の戸を開ける。

 すると目の前に、予想外の施設が姿を現す。

 露天風呂だ。

 貸切露天風呂。

 以前テレビで貸切露天風呂が併設されている温泉宿特集なるものを見たことがあるが、こんなブルジョワ仕様の部屋が、本当にこの世に存在したとは……。


 って、そんなことは今はどうだっていい。

 くるみだ!

 あるはずなんだ!

 こういう高層建築には、消防法ってのがあって、バルコニーとかベランダに、『非常の際には、ここを破って』みたいな、薄い壁が!


 くるみの部屋のバルコニーがあるだろう左側へと、視線を転ずる。

 するとそこに、まさしく俺が探し求めていた、『非常の際は、ここを破って、隣戸へ避難して下さい』という、仕切り板を見つける。


 ──あった。

 あったぞ!

 本当にあった!

 よし……よしよしよし……待ってろよくるみ。

 お兄ちゃんが、今いくからな!

 お前を絶対に、死なせたりなんかしない!!


 俺は脚に力を込めると、一思いにジャンプする。

 ガードするように前で腕をクロスして、片方の脚を、前でくの字に曲げて、まるで書割をぶっ壊して現れる、スーパーヒーローがごとく。



「きゃっ」

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