第210話 渡辺純の思い
ホテルのロビーに入ると、そこで待ち受けていたのはホテルのボーイでもなく、女将でもなく、猫耳とお尻についたしっぽがとってもチャーミングな、メイドの識さんだった。
俺は識さんの面前に歩み寄ると、ちらと、薄暮に照らされた出入り口の外の光景へと視線を送ってから、申し訳ない気持ちをありありと醸し出しつつ、言った。
「なんていうか……ごめん」
「なにがだにゃ?」
「時間……もうすぐ七時だし」
「ああ……終電がって、ことね」
「終電もだし、明日の林間学校……」
先に帰ってくれればよかったのに……と思ったが、さすがにそれは言えない。
だって識さんは、多分俺たちのために待っていてくれたんだし、そもそも俺が、林間学校前日にもかかわらず、識さんをこんな遠くまで連れてきてしまったようなものだし。
「まあ、別にいいんだにゃ。確かに集合時間には間に合わにゃいし、皆と一緒にバスでは向かえにゃいかもしれにゃいけど、途中から参加することはできるんだにゃ」
「そうかもしれないけど、識さん、あんなに楽しみにしていたし」
「仕方がにゃいんだにゃ。もうどうしようもにゃいことを、今あれこれ考えて、今という時間を無駄にしてしまうことの方が、問題にゃんだにゃ。そうは思わにゃいかにゃ」
識さんが首を傾げる。胸元付近で、手を猫の手にしながら。
「……うん。だね。そうだね。間違いなく」
「にゃから」
識さんが言いかけたその時、「失礼します」という声と共に、ある者たちが話に割り入った。
それは識さんのことを親分認定する、あのバリアートとその他二人だった。
「姉貴。ご命令通り、手配を完了しました」
「そうかにゃ。ご苦労だったにゃ」
「それではこれを、どうぞお納めください」
識さんの面前で床に膝をついて座ったバリアートが、両手を首よりも高い位置に挙げて、プラスチックのカードのような物を差し出す。
「うんにゃ。助かったにゃ」
「滅相もございません。またなにかありましたらラインで連絡ください。いつでも馳せ参じますので」
「承知だにゃ。下がっていいのだにゃ」
「……ところで」
ところで? とでも聞くように、識さんがつうとバリアートへと視線を向ける。
「姉貴たち、明日、高校のイベントかなんかなんすか?」
「そうにゃんだにゃ。林間学校にゃんだにゃ。まあ……終バスというか終電が、にゃくにゃっちゃったから、間に合わにゃいけど」
「そうなんすね」
「それがどうしたっていうんだにゃ?」
「い、いえ! ちょっと気になったもんで」
「もう下がっていいにゃ。部屋、ご苦労だったんだにゃ」
バリアート以下二名が自分たちの部屋へと退くと、俺は識さんに話しかける。
「そのカードって、もしかしてホテルの部屋のカードキー?」
「そうにゃんだにゃ。どうせ今日はこの温泉街で一夜を過ごさにゃいといけにゃいし、さっさと部屋を取っておいたんだにゃ」
そっか、だからすでに成人を迎えているバリアートたちに頼んで……。
「なにからなにまで本当にありがとう」
「そんなに申し訳にゃさそうな顔をしにゃいでほしいんだにゃ。にゃってこれは自分のためでもあるわけだし」
「自分のため?」
「バス停のベンチで野宿にゃんて、ぜーったいに、嫌なんだにゃ」
確かに。というか今回のことはこの俺に責任があるわけだし、さすがに識さんと一華に、そんなことさせないけどね。
識さんから部屋のカードキーを受け取ると、俺はそれをスカートのポケットに入れつつ、聞く。
「ところでくるみは? 戻ってきているだろ?」
「うんにゃ。京矢たちよりも、一足早く」
「どこにいる?」
「五階のあの部屋」
「純は?」
親指で、植木のパーティションの向こうにある、ソファの方を指さす。
「京矢を、待っているにゃ」
「了解」
自分でも気づかぬうちに、不安げな顔をしたのだろう。
識さんが優しい声音で俺に声をかける。
「大丈夫だにゃ。もう京矢には絶対に手を上げにゃいんだにゃ」
絶対に手を上げない? 一体全体どういうことだろう。
色々聞きたいことはあったが、とりあえず俺は、純が待つ、ソファの方へと向かう。
純は、一人でいた。
茶色の革張りのソファに、両肘を両膝について、うなだれるような格好で座っている。
俺はガラスのローテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろすと、純に顔を上げるようにと言った。
「とりあえず顔を上げろよ、じゅ……ん!?」
驚きに、思わず言葉を飲み込んでしまう。
一言で言えば……純はボロボロだった。
顔は、両頬とも真っ赤に腫れており、鼻と口元付近にはこすったような血の跡がこびりついている。なにがどうしたらそうなるのか、シャツの首元は完全に伸びてしまっており、裾に至っては裂けて、見るも無惨になってしまっている。
脚にも攻撃を食らったのだろう。左のスネには痛々しいあざが見受けられる。左のスネということは、おそらくは識さんにより軸足を狙われたということだ。
識さん、あの時妙に致命傷を狙っていたし、軸足潰しは、目とか、大腿骨粉砕とか、それよりも程度の小さい、ぎりぎりの譲歩だったんだろうな。
というか識さんは、無傷はもちろんのこと、一糸乱れぬ格好をしていたけど、それって超一方的な戦闘だったって、そういうことにならないか……?
「……京矢、だよな?」
純が、肘をついたままで、疲れたように顔を上げて、それから痛々しくも、腫れた瞼を上げる。
「はあ……俺は、とことんだめなやつだな」
俺は、純の目を見つめて、無言で続きを促す。
「別にたいしてほしくないものは、特に苦労することなく手に入るのに、本当にほしいものは、どれだけ手を伸ばしても手に入らない」
「それって、一華のこと?」
「当然」
「まだ諦めていなかったのか?」
「まだっていうか、忘れるまでは。忘れるなんて、自分の意思でどうこうなるもんじゃあないからな」
まあ確かに……と思ったが、口には出さない。この話題は、夏休みに入る前の、あのお台場での出来事で、一応は終結しているから。
本題に入るべく、俺は話を切り出す。
「それよりも純、今回のこと……どうしてくるみの家出に協力したんだ?」
「京矢、お前を困らせるためだ」
なんとなく分かってはいたが、やっぱりそうか。
口をつぐんで純の目を見つめたので、もしかしたら純は、俺が要領を得ていないとでも思ったのかもしれない。すぐに言葉を継ぐ。
「あー分かったよ。白状するよ。京矢に仕返しがしたかったんだよ、仕返しを。だって、普通に悔しいし、正直納得できないだろ?」
「それって、一華の説明のことだよね? 小学校の時、たとえ俺が純の手紙を破らなくても、同じように振っていたっていう」
「ああそうだよ。小笠原さん、口ではああは言ってたけど、過去に実際に本人である小笠原さんが手紙を受け取っていたら、本当はどう転んだか分かんねえだろ? 色々あって、京矢が小笠原さんのことを一生懸命に支え続けて、今の関係がある。そんな今の関係、今現在の心境の小笠原さんが過去を振り返るからこそ、小学の時に、実際に小笠原さん自身が手紙を受け取ったとしても、俺のことを振っていたと、そう思うだけかもしれない。まあ、可能性の話なんかしても仕方ないし、過去に起こったことの、別の選択の結果なんてどうやっても証明できないから、この話自体、虚しいだけなんだけどさ」
純の気持ちは痛いほど分かる。
人は結局のところ、現在の状況、現在の心持ち、現在の心理傾向でしか、ものを言えない。
失敗して、失敗して、失敗し続けて、完全に落伍者になった者にとっては、世に出回る『成功哲学』なんてものは反吐が出るし、そんな地の底まで落ちた者が、なにかのはずみで勝ち組に仲間入りしたならば、心境は百八十度変わり、まるで記憶喪失にでもなったみたいに、「なぜ本気を出さないのか」とか、「ネガティブな言動は、精神を侵食する」とかのたまい始めて、いわゆる負け組や弱者を軽蔑し始める。……ちょっと前まで自分もそちら側の人間だったというのに。
人間なんてそんなもんだ。
だから俺は、俺には決して、純を否定することはできない。
だが勘違いしないでほしい。俺は純を否定することができないだけであって、それすなわち肯定するではないということを。
故に俺は、この話題も、速やかに打ち切ることにする。
答えは出ている。俺も純も。答えは出ているからこそ、これ以上話し合っても、おそらくそれは、互いの感情や思いをただただぶつけ合うだけの、話し合いというには程遠い、まるで倦怠期を迎えたカップルや夫婦のような、意味のない雑言を吐き出し続ける、痴話喧嘩みたいにしかならないだろう。
いやあほんと親父と母さん……もっと理性を持ってくれよ。……私事で僭越至極ではありますがー。
「ちなみにくるみとは……どうやって?」
純とくるみのコンタクトについては、大体の当たりをつけてはいたが、純の口から直接そのいきさつを確認するためにも、俺はまるでなにも知らない振りをして聞く。
「ツイッターだよ。くるみちゃんがドラペやってんのは知ってるよな? くるみちゃんとは同じギルドに入ってて、ツイッターでも繋がってたから、それでなっつんってのが京矢の妹だって分かった。あ、なっつんってのはくるみちゃんのアカウント名な」
……おいおい。……おいおいおいおい……。
こいつ一体なにを考えているんだ??
いきなり俺の妹のことを、下の名前呼ばわりかよ!
汚らわしい! いや、穢らわしい!
あっ……なんか今、一ノ瀬さんの気持ちが分かった気がする……。
「でも、ギルドとか、ツイッターとかって、普通リアル出さないだろ? どうしてなっつんが俺の妹だって分かったんだ?」
「一つは……」
肘を膝についたまま、疲れたように顔を自分の足元に落としてから、再び顔を上げて、純が続ける。
「小笠原さんっていうリアルの知り合いがギルドにいたからかな。まあ『勘』だよね。リアルの知り合いがいるから、なんとなくその回りの人かなっていう、そんな感覚。決定打は土曜日の裏垢でのツイート。長々と小笠原さんとのデートのことを告白してたんだけど、最後に普通に『京矢』って、名前出してたし。普通だったら信じないよ。京矢が女装とか、女装すると小笠原さんに似るとか。でも前情報として、小学ん時に京矢が小笠原さんに女装して俺を振ったって知ってたから、すんなり受け入れられたっていうか、すぐに繋がったっていうか」
『京矢』の名前を出してたって、やっぱあれですよね。
京矢・・・京矢が好き。
っていう、あの。
ということは、よく考えたら、純にも、妹が、実の兄をセックスしたいほどに愛しているマジでやばいやつだって、バレているってことじゃないか! ああああああああ!
なんともいえない羞恥の感情に、俺はソファの上でのたうち回る。
「でもウケるよな」
純が、ここで初めて、くすりと笑みを浮かべる。
「正直実物見るまで半信半疑だったけど……マジで京矢、女装すると小笠原さんに似るんだな」
そうだったああああああああ! 今俺は化粧まで施した超本気モードの女装一華だったあああああああ! はっず! なんか超はっず!!
言葉で説明するのと、実際に見られるのとでは、こんなに羞恥心に差があったとは、知らなかった! うわああああああ!
俺は穴があったら入りたいような思いで、床の上をごろごろと転げ回る。
「最後に一つだけ聞いていい?」
こほんと、喉の調子を整えて、心を落ち着けると、俺は口を開く。
「ドラペは、やっぱり一華の影響で? なんていうか純は、ゲームとかやらなさそうに見えるから」
「他に理由なんてないだろ。小笠原さんがドラペが好きなのを知って、その日にやり始めたよ」
やっぱりそうか。純も一ノ瀬さんも、どいつもこいつも。
答え合わせ終わり。
これでまた一つ、心に区切りがついた。
あとは……。
「じゃあ俺、いくよ」
俺はすくっと立ち上がる。
つられたように、純も遅れて立ち上がる。
「…………」
「……?」
なにか言いたげな顔をしてから、純が両手をズボンで拭くような身振りをする。
それからすぐに、まるでなにかから話をそらすような様子で、言う。
「京矢は、どうするんだ?」
「なにが?」
「明日の林間学校。なんていうか、もう間に合わないだろ?」
「いくよ。朝の集合時間には間に合わないけど、まあ途中参加でいいかってことで、識さんたちとは話をつけてある」
「ああ、そんな感じか」
「純もそんな感じだろ?」
「いや……俺はいかない」
「いかない? どうして?」
「いや、色々あったし、顔を合わせづらいっていうか。いけねえだろ。普通に考えて」
俺と? と思ったが、今こうして顔を合わせているし、多分一華と識さんなんだろうな。
俺の思いとか、そんなのはどうでもいいけど、……はたして一華と識さんは、純が二人に憚って、一生に一度の林間学校にこないことを、よしとするのだろうか?
いやしない。あの二人はそんなに狭量じゃないし、なにより人を許すことのできる、温かくて大きな器を持っているのだから。
「いやこいよ」
「いや……でも」
「一華も識さんも、絶対にそう言うはずだぞ」
俺の言葉に、純が鼻から息を吐く。溜息のように重い、幾分感情を含みすぎた吐息を。
「……考えておくよ」




