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第207話 夏木くるみと京矢の告白

 廊下に出ると、そこには心配そうに中をのぞく、一華の姿があった。

 一華は俺が出てきたのを見ると、胸に手を当てて、なにかを言おうとしたが、それよりも先に、俺が一華の手を取り、走り始めたので、この時一華がなにを言おうとしたのかは、結局聞かずじまいだった。


 エレベーターを使い、一階まで下りると、俺は迷わずホテルの裏側にある日本庭園へと向かう。そしてそのまま歩調を弱めることなく早足で池のあるところまでくると、例の『見晴台 489m』と書かれた指差し看板を通過して、左右が鬱蒼とした森の小道へと足を踏み入れる。


「きょ……京矢……この先って……まさか……」

「そうだ。例の展望台だ。昔俺とくるみで、結婚式ごっこをした」

「い、いるの……? そこに」

「ああいる。間違いない。間違いないんだ」


 森の小道を抜けると、眼下に小川を望める、若干開けた場所に出た。

 とても気持ちのいい遊歩道だ。

 木のベンチに、風景をイラストにした、山の地図なんかも設置されたおり、散歩にはうってつけのコースだろう。

 足元はコンクリートになっており非常に歩きやすい。昔俺とくるみがこの道を歩いた時は、確か土とか木の根とかがむき出しになっていたような気がするが……おそらくは時代の流れ、怪我をされてはたまったもんじゃないみたいな過保護な配慮で、舗装されたのだろう。

 まあ野性味とか風流とか、そういったものはなくなったかもしれないが、歩きやすい方が歩く側としてはいいので、特に問題にしようとは思わないが。

 見晴らしのいい遊歩道を越えると、再び左右に木々の林立する、涼し気な小道に差しかかった。

 ふと脇に目をやると、『展望台 この先』と、麓にあった指さし看板と同じ型の看板が、地面に突き刺さり、俺たちを導いている。


 ……ついにきたか。


 ごくりと息を呑むと、俺はその最期の木のトンネルに足を踏み入れる。


 ……覚えている。この先だ。

 この森の小道を抜けると、目が眩むような眩い光と共に、一気に視界が開けるんだ。

 そして……そしてそこには……

 そこには…………


 森のトンネルを、俺と一華は、一緒に抜けた。

 強い夏の日差しに、やっぱり目の前が一瞬真っ白に染まった。

 風が、心地よく頬を撫でる。

 澄んだ空気が、俺たちに自然の香りを届けてくれる。

 空はどこまでも青く、どこまでも高く、なによりどこまでも深い。

 海みたいだ……と、俺は思った。

 浮かぶ雲は、さながらクジラの立てた水しぶきか、もしくはイルカの吐き出した呼吸の泡といったところか。

 山々が、どこまでもどこまでも、空の彼方まで連なっている光景が、木の手すりの向こうに広がっている。

 そのあまりにも広大すぎる光景は、俺たち人間がどれだけ小さくて、ちっぽけな、取るに足らない存在かを諭してくれるようだ。同時にそれらは、この場所でさえ、広い世界の極一部分でしかないことを、決して厚かましくなく、なによりも啓示的に、俺たちに教えてくれる。


 くるみは……?


 左右に首を振り、俺はくるみの姿をこの場所に求める。

 柱と屋根だけでできた東屋に、その向こう側に立つ一本の木。

 その木の下に、可愛らしいイラストがプリントされた七分丈のティーシャツに、ジーンズという格好をした、ツインテールの女の子の姿があった。


 一瞬、息が止まる。


 明らかに瞳孔が開いて、まるで望遠鏡を覗くように、くるみの姿が大きく、鮮明になる。


 一華が、俺からそっと手を離すと、ゆっくりと後ずさり、小道の木陰に、そっとその身を隠す。


 そっか……そうだよな。

 今回の場合、別に二人で同時に、一華の格好で出ていっても構わないが、できればとりあえずは、くるみに俺のことを、『一華だ』と勘違いさせた方が、多分効果が増すだろうな。


 俺は木陰から顔を出す一華へと、頷くことによって意思を伝えると、今一度くるみを振り返り、足音を立てずに慎重に歩き出す。


 いよいよこの時がきた。

 くるみの家出が発覚したのが、二日前の夕方。自宅のリビングでのことだ。

 それからたくさんの人たちの協力を得て、ようやくここまでたどり着いた。

 なんだか……すごく時間がかかった気がする。

 なんだか……ものすごく遠くにきてしまった気がする。

 でもこれで終わりだ。

 これで過去を清算して、くるみは一歩を踏み出すことができる。

 ふてぶてしいし、素直じゃないし、口が悪いけど、くるみはとってもいい子なんだ。

 そんなとってもいい子が、ブラコンが故に、青春の、とても大切な時期を、棒に振ってはいけない。

 兄なんか超嫌いでいい。

 兄なんかと口を聞きたくなくていい。

 それが普通だ。

 普通の女の子として、誰か他の男と普通に恋をして、普通に青春を謳歌するんだ。

 悲しいし、正直想像するだけでむかっ腹が立って仕方がないけど……我慢するよ。

 我慢して見守るよ。

 それがどこまでも兄の、兄たる行動なのだから。

 だから……だからだから……

 俺は今日、この場所で、最愛の妹くるみに、嫌悪するぐらいに嫌われるんだ!


 くるみのもとにたどり着く。

 くるみは俺に対して背を向けて立っているので、まだ俺の存在に気づいていない。


 声を出そうと、俺は音もなく息を吸う。

 が、やはり、極度の緊張のためか、喉が震えて一時停止してしまう。


 太陽が、頭上に広がる一欠片の雲により、束の間遮られる。

 展望台には、束の間涼し気な影が降りる。


 くるみが、顔を上げて空を見上げた。

 つられた俺も、空を見上げた。

 暗い、まるで皆既日食のように輪郭部分が輝く、神々しくも荘厳な、まるで物語の一部のような、そんな雲が浮かんでいた。


「……くるみ」


 呼びかけに、くるみが俺を振り向く。

 くるみは、しばらくの間無言で、瞬きのない瞳で、俺を見つめる。


「やっと見つけたよ……くるみ」

「……え? もしかしてバカ兄……?」

「そうだ。お前の兄だ」

「は? どうして? なんで……なんで? ……は?」


 視線をそらしたり、俺を見たり、視線を自分の足元に落としたり、また俺を見たり、そんな忙しない眼差しを繰り返しながら、くるみが何度も何度も質問の言葉を繰り返す。


「決まっているだろ。お前を迎えにきたんだ」

「私を迎えに? バカ兄が?」


 唐突な再会の衝撃が去り、少しずつ状況を把握できてきたのか、ここでようやく、くるみが俺の格好について突っ込みを入れる。嫌悪と冷笑、憎しみと嘲笑を入り混ぜたような、冷たくも厳然とした口調で。


「つかバカ兄……なんでそんな格好してんの? マジで意味分かんないんだけど。つか死ね」

「この一華の女装姿か?」


 わざとらしく聞く。くるみを、心底皮肉るように。

 くるみは表情をさらに険しくして、俺の問に首を縦に振って答える。


「くるみ……実は俺、お前に言わなきゃいけないことがあるんだ」


 きりと真面目な顔をして、しゃきっとした強い眼差しをくるみに向ける。


「な……なに? 気持ち悪い」

「それはな」


 くるみに顔を近づける。

 言葉だけではなく、態度でも女装の真意……という名の虚偽を、伝えるために。


「う、うん……つか顔近いし」

「それはな」


 言うぞ……言うぞ!

 頼むぞくるみ!

 しっかりどこまでも完全に……俺を嫌ってくれよ!



「実は俺! 幼なじみの一華の格好に女装して、そんな格好を鏡で見ながら、一人でオ●ニーするのが、大大大大、だーい好きなんだあああぁぁぁぁぁぁぁああああああああっぁ!!」



 こだまする俺の恥ずかしすぎる告白。

 俺の心の叫びは、やまびことなり、温泉街にとどまらず、連なる山の向こう向こうへと、広がってゆく。


 ……ああ……言ってしまった……言ってやったぞ……。

 なんだかすごく気持ちがいいな。

 雄大な自然に向かって、大声で、人には言えない恥ずかしいことを叫ぶって、こんな感じなのか。

 校舎屋上から愛を叫ぶあの企画とかって、様々なものがたまるティーンエイジャーにとっては、あるいはものすごい心理的浄化作用を伴った、非常に精神医学的作用を促す、そんな企画なんじゃあないだろうか。実は。


 やまびこがおさまり、雲から太陽が顔を出したそんなタイミングで、俺は仰いだ空から顔を下ろして、そっと、目の前にいるくるみへと、瞼を上げる。


 なんとも感情の読めない、微妙な顔をしたくるみの相貌が、そこにあった。

 驚いているような、困ったような、はたまた怒っているような、同時に悲しんでいるような、そんな、どちらかといえば哀愁に近いかもしれない、今までに見たこともないような、くるみの表情……。

 意外……というか予想外だったのは、様々な感情が入り混じった表情の中に、嫌悪とか忌避といった、人を突き放す、ようはいつものくるみの表情を何一つ見つけられなかったことだ。


 嫌悪とか忌避の感情が見受けられない……これは今回の目的にとっては、非常に芳しくない事態ではあるのだが……はたしてどうだろうか。


「ええと……くるみ?」


 ビミョーすぎる空気に耐えかねて、俺は恐る恐る口を開く。


「ど、どうだ? 気持ち悪いだろ? こんな兄、気持ち悪くてしょーがないだろ?」


 つうっと、一筋の涙が、くるみの頬を伝った。

 ぼろぼろと涙が溢れ出す、いわゆるジブリ泣きではなく、少女の顔に寂寞をもたらすような、そんな密かでセンチメンタルな涙が。

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