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第206話 VS渡辺純

「ちょっ──待つんだにゃ」


 俺の狂行があまりにも出し抜けだったためなのか、伸ばした識さんの腕さえ、俺の肩をつかむことができない。


「落ち着くんだにゃ! こういう時は焦ってはいけないのだにゃ!」


 分かっている。分かっているさ。


 部屋の前で立ち止まると、俺は一度深呼吸をして、手をげんこつにする。


 ……世の中、勢いだけじゃだめ。慎重なだけでもだめ。その両方がバランスよく必要ってことぐらい。


 それから俺は、握った拳をゆっくりと持ち上げると、おもむろに、なによりもちょうどいい力加減で、ドアを三度ノックする。


 この数週間に起こった様々な出来事で、俺はそれを嫌というほど分からされたんだ。


 ドアの向こうから、「はい」という、純の声が聞こえる。


「なんですか? さっきの火災報知器の件ですか?」


 ドアがゆっくりと開く。

 開ける前から言葉を発していたので、後半の『火災報知器の件ですか?』の部分のみが、遠くから一気に近くなったように、大きな声で聞こえる。


「……え?」

「…………」

「え? ……は?」


 固まる純。顔からは表情が消えて、困惑するように、さっと血の気が引く。


「お、小笠原さん?」


 訂正しよう。

 先ほどの俺の、まるで悟ったような考えを。

 世の中、勢いだけじゃだめ? 慎重なだけでもだめ? その両方がバランスよく必要?

 クソ喰らえだ!

 そんな簡単に心をコントロールできたら、誰も争いなんかしないし、戦争なんて起こらねえよ!

 そう! これは戦争なんだ! 家族を守るための、兄である俺に科せられた、どこまでも純粋な、聖戦なんだ!



 じゅんてっめええええええええぇぇぇぇえぇぇぇぇええええええっ!!!!



 声にならない雄叫びを上げると、俺は純の顔につばを吐きかけてから、思いっきり両手で純の体を突き飛ばす。

 突然のことに反応できなかった純は、そのまま一歩……二歩……三歩……四歩と、部屋の奥へと後ずさってゆく。

 ユニットバスとクローゼットに挟まれた、狭い通路を抜けた先の、ベッドの手前辺りで立ち止まると、純は俺へと顔を向けたまま、手の甲を使い、無意識といった様子で、顔についたつばを拭き取る。


「……その声……京矢か?」

「くるみは! 俺の妹はどうした!?」

「…………」


 目を見張る純。それからすぐに、わずかに顔を伏せてから、なにを思ったのか口元に笑みを浮かべる。

 ビキビキビキっという、額に青筋が浮かぶ音を、俺はこの時始めて聞いた。


「くるみちゃんがどうなったかって? 聞かない方がいいぜ」



 ああああああああああああああああああっっっっ!!!!!!!!!



 純へと向かい、俺は猛突進をする。

 だがしかし、心に体が追いつかないので、出だしですぐに、軽くけつまずき、情けなくも床に手をついて転んでしまう。

 すぐに立ち上がると、がむしゃらに、ただただがむしゃらに、俺は純へと向かい、大ぶりの右ストレートを叩き込む。

 拳は、純の左腕に当たった。しかし当たっただけで、特にダメージはないみたいだ。

 表情一つ変えずに、冷たい表情で俺を見下ろしている。


「うわああああああああ!」


 俺はさらに、左、右、左、右と、次々とパンチを繰り出す。……仰々しいがぺちぺちとひ弱な、まるで癇癪を起こした子供のパンチみたいに。


 視界に、火花が散ったような、光の一閃が走る。

 俺は、口の中にじわっと広がった鉄の味と共に、よろよろと何歩か後ずさる。

 純により、パンチを食らわされたと理解したのは、実際にパンチを食らってから、数秒もあとだった。


 ……はあ……はあ。

 はあ……はあ…はあ……。

 じ、実力が……違いすぎる。

 思いや気持ちだけじゃ決して越えられない壁が、ここにある。

 力を伴わない正義は、単なる偽善だ……みたいな言葉があるが……本当だったんだ。

 こんなのは……こんなのは……正義じゃない。スーパーヒーローでもない。

 虐げられたとぎゃあぎゃあと騒ぐ、何の影響力もない、単なるしがない弱者にすぎない。


 ずんずんずんと、大股で俺に迫ると、純は俺の目と鼻の先に立ちはだかり、睨めつける。

 一気に戦意を喪失した俺は、進むこともできず、引くこともできずに、ただただ弱々しく視線をそらす。


「で、どうするんだ?」


 妙に低い声音で、純が聞く。


「俺を倒すんじゃあないのか?」


 ──っ!


 振り上げるようにして、俺は純の顔面をめがけて拳を振るう。


「馬鹿が」


 純はなんの苦労もなく、俺の手首をつかんでパンチを止めると、逆の腕を振り上げて、俺に殴打を食らわせようとする。


 ……ああ……死んだ……やっぱりだめか……喧嘩じゃ……俺は純に敵わない……。


 目を閉じ、衝撃に備えた次の瞬間──まるで本物の、現代アニメ版スーパーヒーローのような声が、視界の闇を切り開く!



「ここは私に任せるんだにゃ」



 ぱしっと叩かれた純の拳が、俺の耳の横を通過して、ひゅんと風を切る音を残して、なにもない空へと空振りをする。

 音の次にきた感覚は、肩に触れる、非常に軽やかな識さんの手の感覚。

 識さんは、俺の肩に手をつき、そのまま俺の頭の上を飛び越えて、純の顔面めがけて、高い高い飛び蹴りを叩き込む!


「かはっ」


 識さんの蹴りをもろに受けた純は、今度は後ずさるのではなくて、床に倒れて尻もちをつく。

 だが識さんの攻撃はこれで終わらない。

 そのまま床に落下する重力の力を利用して、振り上げた組んだ手を、純の頭上へと振り下ろす。


「くそがっ」


 すかさず純は、横に体を回転させることにより、識さんの攻撃を回避する。

 でかい図体のわりには、かなり軽快な身のこなしだ。


 体格がいい……筋肉質……イコール動きが鈍いって、完全にイメージだよな。


「逃さにゃいんだにゃ」


 勢いを殺さない、流れを変えない、といったていで、識さんが攻撃を続ける。

 手を猫にして、一切の無駄のない、量子力学でいうところの、光の最短直線移動的な動きで、純の顔を──否! あろうことか目をめがけて、パンチを繰り出す。


 ──め、めめめ、目はまずいってえええ!


 俺の心配は、生物に備わった本能、反射運動により、なんとか回避される。

 識さんの爪(手)が純の目に届く寸前で、純は目を閉じて、顔をわずかにそらした。

 その間、実に0.02秒! 今度は嘘じゃないっす。

 つーっと、純の頬を真紅の血が伝う。


「……れ? 外したにゃ?」

「つか……識さん?」


 何気なく放たれただろう純の言葉に、一瞬識さんの瞳が揺れる。

 この瞳の揺れを本能的に『動揺』と捉えた純は、これまた本能的に、この隙を見逃さない。

 純は、尻もちをついたままの姿勢で両手を床につくと、力を込めて、識さんの腹に足の裏全面を使った、蹴りを打ち込む。

 かなり力が強かったのだろう。ふっとばされた識さんが、ちょうどすぐうしろにいた俺の胸へと、飛ばされてくる。


「識さん!」

「ぐっ……ふ……やってくれるにゃ」


 まさかあの純が女の子に手を上げるなんて……。

 別に純をかばうわけじゃないが、先ほどの『目』に向けた識さんの攻撃が、よっぽど生存本能に訴えかけたんだろうな。


「京矢、ここはいいにゃ」

「ここはいいって……一体なにを……?」


 肩で息をしながら識さんが立ち上がる。

 俺も識さんにならい、その場に立ち上がる。


「ここにくるみちゃんはいにゃい。そしておそらく今の純に聞いても、くるみちゃんがどこにいるのか、決して口を割らにゃい」


 …………。


「純は私が、にゃにがあっても食い止める。……にゃから、いくんだにゃ」

「いくっていっても、どこへ……?」

「京矢は、もう知っているんじゃにゃいかにゃ?」


 知っている?


「この温泉街のどこにくるみちゃんがいるのかを」


 俺は知っている? どこにくるみがいるのか。


「……だから」


 部屋にいない……なら……。


「早くいってあげるんだにゃ!」


 イメージが浮かぶ。

 記憶が蘇る。

 先ほど、日本庭園から見上げた見晴台。

 過去に、展望台から見下ろした温泉街の風景。

 現在と過去が、交互に、代わる代わる、俺の脳裏に駆け巡る。

 思い出が、記憶が、過去が、現在が、俺にその場所へゆけと、強い言葉で背中を押す。


 ──いくしかねえ!

 くるみは、今現在、あの展望台にいる!


 根拠はなかった。証拠も、それを裏付けする事実や情報も、なにもかもがなかった。

 でも感情が、俺とくるみが家族としてすごしてきた十数年という日々が、積み重なった時間的重みとして、どんな統計学よりも正確な、『勘』という動物的本能として、俺に明確な答えを与えた。

 説明なんかできない。説明の必要がない。

 一言で言ってしまえば、これは愛なのだから。

 どこまでも文学的な、『愛』という理由それだけに、他ならないのだから。


「識さん! 俺、いってくるよ!」

「うんにゃ」

「じゃあ、ここは任せたから!」

「承知にゃんだにゃ」


 最期に識さんは、肩越しに俺を見つめると、顔の横に猫の手を挙げて、思いっきりキュートなウィンクで、言う。


「いってらっしゃいませだにゃ。ご主人さま」

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