第205話 突撃
ベルが鳴り止んでから数秒後に、トイレの外からスピーカーの声が聞こえる。
『只今非常ベルが鳴りましたが、スタッフが確認しましたところ、誤報であることが分かりました。お客様には大変ご迷惑をおかけしました。只今の非常ベルは誤報です。どうぞご安心くださいませ』
立ち上がると、若干だが呼吸が荒くなる。だがすぐに落ち着いて、少し息苦しいぐらいに戻る。
「大丈夫……そう?」
「どうかにゃ……分からにゃいにゃ」
個室をあとにし、恐る恐るトイレから出ると、おそらくは騒ぎの中心になっているだろう、ロビーにあるフロントへと顔を向ける。
一華がいた。先ほどから姿の見えなかった、一華がいた。
一華は麦わら帽子を取り、ホテルの責任者と思しきスーツ姿の男性の前で、深々と頭を下げて、たどたどしくも、謝罪の言葉を並べ立てている。
「あ……あの……本当に、ご、ごごご、ごめんなさい。た、立ちくらみで、倒れそうになって、それで、それでそれで、倒れそうだったので、壁に手ついたら、そこに消火栓あって……だから……その、わざとじゃ……ないんです。ご、ごめんなさい。ご、ごご……ご迷惑を、かけてしまって」
謝罪の気持ちが伝わったのか、あるいは少女の誠意に当てられたのか、責任者と思しき男性は、困ったように首を振ると、「もういいから」と言い、一華の肩に優しく手をのせる。
「一華……」
俺は、俺なんかのために、わざわざ勇気を出し、嘘をついてくれた一華に、感謝を超えた、熱い、あまりにも熱い、名状しがたい感情が、腹の底より湧き上がる。
俺たちの存在に気が付いた一華が、その後すぐに俺たちの方へとやってくる。
一華と別れた責任者と思しき男性は、出入り口付近に集まった、避難してきた幾人かの客たちに説明をするため、音もなく、しかし早足で、歩み寄っていく。
「……一華」
「きょ、京矢」
「一華、ありがとな。一華は俺の恩人だ。この恩は、一生かけても返せないかもしれない。でも絶対に、それに届くぐらいに返すと、ここに誓うよ」
「ううん」
小さく首を横に振る。
「いい。恩とか返すとか、そんなのはいい。だって……だってだって……だってわたし……」
なにかに気づいたように、一華が口をつぐむ。
それから頬を朱色に染めて、うつむき加減に視線をそらす。
「だってわたしなんだよ?」
「は? どういう意味だ?」
「な……なんでもない」
「なんでもないことはないだろ。教えろよ。気になるだろ」
「なんでもないったらなんでもない」
「いや、別に隠す必要ないし、それに──」
突然、識さんが俺と一華の腕をつかみ、半ば突き飛ばすような格好で、女性用トイレの中に連れ込む。
尋常ではない識さんの行動に、一体なにが起こったのか理解が追いつかなかった俺は、真っ白の頭のまま、ただただ識さんの次の言葉を待つ。
「いた」
言い直す。
「いたんだにゃ」
「いた? ……まさか、くるみ?」
「いや、純の方だにゃ」
識さんの返答に、俺はトイレから、そっと廊下へと顔をのぞかせる。
「エントランスのところ、避難してきた人たちが集まっているにゃ。そこに純の姿があったんだにゃ」
俺は半身のまま、もう少しだけ顔をのぞかせてみる。
──いた!
高身長であり、爽やかな短髪であり、しかも超がつくほどのイケメンでもある、我らが西高のスーパースター、渡辺純だ。
昨日のライブカメラ映像とは違い、現在は浴衣を着用してはいないが、ジャージのハーフパンツにブイネックの白のティーシャツと、シンプルな格好をしている。にっくきかな。スタイルがいいので、そんな超シンプルで、言ってしまえばズボラとも言える服装でも、なんだかものすごく似合い、同時に様になってしまうから目も当てられない。
ああ目が潰れる。イケメンは罪だからせめてイケメン税を導入して、般ピーである俺みたいな人民に、再分配するべきだ! そうだそれがいい! 平等を! 持たざる者に富を、イケメンには怒りの鉄槌を!
「よし。殺そう」
スパンと、識さんに頭を叩かれる。
「冗談でもそんにゃこと言っちゃいけにゃいんだにゃ。……まあ今の京矢にゃら、やりかねないから恐ろしいんにゃけど」
「すまん。殺そうっていうのは、純をっていう意味じゃなくて、なんていうかこう、イケメンとか、能力とか才能があるやつとか、なんかそういう上級国民的な、概念を殺そうっていうか、そんな感じだ」
「言っている意味がよく分からにゃいんだにゃ」
「すまん。忘れてくれ」
自分でもなにを言っているのよく分からなくなってきたので、とりあえずこの話題はここで終わりにすることにする。というかこれ以上続けても意味がないし、多分続ければ続けるほど傷つくのは、なにを隠そうこの俺自身だと思われるから。
「それよりもあいつ……一人ってことは、くるみを見捨てて自分だけ避難してきたってことか?」
「なんとも言えにゃいにゃ。一人で一階に下りてきた時に、ちょうどベルが鳴ったとか、そんにゃ感じかもしれにゃいにゃ」
「確かに」
でも俺だったら、なにがあろうと、部屋に残したくるみのもとへと、全力疾走で駆けつけるけどな。
「で……でもでも、これで……部屋を見つけられる。突き止めることができる」
一華が、俺の背後から純の方に視線を送りながら、力強い語気で言う。
「だな。あとは気づかれないように純を尾行すれば、部屋を割り出せる」
消火栓のベルを鳴らすというやり方は、確かにまずかったし、咎められるべきことだったかもしれないけど、結果的に、成果をつかむことができたという事実は、見過ごせない。
「純が、歩き出したんだにゃ」
識さんが、言葉と視線で純を示す。
「追いかけるんだにゃ」
「よしきた。……あ、でも」
純は、部屋に戻るため、フロント脇に設置されたエレベーターへと向かった。
エレベーターは個室だ。一緒に乗るわけにはいかない。
見逃さないためには……そうだな、スマートフォンをずっと通話状態にし、それで一華か識さんを一階に待機させて、エレベーターがどこの階で止まったのかを随時報告してもらう。
俺は階段を全速力で駆け上り、通話からの報告を聞きつつ、エレベーターの止まった階で純が降りてこないかを見張る。
……そんな感じか。
純がエレベーターに乗り込んだので、俺は今頭の中でシュミレーションをした計画を簡潔に一華と識さんに話すと、脇目もふらずにさっそく階段へと走り出す。
すると識さんも、俺のあとに従いついてきた。
同時に、手に握ったスマートフォンに、一華からの着信が入る。
「一階は、一華に任せたんだにゃ。多分こにょ場合、追っ手に人員を割いた方が、得策だと思うから」
「うん。そうかも。助かるよ」
電話に出ると、一華が焦ったように、出し抜けに言う。
『二階止まらなかった。そのまま三階向かう』
「そのまま三階な。了解」
俺は大きく腕を振って、階段を二段飛ばしで駆け上ってゆく。
識さんはというと、手でスカートを軽くつまみ上げて、息一つ切らさずに、優雅に、階段を三段飛ばしで俺のあとについてくる。
なんつー身体能力! なんつー余裕さ! ハンター試験のサトツ並の余裕さじゃね?
『三階で止まった』
二階と三階の真ん中辺りで、受話口から一華の声が響く。
「三階!? 分かった!」
くそう……間に合わない?
「三階にゃのね。任せるにょね」
ぼそりと呟くと、識さんがとんとんとーんと、階段を一気に上り、俺より先にいち早く、三階へと踏み込む。
遅れて三階に到着した俺は、踊り場の壁越しに、客室が並ぶ廊下へと視線を送る。
ちょうど、数組の客たちが、廊下を歩いているところだった。
「降りていないか」
「まだエレベーターは閉まっていにゃいにゃ。すぐにいくから、京矢は先に上に向かうんだにゃ」
頷くと、俺は二階フロアに背を向けて、再び階段を上へと向かい走り出す。
三階と四階の真ん中辺りで、一華が報告を告げる。
『エレベーター、動き出した』
「おう」
この時点で四階に到着。
どうしようか迷ったが、四階と五階、どちらでも対応できる中間を採ることにする。つまりは階段の、四階と五階の中間へと向かう。
ちょうど四階と五階の間に到着したところで、一華が電話口に言う。
『四階通過……五階いった!』
この建物は五階が最上階だ。つまり純は五階に向かった確定であり、同時に純とくるみの潜伏する部屋が、五階にあるというのが、ほぼ確定したということになる。
五階──最上階の踊り場に出たところで、あとから階段を上がってきていた識さんが俺に追いつく。
俺は壁越しに、識さんは俺の背中越しに、今にも開くだろうエレベーターの鉄の扉へと、固唾を呑んで視線を送る。
……はあ……はあ……というか、なんで識さん息が上がっていないの? 汗一つかいていない感じだし。俺なんかもうくったくたのよっぼよぼだよ? 今立ち止まったら、一気に汗出てきたし。
あーしんど! 普段運動していないどこにでもいる普通の高校生なんて、しょせんこんなもんよ? 五階まで一気に階段駆け上ったら、酸欠の瀕死状態になるの、全然おかしいことじゃないからね?
「きたにゃ。純だにゃ」
酸欠と極度の疲労から、虚ろな眼差しになっている俺へと、識さんが肩を叩く。
「──あっ、ヤバ」
言うか言わないかのタイミングで、識さんが俺の肩を引いて、そのまま壁に押し付ける。そして壁ドン。きりっとした眼差しを一度右側に広がる廊下へと向けてから、ためらうことなく一気に、自分の唇を俺の唇に重ねる。
──!? !?
何がなんだかわけが分からないよ!!
キスの甘さに浸っている余裕なんてなかった。なぜならばその後すぐに、そんな淫靡な行いをする俺たちの脇を、純が通り過ぎたからだ。
な……なるほど。エレベーターは廊下のちょうど中央に位置している。だから部屋の位置によっては、階段の前を通過して、その先にある部屋へと向かう可能性があるということか。
だったら識さんのこの行為は……。
まるで俺の予想の答え合わせでもするかのように、純が、見てはいけないものでも見たみたいに、すぐに顔を反対側へとそらして、そそくさと通り過ぎてゆく。
……こうなるよな。カップルが、しかも猫耳メイドと制服を着た女同士が、階段踊り場でいちゃいちゃとキスをしていたら、誰だって謎の罪悪感と共に、見なかったことにして、そのまま通り過ぎるよな。
この場合意識は、『誰が』ではなく、『なにを』に向かうので、おそらくは行為者である顔も、西高の制服も、そこまで目に入っていないと考えて、ほぼ間違いないだろう。
純が通り過ぎてからほどなくして、識さんは俺から顔を離すと、反対側の壁際へと寄り、覗き込むようにして廊下へと顔を出す。
遅れて俺も、識さんと同じようにする。
「奥から二番目の部屋に入ったにゃ」
奥から二番目……部屋番号の割り振りは、エレベーターを中心として、時計回りに若い番号が振られている。ワンフロア二十部屋だから、純が入った部屋は……『517号』室!
純が扉の中に消えるとほぼ同時に、一華が階段を、恐る恐るといった体で上ってくる。
「一華……階段できたのか?」
「う……うん。念のために。エレベーターは危ない」
当然一華も、はあはあと息を荒らげている。
息一つ切らさずに平然としているのは、今や謎のパワーを身に付けた識さんメイドだけだ。
「部屋……分かった?」
「ああ。『517号』室。廊下右側の、奥から二番目の部屋だ」
「で……どうするの?」
俺は、手に握っていたスマートフォンで、現在の時刻を確認する。
画面には『16:48』と数字が浮かんでいる。
……時間がない。
だったら──
「決まっている」
「にゃ?」「へっ?」
声を上げつつ、俺は走り出す。
「突撃だ!!」




