第204話 錯乱と暴走
戸を閉めると、俺は一人で「失礼しましたー」とかぶつぶつ言いながら、浴場をあとにする。
……さて。どうしようか……。
スマートフォンを取り出して時刻を確認すると、画面に映し出されたデジタル時計には『15:58』とあった。これは、捜索の前半戦も、すでに半分が終わってしまったことを意味する。うかうかはしていられない。速やかに、しかしながらも慎重に行動をしていかなければ、近い将来、というかもう一時間と三十分後には、確たる破滅が俺を焼き尽くすだろう。
俺は周囲に警戒を払いながら、まずは近くにあった自動販売機コーナーを覗いてみる。
なんだか閉塞感の漂う陰気なスペースに、ジュースの自動販売機が二台と、酒とアイスの自動販売機がそれぞれ一台ずつ、整然と並べられている。スペースの中央付近には背もたれのない椅子が三つ置かれており、それらがぴったりと横並びにされているので、どこか大きめの、長方形の長椅子のような見かけになっている。
人は……誰もいない。なんだか、ちかちかと明滅する、切れかけの蛍光灯とかが似合いそうな場所ではあるが、さすがは格式のある立派なホテルだ。管理がいき届いているので、そんな粗末で人に陰鬱な印象を与えるような雑な仕事はしていない。というか蛍光灯どころか、埋め込み式の暖色系LED電球が、暖かく、なによりも優しく、周囲を照らしている。
俺はそこでペットボトルの水を購入すると、念のためにも大広間の休憩室、遊具施設、その隣に併設された、じゃんけんゲームなど、昭和から平成初期に流行った筐体の置かれた、レトロなゲームコーナを見て回ってから、ホテル裏側にある、日本庭園へと足を向けた。
外に出ると、俺は飛び石になった歩道を、池へと向かい進んでゆく。左右には花のないツツジの灌木が、その奥にはきれいに剪定されたたくさんの松の木が、まるで果てがないように林立している。
小道を抜けると、青い空、夏特有の白いもくもくとした雲をその水面に映した、立派な池に突き当たった。
……ここ、覚えている。知っている。
既視感……デジャブ……いや違う。これは思い出の……記憶の符合……。
時計回りに歩道を進み、池の反対側へと回ると、俺はそこに一つの指さし看板を見つける。
『見晴台 489m』
思わず看板上部に手をのせると、撫でるように、外周に沿って手を下へと滑らせる。
……ああここだ。間違いない。この先の展望台で、かつての俺はくるみと結婚式ごっこをしたんだ。
懐かしさも手伝ってか、自ずと俺は顔を上げて、展望台がある山の中腹辺りを見てみる。
結構遠い。急いで登っても、多分数十分はかかるだろう。
今いくと、間違いなく十四時三十分の中間報告には間に合わなくなる。
しかも、ここから見る限りでは、上にある展望台の手すり越しに、誰かがいるようには見えないし……。
とりあえず見晴台に向かうのを保留にした俺は、ペットボトルの水を一口飲んでから、ホテルの屋内へ、一華のいるコーヒールームへと、足を向けた。
「それで、首尾はどう?」
再びのソファ。ヨギボー顔負けのスタバとかにありそうなふっかふかのソファ。
ふかふかすぎて逆に疲れるので、俺は縁に尻だけを腰かけて、肘を膝につく前のめりの格好で、一華と識さんに聞く。
「上々だにゃ」
「上々? ってことは、見つけたのか!?」
「うんにゃ。温泉がすごく気持ちよかったということだにゃ」
ずこーっと、俺は絵に描いたみたいに、ローテーブルの上にずっこける。
「まぎらわしすぎ! 今マジでがっかりしたんだけど!!」
「冗談なんだにゃ。ほんの遊び心にゃんだにゃ」
いや、真面目な場面で、冗談とかギャグとか、マジでいらないんすけど。ほら、漫画とかアニメとかでたまにあるだろ? シリアスな場面で寒いギャグをぶっこんでくるやつ。あれマジでやめた方がいいと思うんだよね。作り手は面白いつもりでやっているのかもしれないけど、観ているこっちは、なんかあーあって感じで、本気で冷めるから。まあ……色々棚上げしている嫌いは否めないけど。
「真面目にゃ話、妹さん、温泉にはこにゃかったにゃ。たまにあがって休憩室とかも見てみたけど、残念にゃがらそっちにも、姿を見せにゃかったにゃ」
ぐぬぬぬぬ……。
「い、一華は?」
伏せ目がちに、小さく首を横に振る。
「……そうか」
「ちにゃみににゃんだけど」
落胆する俺に、識さんが追い打ちをかける。
「一応、フロントで聞いてみたんだにゃ。渡辺純って人が宿泊しているはずにゃんだけど、どこの部屋か教えてほしいって」
「どうだった?」
「やっぱりだめだったにゃ。知り合いであることを証明するためにも写真を見せたんにゃけど、にゃんか胡乱な表情をするばっかで、その後は『お引き取りください』の一点張りだったんだにゃ」
「胡乱な表情って……」
それは識さんの、その人を馬鹿にしたような格好が原因なんじゃあないか? 頭に猫耳、お尻にしっぽの、メイドさんとかって。
いや間違いなく関係あるね。ぴしっとした学生服だったり、スーツ姿だったり、あと弁護士バッチっぽいなんかそういうのがついていたりしたら、教えてくれないにしろ、間違いなく対応が変わっていたと思うね。
権威性っていうの? 人って外見の印象にだいぶ左右されるもんだからさ。
弁護士さま! お医者さま! 政治家さま! エリートさま! ははーっ!
「とはいえ、残り時間は、あとたったの五十五分しかにゃいにゃ」
……え? 五十五分?
おもむろに、識さんがスマートフォンを取り出す。
ロック画面にはでかでかと、『16:35』と数字が浮かんでいる。
あれ? もう一時間を切っている?
というか五十五分って、よく考えたらもう本当に時間なくね?
逃げるように、あるいはなにかにすがるように、俺はフロント脇にある、大きな木の置き時計へと顔を向ける。
これがいけなかった。デジタルの数字ではなく、文字盤という、ある種数量がはっきりと可視化された時計を見たばかりに、余計に時間のなさを認識させられてしまったから。
五十五分……ゴジュウゴフン……あと秒針が五十五回回ったら、それでお終い。たったの五十五回だぞ。そんなの一瞬じゃないか。ほらこうしている間にも、すでに四分の三周……あ、一周回った! あとたったの五十四周だ! ああああああ! 言っている間に四分の一周回った。うわあああああ! 止まってくれ! 時よ止まってくれ!
心の中で、一人でごちゃごちゃと考えているうちに、俺はだんだんと焦りの気持ちが迫り上がってきた。はあはあと呼吸が上がり、冷静な考えができなくなってくる。いわゆるパニックは目前だ。
「ど、どうしよう? どうしようどうしよう?」
「「…………」」
沈黙する一華と識さん。
その沈黙が、余計に重くのしかかる。
え? 万策尽きた? とどのつまり……終わっちゃった?
嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!
そんなの絶対に嫌だ!!!!
「あああああ……もうこうなったら大声でくるみたちの名前を叫んで、ホテル内を練り歩こう。そうだよそれがいいよ。初めからそうすればよかったんだ。騒ぎ立てれば、一体なんだ? と純の方から姿を現すかもしれない。そうだよそれがいい。つかそれしかない!」
「落ち着くんだにゃ。そんにゃことをしたら逆効果にゃんだにゃ」
「逆効果であるもんか! だってこれ絶対に……」
遮るようにして、識さんが言葉を継ぐ。
「純たちに先にうちらの存在を知られては、余計に部屋から出てこにゃくにゃるんだにゃ。それに、そんにゃことをしてホテル側に迷惑をかけたら、出禁ににゃって、もう二度とここでの捜索ができにゃくにゃるんだにゃ」
正論だ……正論だ正論だ正論だ!
でも正論なんかほしくない!
マジで困っている人、マジで追い詰められている人が、相談相手に求めるのは、十中八九正論なんかじゃあない! 夢物語でもなんでもいい! とにかくその人に寄り添った、『大丈夫だよ』っていう、慰めなんだ! たとえ大丈夫じゃあなくても、とにかくその言葉そのものがほしいんだ!
結局識さんも他人事……上から目線……強者の意見……。
ああああああああああああ! だめだだめだだめだ! こんなことを考えちゃいけない! これは俺の意見じゃあない! 追い詰められた精神から出た、負の滓みたいなもんだ!
事実識さんは、俺のためにわざわざこんな遠いところまで同行してくれているじゃあないか!
その誠意に、感謝するべきなんだ!
そうなんだ!
とにかくなにかしないと。なにか行動を起こさないと。
──そうだ! バリアート!!
スマートフォンを取り出すと、俺はすかさずラインを開き、バリアートへとメッセージを送る。
〉kyouya 今どんな感じですか? どこの部屋か特定できましたか? 16:37
「ちょ、京矢、一体誰にラインしているのだにゃ?」
「バリアート」
「バリアート?」
俺の返答に、識さんが小首を傾げる。
そうか……バリアートは俺が勝手につけたあだ名だから、説明なしで口で言っても分からないか。
「さっきバス停んところのレストランで、識さんがぼこぼこにしたあいつ」
「ああー……あのナイフを振り回したヤバいやつ……って、なんで京矢が連絡先を知っているんだにゃ」
「それは……」
俺はつい今しがた、二階の廊下でばったりと出くわして、なんか色々とあり、彼ら三人が主に識さんの舎弟になったいきさつを話した。そしてついでだからということで、くるみと純の捜索を依頼したことも。
「にゃるほどそんにゃことが……。まあ、馬鹿とハサミは使いようって言うし、もしかしたらにゃにか役に立つこともあるかもしれにゃいんだにゃ」
バリアートからメッセージが返ってくる。
〉てつ 敬語はやめてください。俺らなんてしょせんはくだらない人間なんで、タメ口でいいっすよ 16:38
〉kyouya 分かった。それで、成果は? 16:38
〉てつ 申し訳ないです。部屋を回ってみたんですが、大半は出てこなくて 16:38
〉てつ 何部屋かは出てきたんですが、全員スカでした 16:38
「ああああちっくしょー!!」
悪魔の姿をした擬人化された『絶望』に、梯子を蹴落とされたイメージが脳裏に浮かび、思わず俺はスマートフォンをテーブルに叩きつける。
「落ち着くんだにゃ。妹さんにょことににゃると、京矢ちょっと……というかかにゃり、人格崩壊を起こすから、マジで気をつけた方がいいんだにゃ」
どうする? どうするどうするどうする?
どうするどうする?
やばいやばいヤバい!!
まじでどうするよ?
なにか方法は?
方法はないのか?
あああああああ。
こうしている間にもどんどんと時間が流れ去ってゆく。
なんでこんなに時間がないんだ?
どうしてどうして?
時間って先取りできないのか?
つか過去に、自堕落に過ごした時間を全力で謝るから、今この時に、変換してはくれませんかね? 神様。
くだらないソシャゲの時間も、なんか気怠いとかで惰眠を貪った昼下がりも、友達からかかってきた何の意味も用事もない通話の時間も、全部ぜ────っんぶ! 本気で心から土下座するんで、今ここに時間を戻してもらってもいいですかね? お願いしますどうかお願いします。
あああああどうして俺はあんな無駄な時間を!!
後悔先に立たずって、まさしくこれだよな。
今だったら、一時間……いや一分……いやほんの数秒でも、決して無為に時間を過ごすことをしないというのに!
どうして俺は! 俺は俺は俺は! 馬鹿だ!
馬鹿野郎だ!
大馬鹿野郎のうんこ星人だ!
うんこ! 大便! シット! おうシット!
識さんにより肩を揺すられる。
俺は霞んだ視界で、心配そうに俺の顔を覗き込む、識さんの姿を認める。
手に……温かいものが触れる。
目を向けると、俺の手に誰かの手が重ねられている。
一体全体誰だろう?
俺は手、手首、腕、肘と、徐々に目線を上げて、その者の顔を確認する。
「くるみ?」
小さくて可愛らしい顔に、幼さの残る茶色のツインテール。……我が最愛の妹、くるみ……。
「へ?」
「…………」
「私……一華。くるみちゃんじゃ……ないよ?」
「ああ……ああそうか……わるい……」
手で顔を覆うと、俺は覆ったままで立ち上がり、ふらふらとコーヒールームの外へ、トイレの方へと歩を進める。
「わるい……わるい……どこ? 誰が? わるい……なんか俺……今ちょっと気分がすぐれなくて……」
おそらくは、うしろから一華と識さんが俺を追ってきたのだろう。ぼやけた周辺視野で、なんとなくそんな光景を見たような気がしないようでもない気がする。
だが、そんなことはもうどうだっていい。
全てがどうだっていい。
なんだかすごく疲れたし、
頭がぼうっとするし、
息が苦しいし、
なんだかとてもふわふわするし、
夢を見ているような感じだし、
どこにいて、
このあとどうなるのかもよー分からんし、
熱に浮かされるってよく言うけど……ああこんな感じなのかな?
熱に浮かされる? なんだか温かい雲の上でふわふわ浮いているみたいだ。
違うか? うん違うな。イメージだ。これはイメージなんだ。イメージ。
だから鬼が金棒をぶん回して、煉獄にでも落ちるのが、きっと本質的に正しいんだ。
高野豆腐ってかたいんだよな。でも絹ごしもかたいのはかたいし。
ああ出汁の匂いがする。
旅館っぽいよな。
古い感じの、老舗の旅館。
赤い魚とかが似合いそうだ。
あとは黄色がきれいな卵豆腐。
林間学校といえば…………
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!
突如として、けたたましい音が響き渡る。
俺の意識は、鼻提灯がパンと弾ける漫画っぽいイメージと共に、現実に引き戻される。
音は……まだ戻らない。
眼前には、大口を開けてなにかを叫ぶ識さんが、俺の両肩をつかみがくがくと揺すっている。
それからすぐに、強く俺の手首をつかむと、受付カウンターとは反対へ、トイレへと俺を引っ張ってゆく。
女性用トイレの個室に入ると、識さんは俺を便座に座らせて、内側からがちゃりと錠をかけた。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
息を上げる識さん。
俺はというと、苦しいはずなのに、妙に落ち着いており、弱い呼吸を繰り返している。
「京矢……あんたやってくれたにゃ」
やった? 俺なにしたっけ?
「これは結構ヤバいかもしれにゃいにゃ」
うまく言葉が出てこなかったので、俺は餌を待つ鯉みたいに、パクパクパクパクと、口を何度か開け閉めする。
この時、先ほどから鳴り響いていた、『ジリリリリリリリ』という何らかの音が、不意に止まった。
識さんはかすかな安堵のあとに、すぐに緊張感の漂う表情に戻す。
「……ええと」
やっとのこさ声を出せた俺は、そんな識さんへと、質問の言葉を口にする。
「またオレ、何かやっちゃいました?」
完全にブーメラン。こんな時にギャグはマジでいらない。
「覚えてにゃいのかにゃ? 京矢あんた、消火栓のボタンを押したんだにゃ」
「消火栓のボタン? マジで?」
「マジマジの大マジだにゃ」
「それって、どれぐらいヤバいの? というか、ヤバくね?」
「よくは分からにゃいけど……下手をしたら業務妨害とかで、警察に捕まるかもしれにゃいんだにゃ」
「警察……マジか……」
パトカーの赤いランプが思い浮かぶ。その赤いランプに重なるようにして、消火栓の赤い光が思い浮かぶ。場所はホテルの廊下。オレは一華の格好をして、薄明かりに浮かぶ、そんな消火栓の前に立っている。
これは……つい今しがたのイメージ……記憶。
そうか。押したんだ。この俺が押したんだ。
多分騒ぎを起こしたかったんだ。
騒ぎを起こして、強制的に客たちを、部屋から引っ張り出したかったんだ。
多分多分、その後どんなことになるか、無意識のうちになんとなく、分かってはいたけど、まるで洗脳のように覆い隠して、自分ではマジでどういうことになるのか想像すらできない状態にしていたんだ。
犯罪心理で『未必の故意』って聞いたことがあるけど、多分こんな感じなんだ知らんけど。




