第200話 張り込みにはあんパンを
頭の中で、ばかみたいに電気の紐に向かってボクシングをしているうちにも、識さんが、茫然自失としている一華へと歩み寄る。
「……一華。大丈夫かにゃ?」
「ううう……ひよりぃ~……」
「すまなかったにゃ。怖い思いをさせてしまって」
「うう……ひっく……」
「でももう大丈夫だにゃ。悪いやつらはやっつけたから」
識さんは一華を抱くと、目を伏せて、まるで子供をあやすように、何度か頭を優しく撫でる。
「大丈夫だにゃー。大丈夫だにゃー」
「ううう……ぐすん……」
「大丈夫ー大丈夫ー」
「ひっく……ううっ……」
しかし一華は立ち直らない。それどころか、さらに顔色が悪くなっていっているようにも見える。
……一体なぜ。
原因を探ろうと、俺は一華を注視する。
むぎむぎと、識さんの豊満なお胸を押し当てられる一華。
よく見てみると、一華は両手を、自分の胸に当てている。
一華……一華は貧乳……一華はちっぱい……一華はまな板娘!
ああそうか! 識さんがカンフーする前に、あのあごひげ野郎が言った、『ん? あれ? こっちはおっぱい、入れてねえみてー』って言葉を、まだ気にしているのか!
……ということは、今しがた目の前で繰り広げられた暴力沙汰も、一切目に入っていないんじゃあないか? ……うん。この様子だと、きっとそうだ。
それについては、よかったのかもしれない。
罵倒、暴力、ナイフなんて、一華が目にしたら、茫然自失どころか、失神してしまう恐れだってあったから。
ほどなくして、やたらに目の黒い、ロートルな警備員たちがやってくる。
彼らは俺たちに声をかけて、無事であることを確認すると、床でのびる三人の男共の足首をつかみ、引きずるようにして、店の裏へと連れてゆく。
音もなく閉まる、『関係者以外 立入禁止』と書かれた両開きの扉。
……なんだか異様な雰囲気だ。
その後、彼らがどうなったのかは、誰も知らない。
というかぶっちゃけ、どうでもいい。
店から出ると、俺たちはくるみと純の姿がないかを確認しながらも、温泉街のほぼ中央に位置する、橋へと向かった。
道は片側一車線で、若干のカーブを描きつつも、橋へと向かいのびている。
黄土色のレンガでできた歩道は、そんな車道に寄り添うようにして、同じく橋へと向かいのびている。
道路沿いに立ち並ぶ建物は、主に飲食店や土産屋といった、店屋が大半だ。人家やマンションなどといった住居はもちろんのこと、ホテルや旅館といった宿泊施設もほとんど見受けられない。先ほども地図で確認したが、宿泊施設の類は、橋の向こう側、つまりは温泉街東側に集中しているみたいだ。おそらくは温泉の井戸が、そちら側にあるのだろう。わざわざパイプを引いて、川を渡して西側まで温泉を引いてくるというのは、素人目にも、さすがに労力と費用がかかりすぎるというのは、想像に容易い。
軽い坂を上り終えて、堤防沿いの横断歩道を渡ると、ようやく一華の監視ポイントである、大きな川に到着する。
「おお。川、結構でかいな」
俺は両手を腰に当てると、息を吸い込みながらも誰にではなく言う。
「壮観にゃんだにゃ。水もきれいだし」
識さんが、風に目を細めながらも、そっと手で横髪を押さえる。
「それで、どこにするんだにゃ?」
「どこって?」
「決まっているんだにゃ。一華が監視するところだにゃ」
「監視するところって、この橋だろ?」
「そういうことじゃにゃいんだにゃ。さっき言ったにゃ。うちらが純や妹さんを見つけるよりも先に、向こうがうちらの存在に気づいたら、それこそだいにゃしだにゃって」
「ああ、なるほど」
俺は手を打つ素振りをしてから、周囲へと視線を巡らせる。
「純たちに一華の姿を見られることなく、なおかつ橋全体を見渡せるような、そんな場所……」
「あ、あそこ……どう?」
俺の袖を引くと、一華がすっと指をさす。
俺はその指先を辿るようにして、道路の向こう側、交差点の斜向いへと視線を移動させる。
そこにはハイカラな、白の木造建築が目を引く、喫茶店があった。
店舗は二階建てで、一階部分がレジカウンターとキッチン、二階部分が全面喫茶スペースになっているみたいだ。好都合にも川に面した道路側は、背の高いスツールが設えられたカウンター席になっており、立地、建物の構造、眺め、どれをとっても、今回の俺たちの目的にあつらえむきであり、まさしく純とくるみを監視するためにある場所といっても、あながち間違いではないだろう。もちろんこんな言い方というか扱いは、店側にとってはとんでもないことだというのは、重々承知してはいるが。
「うん。いいと思う。あそこの二階のカウンター席なら」
俺は、陽の光を反射して白く輝く、二階のカウンター席付近を指さす。
「常に橋全体を監視できるし、なによりも相手側から見つかりにくい」
「じゃ、じゃあ私……いってくる」
「おう。頼んだぞ。一華」
「渡辺くんとくるみちゃん、見かけたら、すぐに連絡する……から」
「おう。待ってる」
こくりと頷くと、一華は手で麦わら帽子を押さえつつも、とてとてと店へと向かい駆けてゆく。
「じゃあ俺たちもいくか」
「だにゃ」
「ええと、確か俺が東側、ようはこの橋を渡った向こう側で、識さんが西側でいいよね」
「それで大丈夫だにゃ」
「じゃあ、二人がきそうな適当なお土産屋さんをピックアップして、そこを張り込む感じで」
「承知だにゃ」
あと……と言い、識さんはスマートフォンを取り出して現在の時刻を確認する。
「今は十二時半にゃんだにゃ。終電というか終バスを考慮すると、うちらがここにいられるにょは、あと大体五時間ぐらいにゃんだにゃ。どうするにゃ? 成果がでにゃかった時にょことを考えて、どこかで一度時間を区切るかにゃ?」
「……うん。それがいいと思う」
数瞬考えてから、俺は相槌を打つ。
「じゃあ間を取って、三時に一度仕切り直す感じでどう?」
「それでいいんだにゃ。三時ににゃった時点で、とにかく一度連絡をするんだにゃ」
識さんと別れると、俺は自分の監視ポイントを探すためにも、温泉街の東側へと向かい、川に架かる大きな橋へと歩き出す。
識さんにああは言ったが……言ってしまえば俺に、時間制限なんてものはない。たとえ時間までにくるみを見つけられなかったとしても、帰るつもりはないからだ。
明日が林間学校? 学校の行事? 一生に一回しかない大事なイベント?
どうだっていい……そんなものはどうだっていい!
なによりもくるみを連れ戻すこと、くるみの将来を守ること、それが重要だ。
当たり前だろ? 家族なんだから。
妹を全力で守る。それが兄である俺の役目であり、あまりにも当然すぎる……責務だ!
橋を渡り終えると、俺はそのまま道を真っ直ぐに、ホテルや旅館など、主に宿泊施設が立ち並ぶ温泉街へと足を運んだ。
道は、山へと向かっているので、若干の傾斜になっている。中央には浅い川が流れており、それらが支流として、先ほどの大きな川に注いでいる。
温泉街は、この川を両側から挟み込む格好で連なっており、大体山の中腹ぐらいまで続いているみたいだ。
俺は、青々とした柳の街路樹を横目にしつつも、川辺に設えられた石畳の遊歩道を、東へ東へと上ってゆく。
……よし。ここにしよう。
比較的大きな土産屋が固まる、交差点で足を止めると、俺は左右に視線を巡らせつつも、胸の内で一人で呟く。
ホテルや旅館にも近くて、たくさんの土産屋が軒を連ねている。おまけにそこかしこに食べ物の屋台やキッチンカーも見受けられる。ここならば買い出しにうってつけであり、なおかつ食べ物の匂いに誘われて、小腹を満たすためにも、ほいほいと出歩いてしまうという気が、なんだかしないようでもないような気がする。いや、きっとする。
だってだって、なにを隠そうこの俺が……すでに屋台の匂いに誘われて、意識的・無意識的いかんにかかわらず、ふらふらと向かってしまっているのだから──
うん●にたかるハ……光に集まる羽虫のごとく、おれは『石窯パン工房』とのぼりの出されたキッチンカーに近づくと、張り込みの定番食、『あんパン』を、現物商品を指さすことにより注文する。
ついでにカップに入ったアイスコーヒーを購入すると、その場を離れて、これまた張り込みの定番ビューポイント、路地の壁際に、その身を寄せる。
……とりあえずは、ここで見張ろう。
黒髪ロングの制服美少女が、温泉街で、あんパンとコーヒーを片手にして路地に潜むって、正直目立つような気がしないでもないが……まあいいだろう。どんな格好をしていようが、ようは俺が先に純とくるみを見つければいいだけの話だ。逆に言えば、どんなに目立たない格好をしていようが、純とくるみを見つけられなかったなら、それこそ全然全く意味がない。つまりはそういうことだ。……うん。このあんパンうまいな。超旨い。一つ二百九十五円とか、暴利を貪りすぎていて正直アレかとは思ったけど。
時間は、刻一刻と過ぎていった。
スマホで時刻を確認するのが面倒になり、途中からは向かいの店のショーウィンドウの奥にある、古めかしい大きなのっぽの古時計で確認していたのだが……妙に時間の流れが早い気がする。
人は、嫌なことに対しては、基本的には時間の流れが遅く感じられると言われている。それは嫌でないこと、ようはやりたいことや楽しいことについては、時間の流れが早く感じられるということだ。
ではなぜ今俺は時間の流れが早く感じられるのだろうか。過ぎてほしくない。時間がたってほしくないと、そのように願っているからだろうか。
少なくとも言えることは、今ここでこうして、くるみを見つけられるか見つけられないかやきもきしている状況は嫌で仕方がないが、くるみに会える、くるみに再会できる……それはなによりも望むことであり、なににかえても達成したい、現在の目標であることには間違いない。
明確な目標がある。あるいはそれは人にとって、かけがえのない支えなのかもしれない。
たとえその目標が達成されたのちに……目を覆うような破滅が待ち受けているにしても。
気がつけば、先ほどまで頭上にあった太陽が、明らかに西に傾いていた。
気のせいかもしれないが、大気に満ちる陽光からも、若干だが輝度が落ちて、夕刻特有の涼しさが、幾ばくか含まれたような気もする。
一体今は何時なんだろうか……。
俺は古時計に顔を向ける。
──十四時四十五分。
確か、今いるこの場所に立ったのが、十二時四十五分ぐらいだったから、張り込みを始めてから既に、二時間が経過したということか。
ごくりと息を呑むと、十五時までにはちょっと早いが、俺はラインで皆にメッセージを送る。
〉kyouya どんな感じ? こっちは今のところ成果なし 14:47
〉一華 こっちも。渡辺くんとくるみちゃん…見つからない 14:47
〉☆ひより★ 同じく。ずっと見張ってるけど、全然ダメって感じ? 14:47
と、すぐに、識さんのメッセージが取り消される。
〉☆ひより★がメッセージの送信を取り消しました
〉☆ひより★ 同じだにゃ。ずっと見張ってるけど、全然だめって感じにゃんだにゃ 14:48
あ、いま一瞬、素の識さんが出た。さてはラインだから気を抜いたな。
でもよかった。
光のないレイプ目……板についたメイドの立ち居振る舞い……常人とも思えぬ圧倒的戦闘力……。てっきり洗脳されて、頭蓋という入れ物から識さんの意識が完全に上書き保存されてしまったかと思ったけど、そうじゃなかったんだ。
時間が来れば、ようは本日の夜中の十二時を越えれば、識さんは自ずと夢から醒める──罰ゲームの呪縛から解き放たれる、というのが、今証明された。
〉☆ひより★ どうするにゃ? 一度どこかに集まって、仕切り直すかにゃ? 14:48
〉kyouya そうしよう。間違いかもしれない方法を続けても、埒が明かないし 14:48
〉☆ひより★ じゃあとりあえず、今から一華がいる店に集合でいいかにゃ? 14:49
〉kyouya そんな感じで。識さんも疲れたと思うし、少し休もう 14:49
〉一華 分かった。じゃあ私、待ってる 14:49
スマートフォンをポケットにしまうと、俺はあんパンとコーヒーのゴミをキッチンカーの脇に置かれたゴミ箱へと、きちんと分別して捨ててから、その足で直ちに一華の監視ポイントであるカフェへと向かった。




