第190話 猫耳メイド識さん、キャンセルのキャンセル
時刻は午前五時半。
目覚めた俺はベッドから出ると、しゃっとカーテンを開けて外の天気を確認する。
広がる青空、もくもくとした白い雲。まだ太陽が低い位置にあるためか、全体的にうっすらと、黄金色のフィルターのようなものがかかっているようにも見える。もちろん朝であり、夕方とは違うので、黄昏時特有の『哀愁』みたいなのは感じない。感じるのは『新生』──月並みというか、若干だが青臭い言い方をしたならば、『希望』のそれだ。
とにかく窓の外には、夏の朝、とりわけ日の出直後の、新しくも新鮮な世界が広がっている。
「京矢……起きた」
「一華、おはよう」
「うん。おはよう」
腕を伸ばして、床に落ちたスカートを取ると、一華は布団の中にもぐったままで、スカートを履く。そしてベッドから出て制服のシャツを整えると、スカートの中に入れて、リボンを付ける。
「……どう?」
「うん。なんていうか、シワがすごい」
「どうしよう……」
「上田さんに服を借りるとか?」
「しおんの服……多分私、似合わない。きらびやかっていうか……そんな感じだし」
確かに。というか欧風の刺繍の入った水色、もしくは緑色のワンピースなんて、大体の日本人は似合わねえわな。ああいうのは白人か、スタイルが超いいモデルさんが着るから映えるのであって、そこのところを度外視して身に着けてしまうと、高い確率である種の惨事が起こってしまう。
まあ一華はなにげにスタイルがいいから着れないことはないとは思うけど、なんというか系統が違うというか、ジャンルが違うというか……残念ながらも単に『似合わない』ということになると思う。
これは悪口じゃない。人には運命的な合う、合わないがあるから。
「じゃあ制服を借りるってのはどう?」
ハンガーにかけてある上田さんの制服を指さす。
「背も大体一緒だし、問題ないだろ」
「う、うん。聞いてみる」
部屋から出ると、タイミングよく、上田さんに鉢合わせる。
上田さんは当然のごとく全裸で、瑞々しくも心地のいい夏の朝の空気に、その神聖なる御身をさらけ出している。
「やあ上田さん。おはよう」
「うむ。よき朝であるな」
「ところで一華の服なんだけど……おい一華。どうした? 肩をぷるぷるさせて」
「だ、だだだ、だめえええええええっ!」
一華の指が俺の双眸を貫く。
ぎゃああああああああああああっ!
「ど、どどど、どうしてそんなに普通なの!? は、裸だよ!? 女の子の、裸だよ!」
なーに言っとんじゃああぁぁあ! 平気なわけねえだろ! こういう風に平気を装わないと、体力がいくらあっても足りないから、スルーしようとしただけだわ!
目がああああ! 目がああああ! と、俺が床でのたうち回っているうちにも、一華は全裸の上田さんの手を取り、今一度部屋の中に入ってゆく。
ほどなくして二人は、今日一日過ごすだろう、美しくも可憐な衣装に着替えて、出てきた。
上田さんは、セーラー服のような襟のついた白のワンピースを身にまとっている。髪は本当に寝起きかよってぐらいにさらさらで、階段に設えられた小さな窓から差し込む陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。おそらくこの光は、上田さんを照らすためだけに、わざわざ何光年も離れた恒星から放たれて、しおらしくもあの小さな窓から差し込んだのだろう。まるで女神を照らす後光だ。尊い。
一華はシワ一つない上田さんの制服に身を包んでおり、シャツの上に、紺色のカーディガンを羽織っている。カーディガンに関してはサイズが合っていないのか、袖が長くて、いわゆる萌え袖状態になっている。一華にしてはめずらしく、若干リボンが緩んでおり、だらしない感じになっているが、そのギャップが、男心をくすぐる、いい意味でのエッセンスになっているといえる。よく見ると髪の一部が、寝癖によりわずかだが跳ねている。だが全然全く問題ない。むしろナイスすぐる。美少女の寝癖、ようはアンシンメトリーは、場合によってはかわいらしさを引き立てる、最終決定打になるのだから。
女の子はいいよな。なんていうかファッションの幅が広くて。
それに比べて俺は……。
溜息を呑み込みつつも、俺は自分の格好に目を落とす。
チノパン、ティーシャツ、羽織ったシャツ……以上。
大体こんなもんっしょ? というかこれ以上ごてごてと着飾ると、痛くなるっつーか、キモくなるっつーか、男はスタンダードかつシンプルにいくしかないんすよ。武器が少ないっつーか、性欲でゴリ押しするしかないっつーか。とほほ……オス……悲しきかな。
「ちーっす。おはよー」
口に手を当てて、ふああと大きなあくびをしながらも、遅れて識さんが部屋から出てくる。
識さんはというと、二日前に、公園で会った時に着ていた、スポーツウェアを身にまとっている。速乾生地っぽい、白のVネックシャツに、黒のレギンスの上に履いた、ピンクのショートパンツ。シャツは、ピチピチというか、スタイルがもろに出るようなシルエットなので、その大きなお胸が、ズキュンと前方に強調されている。普段は学校の制服越しでしか見ることができないので、その形までは推測することはできないが……どうだろう。やはりものすごく均整の取れたお胸なのではないだろうか。もちろん実際に見てみないことには分からないが。
まじまじと見る俺の視線に気づいたのか、識さんが、にやにやしながらもからかってくる。
「え? なんなん? もしかして、私に魅了された?」
「ち、ちちち、ちげーし。別におっぱいなんか見てねーし。つか興味ないっていうか?」
「ほんとにー? つか私、おっぱいなんて、一言もいってないよね?」
「うっ……」
「本当は、こうしたいんじゃないん?」
ぐぐぐと近寄った識さんが、俺の頬を、指でつんつんしてくる。
つんつんっ! つんつんっ!
「ちょっ、識さん、やめ……」
膨れる一華。
なおも続ける識さん。
……あれ? つかなんかこの感じ、懐かしい?
帰ってきた! いつもの識さんが帰ってきた!『にゃん』とか『にゃ~』とか言わない、いつもの識さんが!
そんな俺の感動のご対面も、上田さんの次の一言により、粉々に壊されてしまう。
「なんだその格好わ! 猫耳メイド姿はどうした!?」
「はあ? メイド? なに言ってるん? もう罰ゲームは終わりだし」
「終わり? 識日和こそなにを言っている?」
「は? どういうこと?」
「罰ゲームの内容を覚えておらんのか?」
「覚えてるし。ええと確か……」
むすっとした顔で腕を組み、思い出すように視線を仰ぐ。
「今日一日猫耳メイド……っしょ?」
「違う。『丸一日』猫耳メイド。語尾はにゃんかにゃあ、だ」
すげえ。書いた本人である俺でさえも、もはやうろ覚えだったのに。
「じゃあやっぱり終わりっしょ? 寝て起きたら、次の日だし」
「丸一日と言っておるであろう。つまり日付を跨ぐことに関係なく、二十四時間という意味だ」
「えええええ!?」
「じゃあなにか? 例えば十一時五十九分に罰ゲームを始めた場合、一分後に日付を跨ぎ、次の日になったからといって、罰ゲームが終了ということになるのか? ならんであろう。つまりはそういうことだ」
「じゃ……じゃあ……つまり……」
識さんが、額に汗を浮かべて、焦ったように目を白黒させる。
「猫耳メイドは、今日の夜までってこと?」
「いかにも!」
「や──」
強く目を閉じた識さんが、板張りの廊下に向かって、叫ぶ。
「やんねーし! やるわけがないし! 私ら、今日これから、群馬の湯乃華温泉にいくんだよ? 一回東京駅に出るし、乗り換えもするし、観光地だし、そんな中を、猫耳メイドの姿で歩けるかっつーの!」
「識日和よ。これは罰ゲームなのだ。罰ゲームは、絶対なのだ」
「しんないし! 絶対なんて、絶対にないし!」
「識日和よ」
上田さんは識さんに歩み寄ると、肩に手をのせて、小さく、だが重々しく、首を縦に振る。
「分かってくれ」
「だ、だから……」
「例外を作っては、いけないのだ」
「ちょ……なんでそんなに……」
はっと、気づいたように一華を見る。そして迷うように自分へと視線を落としてから、ぎりりと歯を噛みしめる。
「識日和よ」
ぎりり。
「わ……」
ぎりり。
「わわわ……」
ぎりぎりぎりぎり。
「分かったにゃ~」
手をくいっ。
おお! 戻った! なんかよく分からんけど戻った! 口調は妙に明るいのに、なぜかレイプ目の、識さん、猫耳メイドヴァージョンに!
「うむ。それでよい。懸命な判断だ」
識さんは今しがた出てきた部屋に戻ると、メイド服に着替えて、すぐに出てくる。
丈の長い黒のワンピースに、ひらひらとしているが全くもって安っぽさのない白のエプロン。袖の部分は白で、ボタンによりきゅっと絞まっているところが、ある種の誠意を表しているようで、気品がある。むろん首元には、黒のアゲハのようなリボンが、かわいらしくも慎ましやかに、そっと羽を休めている。
なにもかもが完璧で、なにもかもが麗しい、そんな本場のメイド服姿……。
だが、それら完璧を、根底から崩しかねない危うい存在が、頭部、および臀部に、装着されている。そう、猫耳としっぽだ。そんな全てを台無しにしてしまうかもしれないアイテムがついているにもかかわらず、なぜ崩壊することなく、絶妙なバランスを保っているのかというと、言わずもがなそれは、識さんに備わった、圧倒的な包括力といえるだろう。包括力というのはそれすなわち『かわいさ』だ。かわいいは正義というように、かわいいというだけで、女装はもちろんのこと男装、動物、虫、極端に言えばゾンビさえも、一つのファッション、一つのキャラクターとして、成立させてしまうのだ。
「あんまりじろじろと、見にゃいでほしいんだにゃー」
「あ、ごめん。つい……」
頭をかきながらも、俺は視線をそらす。
「一華も、そんなに見にゃいでほしいにゃ」
「ご、ごごご、ごめん。……でも、かわいい……から」
「ありがとうだにゃ。嬉しいにゃ」
識さんは一華に抱きつくと、顔を寄せて目を閉じて、何度か優しく髪を撫でる。
一華はというと、「ううう……」と、恥ずかしそうな声を漏らしながらも、されるがままにしている。
いい……いいっ!
「そこ。いつまで百合フィールドを展開している。自重するのだ」
「いいんだにゃー。百合は、女の子の特権にゃんだにゃー」
こいつ、言い切りやがった。
「それに、一華以外には、したいと思わにゃいにゃー」
「うむ……それについては、同意しかないな」
一華さん……あんたモテすぎでしょ!
身支度を整えて、玄関から出ると、俺は外の空気を胸いっぱいに吸い込む。
新鮮な空気が気持ちいいのか、一華も、識さんも上田さんも、その場で軽く息を吸ったり吐いたりを繰り返している。
すぐそばに、木々が生い茂る大きな公園があるからだろうか。七月の後半、夏のど真ん中にもかかわらず、空気は冷涼でどこかひんやりとしている。頬を撫でるそよ風には、緑というか土というか水というか、そんなまるでキャンプ場にでもきたかのような瑞々しさが、ふんだんに含まれている。
「駅まで送ろうぞ」
上田さんが、公園の方を指さしながらも言う。
「駅は、この公園を突っ切った、正面側にある」
「いいの? 別にここでも構わないけど」
「ああ。それに、山崎鈴と駅で待ち合わせをしているのでな」
「山崎さんが?」
「電車の時刻を伝えたら、見送りにくると言っていた。その後はそのままうちにきて、漫画の作業に入る。一分一秒でも、時間が惜しいからな」
「そういうことね。俺の手伝いが必要になったら、その時は言ってくれ。いつでも駆けつけるから」
「ああ。期待している」




