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第142話 グンマー

 親との電話を、なんとなく皆に聞かれたくなかったので、俺はソファから立ち上がると、一度リビングから出た。

 そして廊下に散らばるアンティークに足をぶつけないように気をつけながらもキッチンの前辺りまでいくと、ズボンのポケットからスマホを取り出して、まずは母さんへと発信した。


 太陽が地平線の向こうに沈みつつあるのか、周囲は濃い橙色の光に染まっている。

 足元にあるアジア風の像が、そんな陽の光を浴びて、半身のみが、影の中に浮かび上がっている。

 俺はそんな、ちょっと不気味な光景を見るではなく見つめながらも、電話がつながるのを今か今かと待った。


『京矢? くるみ、見つかったの?』


 電話に出るや否や、母さんが俺に聞いてくる。

 やはり、相当に焦っているのだろう。

 会話の順序――というかルールを、すっ飛ばしてしまうぐらいに。


「いや、まだ」


『そう……』


 受話口の向こう側からため息が聞こえる。

 深い深い、腹の底からといったため息が。


「それよりも一つ聞きたいことがあるんだけど」


『なに? くるみに関係すること?』


「もしかしたら、くるみの居場所を、つきとめることができるかもしれないこと」


『なに? なんでも聞いて』


「昔さ、俺が小学三年ぐらいの時に、くるみの湯治のためにどこかの温泉にいったよね。覚えている?」


『ああ、なんかそんなこともあったわね。それが?』


「あれってどこだったか覚えている? もしかしたらくるみのやつ、あそこにいっているかもしれないんだ」


『え? あの子が? でもどうして?』


「どうしてって……」


 それはね、くるみが俺のことをセックスをしたいほどに愛しているからさ。そしてあの温泉地が、俺に対する愛情の、そもそもの発端の地だからかもしれないからさ……なんて口が裂けても言えねえ!

 ばれたら、今度は俺も、家出をしなくちゃあいけなくなっちまうからな。


 ということなので、嘘をつくことにした。


「いや、なんていうか、思い出したんだ。ちょっと前に、くるみがあの温泉のことを話していたのを。懐かしいなーとか、またいきたいなーとか」


『そうなの? あの子が? でもそれだけで……』


「一応、調べてみる価値はあるかなって。はたから見たら取るに足りないことでも、意外と本人にとっては、大事なことってあるだろ。だから」


『まあ、確かにそうかもしれないけれど』


「それで」


 話を本筋に戻す。

 俺が聞きたいのは、温泉地の名前、それだけだ。


「どこにあるなんて名前の温泉だったか覚えている?」


『なんだったかしら。……ごめん、全然覚えていないわ』


「覚えていない……。調べられる?」


『んー難しいかも』


「どうして?」


『だって、ネットで調べて、適当に選んだから』


 ぐぬぬ……。

 大人なら、普通は覚えているだろ。

 いや、まあそれは人それぞれか。

 俺も、一回だけいったことのある友達の家とかだと、もういける気がしないし。


「そうだ。領収書は? 残っていない? 旅館のやつとか、途中で買った、お土産のやつとか」


『あれってもう五年以上前よね。全部捨てちゃったわ』


「じゃあじゃあ、交通機関は。確かどこかの駅からバスでいったと思うけれど」


『東京駅からだったじゃあないかしら。東京駅から、三時間か四時間ぐらい。どこゆきだったかは、覚えていないわね』


 くそぅ! くそぅ! 俺の母ちゃん全然使えねえ!

 そして同時に、さっき一ノ瀬さんが俺に言った、『はあ……使えないわね』っていうのが、めちゃくちゃ分かる!

 一ノ瀬さん、ごめん! 俺使えなくて!


 ……もういいや。時間の無駄だ。


 俺は電話を切る寸前で、全く期待せずに、ほぼ反射で言葉を発した。


「何県だった?」


『群馬ね』


「ん? 群馬? それは確か?」


『ええ。間違いないわ』


「なんでそこだけ自信満々?」


『だって……』


 俺は耳を澄ませる。

 一体どんな理由があるのか、ものすごく気になったから。


『だって、「ああ私たち、これから未開の地にいくのね」って、当時そう思ったから』


 謝れ! 全群馬県民に謝れ!


 母さんとの通話を終えると、次に俺は父さんへと電話をかけて、念のために温泉のことを聞いた。

 しかしというかやはりというか、当時の湯治の件に関しては、母さんの独断専行であったので、完全にノータッチだった父さんはなにも知らなかった。


 そういえば昔から、買い物にいったり外食をしたりする時に、父さんだけいないってことが多々あったな。

 まあ父って存在は、基本うざいし、口を開けば小言ばかりだしで、どこの家庭でも煙たがられて、早く死んで遺産だけ残せよみたいな、そんな悲惨な最期を迎えるんだろうな。

 ああ、世に蔓延るお父さんたちよ……アーメン。


 リビングに戻りソファに腰を下ろすと、俺は今しがたした母との電話の内容をかいつまんで皆へと話した。

 すると細谷が、それは朗報とでも言いたげな口調で、歓喜の声を上げた。


「でかしたぞ夏木! 全国四十七都道府県から、たった一県に絞れたんだ! あとは群馬にある温泉名をピックアップして、『群馬県温泉リスト』みたいなのを作って、TMS作戦を続行してゆけば、たどり着ける! 言ってしまえば、初めの一文字だけでも、場所の特定ができるかもしれない!」


 いよいよ場所の特定に、現実味が帯びてきた。


 正直初めは、絶対にくるみを捜し出してやる! とは思っていたけれども、同時にどこかで、とはいえ無理かもしれない……と、心の片隅で感じていた。

 しかしそれを認めると、もう一歩も進めなくなって、地面に膝をついて崩れ落ちてしまいそうだったので、自分自身に膜を張り、わざと見ないようにしていた。

 それがどうだろう。今はそんな膜など必要がないし、さらに言えば無理かもしれないという圧倒的な不安さえも、まるで風前の灯火のように今にも消え入りそうに揺れている。

 これも全て、細谷……いや、協力してくれた皆のおかげだ。

 皆がいなかったら、俺はもっと早い段階で、ようは初めにくるみに電話がつながらなかったあの段階で、諦めてなにもしなかっただろう。

 俺は今、友達と、そしてその友達から生じるエネルギー、青臭い言い方をしたならば、『希望』により、支えられているんだ。


 十八時前になると、細谷と一ノ瀬さんと山崎さんの三人が、帰宅するために席を立った。


 細谷は先ほども聞いたが、このあと夕勤でバイトがあるからで、一ノ瀬さんは昨日家に帰っていないのに、今日も帰らないのはさすがにまずいからということ、そして山崎さんは、意外にも意外、本日はご飯当番だから、夕食を作りに帰らなければならないということだった。


 特筆するべきは、やはり最後の山崎さんの理由だろう。

 なんて家庭的な理由なのだろうか!

 山崎さんの服装や立ち居振る舞いを見るに、家には執事なんかがいて、休日の昼下がりには庭に面したテラスで、香り立つ英国王室御用達の高級紅茶を、これまた高級なマイセンのティーセットとかで、優雅に嗜んでいてもおかしくはないというのに。

 まさか家だと下の妹の世話をしながらもジャージ姿で編み物をしているとかじゃあないよな。

 あいつみたいに! あいつみたいに!


「それじゃあ、下の妹さんによろしく」


 靴をはき、立ち上がった山崎さんへと、俺は言った。


「え? ボク、夏木くんに、千代のことを言いましたですか?」


 あ、しまった。

 イメージが強烈すぎて、つい言葉に出てしまった。


「いや、なんかいそうだなあって、そんな気がしたから」


「さすがは夏木くん……嬉しいのです。やっぱりボクたちは、いちいち言葉にしなくても、伝わっているのですね」


「う、うん。そだね」


 話を変えるためにも、俺は一ノ瀬さん、細谷へと順に視線を送り、軽く会釈をしてから礼を言う。


「一ノ瀬さんも細谷も、本当にありがとう。この礼は、今度必ずするから」


「か、勘違いしないでくれる?」


 腕を組んだ一ノ瀬さんが、ぷいと顔をそらす。


 ――え? なにそのツンデレっぽい感じ。というかデレ!?


「私は一華さんと時間を共にしたくて、仕方なく手伝っただけよ。夏木くんのことは、別にどうだっていいわ」


 あ、違った。

 これ超本音だわ。

 一華の名前が出た時点で、ガチだわ。


 最後に細谷が言った。ちらちらとスマホに目を落として、時間を気にしながらも。


「じゃああとは任せたよ。どうなったか、報告待ってるから」


「ああ、連絡する」


「十時以降は電話つながるから、なんかあったら、連絡してくれ」


「ああ。それじゃあ、バイト頑張ってな」

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