第140話 歪んだ関係
「作業手順の共有、してきたよ」
キッチンに入ってきた細谷が、後ろ手にドアを閉めながらも言った。
「ああ、ありがとう。皆大丈夫そうだった?」
「まあ、大丈夫そうかな。作業自体は単純だし」
「あとは、間に合うかどうかだな。なんとか今日中に、くるみの居場所にたどり着けるといいんだけれど」
「それはやってみないことには分からない。しばらくやって慣れてこれば、多少は作業量も上がってくるとは思うけど」
俺の正面に座った細谷が、さっそくといったていで、コードが固くなった有線のマウスをテーブルの上に滑らせる。
ちなみにノートパソコンは延長コードで壁際にあるコンセントとつながっている。
バッテリーのコードが短かったので初めは床に直接腰を下ろして作業をしようかとも考えたが、作業が長時間にも及ぶのは火を見るよりも明らかだったので、早々に対策を打った。
上田さんに延長コードの有無を確認して、すぐに出てきたのは、幸運以外のなにものでもなかっただろう。
男二人が埃っぽい床に肩を並べて座って、ノートパソコンの小さな画面を何時間にも及びのぞき込み続けるのは、やはり少々辛いものがあるからな。……そっち? そう、そっちだ。腰が痛くなるとか、そんなのはどうだっていい。
「で、どうする?」
マウスを動かす手を止めた細谷が、画面に目を落としたままで聞く。
「とはいえこの作業、やっぱり補佐なんかいらないけど。ていうか無理に二人でやろうとすると、逆に効率が悪くなりそう」
「じゃあまあ、交替でやっていくか。一人がやって、疲れたら交替してみたいな感じで」
「了解。じゃあまずはこのまま僕がやっていくから、夏木はそのあとで」
細谷が作業に入ると、やはりというかなんというか、俺は暇人になった。
俺以外は、皆この家の中で一生懸命に作業をしているし、そもそもその作業自体、百パーセントまるっと全部俺のためだし、なにもしないわけにはいかないなと思ったので、なにかやれることはないのかと焦る気持ちで思考を巡らせたが、残念ながら結局、TMS作戦以外は今できることはなにもないという結論にたどり着いたので、諦めてなにもしないことにした。
確かに罪悪感のようなものはあった。
皆が働いているのに、俺一人がなにもせずにだらだらと過ごしているのだから。
しかし慣れというのは恐ろしいもので、そんな罪悪感も、スマホでポチポチとゲームをしているうちにも、まるで麻酔に全身の感覚が薄れてゆくように、やがては消えて、なにも感じなくなった。
もしかしたら俺は存外他の人よりも適応能力が高いのかもしれない。
普通の人なら慣れるまでに数日かかるようなことも、俺なら数時間で慣れてしまうみたいな……って、あれ? 今の状況ってニートの状況に似ていないか?
仕事もせずに引きこもっていて、初めは罪悪感から焦りを感じるのだけれど、何ヶ月、何年もその状況に身を置くことにより、むしろ仕事に出かける普通の生活というものに対して慣れが必要になってしまうという、あれに。
俺ってもしかして……潜在的ニート予備軍!?
いかんいかんと首を横に振り、両手でぱんぱんと頬を叩いて活を入れると、皆の作業の後方支援活動として、コーヒーを淹れることにした。
これだって一応は作業だ。
多少なりとも仕事を円滑にするのだから、役に立つって言えるよな。そうだよな? な?
コンロの前に立ち、やかんを火にかけると、俺は沸騰するのを待つことなく、人数分のカップを用意してから、瓶に入れられた、すでに挽かれたコーヒーを手に取る。
午前中に一度一華とやっている。
もう慣れたものだ。
コーヒーの粉をフィルターに入れて、湯を注ぎ抽出しているところで、細谷が俺に話しかけた。
「なあ、夏木」
「ああ、どうした? 交替するか?」
「いや、そうじゃなくて」
ちらりと俺を見てから、すぐに画面に顔を戻す。
細谷は、器用にも作業を進めながらも、俺との会話を続ける。
「本当によかったの? 僕を選んで」
「は? なに言ってんだ? 気持ちわりい」
「そういう意味じゃないって。だから、せっかく女の子とペアを組むチャンスだったのに、もったいなくないかってこと」
「ああ……そういうこと」
「なんだよ。面倒くさそうな顔をして」
「いや、なんていうか、あそこにいると、疲れるんだよね」
「疲れる?」
作業の手を止めて、俺を見る。
落ち着いた口調とは裏腹に、細谷の顔には驚愕の色が浮かんでいる。
「夏木、それ本気で言ってる? 自分がどれだけ贅沢なことを言ってるのか理解してる?」
贅沢?
はたから見ると、そう見えるのか?
俺はコーヒーの、最後の一滴がポットに滴るのを確認してから、二つのカップに丁寧に注いだ。
そして自分の分を口に含み、香りを確認してから、細谷の前へとそっと差し出した。
「贅沢って、かわいい女の子が周りにいることがか?」
ありがとうと言いコーヒーを飲むと、細谷が頷いて俺の質問に答える。
「なんていうか、人って複数人になると面倒くさくならないか? 一人ひとりっていうか、一対一で会うと、別にそんなことないのに」
「ああ、なんかそれ分かるかも」
「あと、あいつらってよく皆で集まる割には、ばらばらっていうか……仲が悪いっていうか……」
言いたいことがまとまらずに、要領を得ないままに俺が口をつぐむと、キッチン内にはどこか居心地の悪い沈黙が広がった。
そんな沈黙を打ち破るように細谷がコーヒーをすすり、かたんと音を立ててテーブルの上にカップを置くと、小さく考えるように「んー」と言葉を漏らしてから、手繰り寄せるように言った。
「多分、夏木は勘違いしてる。その集団、その関係性は、意外と悪くない」
「どういうこと?」
「皆ばらばらで仲が悪いっていうのは、見方によっては皆がそれぞれ自分を隠すことなく本音をぶつけ合ってるってことだろ? 昨日今日と夏木たちの様子を見るに、夏木たちの関係性はそういうことだと思う」
「本音をぶつけ合って、それで仲が悪いって、それっていいことなのか? お互いがお互いを思いやって、時に譲歩するのが、いい人間関係って言うんじゃあないのか?」
「世の中の大部分がそうだし、社会的には」
指摘するように、ぴんと人差し指を立てる。
そしてそのまま指を眼鏡のブリッジへと持っていくと、くいっと上げて位置を正す。
「つまりは大部分の人間関係は、いびつに歪んでいる」
うわあ……すげえ歪んだ見方だな。
さすがはパソコンオタク。
……まあ、この考え方も、結構歪んではいるけれども。
「それぞれ自分を偽ることなく本音を語る。故にぶつかり喧嘩が起こる。でも……一緒にいる。そればかりか、今はメンバーの問題に対して、なんだかんだで一つになっている。上手く言えないけど、多分それって……結構尊いことなんじゃないかな」
――尊い……。
細谷のその言葉が、すとんと心に落ちてくる。
上手く理解はできないし、つかみどころのない、まるで雲をつかむような感覚だけれど、どことなく、俺の素直な気持ちに馴染むような気がする。
……いつか、思い出すのだろうか。
あの夏の日に、皆で集まり協力し合ったと。
今は見えぬ、遠い遠い未来に。
「細谷」
得も言えぬ感情が湧き上がってきたので、とにかくなにか礼を言おうと、俺は細谷へと口を開く。
が、しかし、そんな俺の感謝の気持ちも、次の細谷の言った余計な一言により、割とマジでどうでもよくなってしまう。
「まあ僕だったら、誰か一人を選んで、さっさとヤッちゃうけどね」
「…………」
おいおい勘弁してくれよ。
身の丈を知らずにイキリ散らすところが、マジで童貞くせーんですけど。




