第112話 嫉妬
あまりにも突然だったので、一瞬誰のことを言っているのかすぐには理解できなかったが、一華が上田さんのことを『しおん』と呼んでいたのを『音』で思い出したので、しおん=上田さんと、会話に支障をきたすことなく、なんとか結びつけることができた。
「あ、はい。同じクラスですので」
「まあ、そうなの。じゃあ今日は、これから皆で、一緒にどこかに出かけるの?」
「ええ、まあ、そんな感じです。これからパンを持って、上田さんの家にいくところです」
昨日からずっと一緒。昨晩は泊めてもらった……なんて、なにもばか正直に言う必要はないだろうと思ったので、あえて嘘をつく。
というか、お泊りだなんて、たとえなにもなかったとしても、あまり心証がよろしくないだろうし。
「あの子、学校ではどう? うまくやれている?」
「ええ。特に問題はないと思いますけど」
「いじめとかは、ないわよね?」
「ええ。特には……」
ん? どういうことだろう。
多分この人は、自分の子供がいて、近所だから、小学校とか中学校でつながりがあって、それで上田さんのことを気にかけているのだとは思うけれども、どうしてなんか心配のベクトルがやたらにネガティブなんだ?
もしかして、過去になにかあったのか?
ネガティブななにかが。
俺の気持ちを察したのか、おばさんが口を開く。
「いえね、あの子、小学校中学校と、お友達が全くいなかったから。誰ともかかわろうとしないというか」
「はあ」
「ほら、親があんな感じでしょ? だからだとは思うけど、学校でも、授業なんかほったらかしで、ずっと絵を描いていたとか」
「そうなんですね」
「そんな中、あんな事件を起こしたでしょ?」
「あんな事件?」
「まあ、知らないの?」
驚いたように、わざとらしく口に手を当てる。
「全然知りませんが」
するとおばさんは、ここだけの話という風に、わずかに体を近づけて、小声で言う。
「あの子ね、中学の時、学校で器物破損の事件を起こしているのよ。なんでも放課後の教室で、大暴れをしたとかで。ロッカーも机もぐちゃぐちゃ。おまけにガラスまで割って、大変だったの」
あの上田さんが?
そんなことをする子には見えないけれど。
話の続きを促すように、俺はおばさんへと視線を送る。
「動機は不明。おおごとにしたくなかったのか、先生方は上にも警察にも届け出なかったみたいだけれど、子供をあずける身としては、本当に不安だったわ」
「…………」
色々と思うところはあるけれども、とにかく黙って話を聞く。
「あの事件が確か、中学二年の終わりぐらいだったかしら。それからあの子、不登校になってしまったらしくて、そのあとは、結局卒業まで、登校しなかったみたいね」
合計金額の計算を終えて、俺に電卓を向けると、おばさんはレジカウンターの下から白いビニール袋を取り出して、パンを入れ始める。
俺はポケットから財布を取り出すと、千円札を三枚、小銭受けの上にそっと並べる。
「でもすごいわね。一年間学校にいかなくても、なんだかんだでぱっと、まあまあいい高校には入れちゃうんだから。あれかしら。親が有名な画家さんだと、そういうところで融通がきくのかしら」
……ああ……そうか……つまりこの人は、嫉妬しているんだ。
才能があって、優秀で、見た目もかわいい上田さんのことを、おそらくは自分の子供と比べて、厭わしく思っているんだ。
――無意識にも、事件を起こしたという事実で、本心を隠して。
そうでなければ、今この場で、現在上田さんのクラスメイトである俺たちに、もう過ぎてしまった過去の事件のことを、わざわざ言い伝える必要がない。
「あなたたちも気をつけなさいね」
パンでいっぱいになった袋を俺に差し出しながらも、おばさんが言う。
まるであなたたちのためにわざわざ言ってあげているのよとでも、言いたげな口調で。
「なにがです?」
「変な子と付き合うと、友達を失ってしまうかもしれないから。友達は、大切よ」
変な子って、上田さんのことか?
ふざけるな。
俺はおばさんから袋を受け取ると、にっこりと笑顔を浮かべて、最後に言った。
「大丈夫です。多分もう、巻き込んでいるし、巻き込まれていますから」
店から出て、横断歩道を渡り向かい側の歩道にいくと、きらきらと陽の光を反射する池と、その向こうにある公園の木々を横目にしながらも、俺と一華はもときた道を上田さんの家へと戻り始める。
池の端、多分上から見たら長方形の短辺に当たる部分に差しかかったところで、一華がツツジの灌木に囲まれた、木を模したコンクリートのベンチを指さしながらも言う。
「ねえねえ京矢。朝ごはん、あそこで食べない?」
「あのベンチで?」
改めて視線を送る。
よく見てみると、ベンチの上に藤棚があり、茂った葉が日よけになっているので、比較的涼しそうだ。
「うん。いいね。多分今帰っても、皆寝ているだろうし」
「じゃあ、決まりで。ピクニックみたいで、楽しそう」
俺と一華はベンチに腰を下ろすと、俺はメロンパンを、そして一華はくまの形をしたミルクパンを、各々食べ始めた。
メロンパンは、正直に言ってかなり美味しかった。
表面はぱりぱりとしており、中はもっちりとしている。
月並みな表現かもしれないが、メロンパンでこの基本ができている所は、意外にも少なかったりする。
なによりも口に入れた時の嘘っぽくない上品な香りが、あのパン屋のレベルの高さをこれでもかというほどに物語っている。
あのおばさんはうざいし、心の底から軽蔑するが、このパンの味は本物だ。
悔しいが、本当に本当に悔しいが、他のパンも気になって仕方がない。
きっと、商品のできばえと作り手の性格は、必ずしも一致するものではないのだろう。
これはなにもパンに限った話ではない。他の料理だって、音楽だって、絵だって、小説だって、映画だって、なんだってそうだ。
極端な言い方をすれば、ちょっと頭のおかしい、クソみたいな性格の人の方が、驚くほどにいいものを作ってしまう可能性だってあり得る。
……というかまあ、よく考えてみれば、あのおばさんがロビンソンのパンを作っているのかどうかは分からないが。
一華はくまのパンを食べ終えると、次にうさぎのパンを取り出して、はむはむと食べ始めた。
俺は袋からいちごミルクのパックを取り出すと、ストローを挿して、一華へとそっと差し出した。
「ほら、いちごミルクだ。喉渇くだろ?」
「あ、ありがとう。いちごミルク、私好き」
一華は、持っていたパンを脚の上に置くと、パックを両手で持って、ちゅーちゅーと飲み始める。
よく見たら、一華の頬にうさぎパンのジャムがついてしまっていたので、俺はそれを指で拭ってあげて、ぺろりと舌で舐めて食べる。
穏やかな夏の午前だった。
時間はどこまでもゆっくりと流れて、俺たちにやすらぎと、若さが故の多幸感を与えてくれた。
……今がいいだろう。
俺と一華しかいない今のこのタイミングが、多分一番話しやすいだろうし。
俺は息を吸い、はいて、もう一度吸ってから、一華へと切り出した。
「なあ、一華。一つ聞いてもいいか?」




