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第111話 ミセス・ロビンソン

 玄関を出ると、爽やかな夏の朝の風が俺たちを包んだ。


 太陽の光はきらきらと大地を照らして、ロータリーの真ん中に立つ大きなくすの木が、そんな太陽の光を所々遮り、地面に幾何学模様みたいな、影絵を描き出している。


 ざーっという、川の流れるような音は、一体なんだろうか。

 おそらくは木が風に煽られて、葉が鳴る音なのだろう。

 ここからは見えないが、すぐ脇にある公園には、ちょっとした森を思わせるぐらいに、たくさんの木々が立ち並んでいる。


 俺たちは上田さんに言われた通りに、公園の外周に沿って、反時計回りに進んだ。

 するとほどなくして、これまた上田さんが言った通りに、道路と公園の境目に、細長い池のようなものが見えてきた。


「あ、もしかして……あれ?」


 俺の服の袖をくいくいしながらも、一華が前方を指さす。


 一華の指先をたどり、道路を挟んだ池の向かい側に視線を移すと、そこにパン屋らしき建物を認めた。


 店先にささやかな駐車場のある、木肌の多い建物。

 正面は全面ガラス張りであり、出入り口の脇には茶色の植木鉢に植えられたかわいらしい花が、まるでお客さんを出迎えるように置かれている。

 出入り口の上部に木製のアルファベットが貼られているのだが、おそらくはそれが店の名前なのだろう。


 アルファベットは、こうだ。


『MRS ROBINSON』


 なるほど。分からん。

 人の名前なのかな?


「多分あれが、上田さんが言っていたパン屋だよな。よかった、もう開いているみたいだ」


「うん。よかった」


「ここは俺が出すから、一華も遠慮せずに好きなのを選べよ」


「ほ、ほんとぉ?」


「ああ。その代わり今日も、ばしばし働いてもらうから」


 うええ~という顔をしたが、切り替わったのか、すぐに眉をぴんと立てるドヤみたいな顔をすると、前で両手を握るぞいの構えを取る。


「うん。私……頑張る。だからパン、いっぱいおごってもらう。私、パン大好き」


 店に入ると、俺は入ってすぐの所にあった白のトレイと金色のトングを手に取り、まずは窓際の棚から、物色を始めた。


 アンパン、クリームパン、カレーパン、デニッシュ、シナモンロール、コロネ、メロンパン、コッペパン、ドーナツ……どれもこれも美味しそうで、全く選べない。

 というか自分だけが食べるわけじゃあなくて、上田さん、細谷、あとついでに一ノ瀬さんも食べるわけだから、彼らの好みも勘案しなければ……。


「一人二個として、俺と一華と上田さんと細谷と一ノ瀬さんで、全部で十個か」


「一人二個? 少ない」


「え?」


「私、もっと食べる」


 言いながら一華が、トレイにぽんぽんとパンをのせてゆく。


 ――一個……二個……三個……四個……五個……。


「おいさすがにこれは買いすぎだろ」


「だって京矢、さっき遠慮するなってゆった。そう、ゆった」


「まあ、確かに言ったけど……」


 自ずと、ポケットの上から財布を押さえると、俺は最後に財布を出した時のことを思い出しつつも、大体の残金を計算する。


 確か、千円札が三枚と、小銭が八百円ぐらいだったような気がする……。


 次に俺は、手で財布を押さえたままの状態で、パンのカゴの前部に貼られた値札を見てみる。


 クリームパン【190円】

 シナモンロール【230円】

 フルーツデニッシュ【260円】


 まあ大丈夫か?

 平均二百円としても、十三個で二千六百円だし。


「よし分かった。でも五個までな。どうせそれ以上買っても残すだろうし」


「ほんとぉ? やった、やったやった」


 嬉しいのか、一華は俺の腕をつかむと、子供みたいに小さく跳ねる。が、すぐに気づいたように手を離すと、恥ずかしそうにうつむく。


「京矢……ありがとう」


「おう。でも先に、上田さんたちのぶんからな。選ぶの手伝ってくれ」


「う、うん。分かった。私に任せて」


 例のごとくぞいの構え。


 うん……かわいい。

 かわいい女の子がするから、かわいい。


「じゃあまずは上田さんだけど、なにがいいと思う?」


「上田さんはきっと、シナモンロールがいい」


「シナモンロール? なんで?」


「なんていうか、見た目がヨーロピアンな感じだから。だからきっと、シナモンとか好み」


「じゃあ、紅茶系とかもいいってこと?」


 聞きながらも俺は、『紅茶風味のオレンジパン』と値札に書かれたパンをトングで取る。


「そう。きっとこのパンも、気に入ってくれる」


「次は細谷だけど、あいつはなにが好みだと思う?」


「からあげパン。さっぱりじゃなくて、ぎとぎと系の」


「からあげパン? どうして?」


「パソコンが得意そうだから」


 なにそれ超偏見。

 ……というか俺もからあげ大好きなんすけど、それは……。


「あとは……惣菜系? 男の子だし、きっといい」


「じゃあこのウインナーのパンもいいってこと?」


 聞きながらも俺は、『ジューシーウインナーロール』と値札に書かれたパンをトングで取る。


「そう。絶対にこれ、細谷くんの好み」


 なんか一華って、ただただイメージで決めてね?

 月曜日は黄色、火曜日は赤色、水曜日は水色、木曜日は緑色……っていうあれと同じように。


 と、なると、一華のパンの好みは、くまの形をしたミルクパンとか、うさぎの形をしたジャムパンになるのですが、いいのですか?


 折よく、くまの顔を模した、『クマのくまさんパン』というパンが目に飛び込んできたので、一華に言ってみる。


「お、一華、くまさんパンがあるぞ。一華これ絶対に好きだろ」


「本当だ! かわいい! 私、これにする!」


「一華ってほんとくま好きだよな。確かパンツもくまだったし」


 冗談のつもりで言ったが、残念ながら一華は、そのように受け取ってはくれなかったみたいだ。


 一華は恥ずかしそうに顔を真っ赤にすると、グーにした手で、ぽかぽかと俺の腕の辺りを叩いてくる。


「もうっ! 言わないで! 京矢……いじわる!」


「わるいわるい。確かに今のはデリカシーがなかった。許してくれ」


「じゃ、じゃあ……」


 レジの脇に置かれた、ガラス張りの冷蔵庫を指さす。


「いちごミルク……買って」


「おう。分かった。いちごミルクな」


 いちごミルクって……やっぱりイメージ通りじゃねーか。超一華っぽい。


 俺は自分のぶんと、あと一ノ瀬さんのぶんのパンを適当に選ぶと、出入り口付近にある、奥に工房を臨める、木製のレジカウンターへと歩を進めた。


「すみません。これでお願いします。あ、あと……」


 冷蔵庫のドアを開けて、いちごミルクのパックを取り出す。


「これもお願いします」


「はい。ありがとうございます」


 店の名の入った茶色のエプロンをつけたおばさんが、一つひとつパンを確認しながらも、手元にある電卓で、ぱちぱちと合計金額の計算を始める。


 ぱちぱち……ぱちぱち……。


「袋、どうします?」


「あ、ください」


 ぱちぱち……ぱちぱち……。


 電卓で計算とか、やっぱり個人店なんだなあと思うではなく思っていると、不意に、おばさんが話しかけてきた。


「ねえ、あなたたち」


「え? あ、はい。なんでしょうか」


「もしかして、しおんちゃんのお友達かしら? さっきちらっと、名前が聞こえてきたものだから」

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