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始まりの日。

 ここは東京下町。

 鼻歌が響く車内には社会人になって3年目に入ったばかりの男、音羽律の姿があった。


 律の乗る軽ワンボックスは金色のウンコと形容されるビルの近くを、過積載に近い状態で過ぎ去っていく。

 鈍い加速で煽られることなんてしょっちゅうであり、この日も何度もクラクションを鳴らされていた。


 そういう状況になると嫌なことばかり思い出すようになり、少し前までは何度も車内にて


「どうしてこうなったのか?」


「どうしてこうならなければならないのか?」


 そんなことを口に出してはイライラしていたが、既に仕事に慣れてきた状況にある。


 社会人になってから律は職に就けないでいた。

 今日日一般的に就職率は大幅に改善などと主張されているが、実際はその大半がブルーカラーである。


 法学系の大学を卒業した人材を事務職員として求める企業の倍率は0.6というリーマンショックから殆ど遜色のない状況。


 よくわからない営業や、中間搾取が目的としか思えない「自称転職サイト」などの「自称コンサルタント系企業」を除外すると、ホワイトカラー系企業などは「営業」「小売」「派遣」といった3Kと一体なにが違うのかわからないような所しかなかった。


 そんな状況で「手に職も無い」人間が、一般的に認知される「日本人的サラリーマン姿」を目指すとどうなるかというと「無職」か「それに近しい何か」になる。


 律は無職とはならなかったものの、とある場所にて非常勤の職を2年務めたあと、宙ぶらりんとなってしまいkその後新たな職探しをした結果「配送業」という現在の立ち位置に落ち着いた。


「個人事業主」という名の奴隷。

「歩合制」という名の労働時間軽視。


 ブルーカラーよりよほど酷い状況だが、車好きならどうにかなると考えた律にとっては割と悪くない職である。


 というのも、実は昨今の配送業界においては2つのタイプの会社が存在しており、その2つのタイプのうち、律は間違いなく良い方を選んでいたからだ。


 1つは、「まるで人材が足りぬ」と叫びながら何も努力せずにオタオタしているブラック企業と、


 もう1つは営業部長が「人材余っちゃってて困るんだよねえ、仕事探すにも安い額を突きつけてくるアホばっかでさあ。でも、ようやく状況が変わってきた」と勢いがある割とホワイトな企業。


 上と下で何が違うか。


 それは「荷下ろし」「荷積み」が存在するかしないかという違いであった。

 実は上記2つの企業は給与自体は変わらない。

 違うのは「仕事があるかないか」


 下の方が仕事量が圧倒的に少なく、ヘタすると突然「今日仕事ないから」といって休日になることがある。


 元々この手の配送会社がどうして生まれたかというと、小泉政権次代に派遣の法改正に伴って拡大した非正規雇用に対し「荷物を乱雑に扱うのを防ぎつつ、とりあえず運転できる人間がいれば成立するよう」システムを改めた会社であり、


 それらは以降の民主党時代などで不況に喘いだが、2015年あたりを境にして前述する人材不足の状況から「ようやく俺達のターン」といわんばかりに仕事が入ってくるようになった。


 実際、このシステムこそ配送業では正しい。

 世界各国の先進国の配送システムの基本は現在コレだ。


 米国の密林は「ロボット」にて自動で荷物を積むシステムを導入し、日本でも熊本で展開しようとした。(地震の影響で失敗)


 ドライバーの事故率を大幅に低減させるなど、理にかなったシステムではあるが業務委託側は「荷積み要因」という存在を用意しなければならずコストが嵩む。


 しかしそこは運転はもう辛いが荷物運びぐらいは出来るといった引退した元トラックドライバーを再雇用する形とし、信じられないような光景だが「60代以上の爺さん手前の連中が荷物を車内に運び、それを若い連中が車で楽に運ぶ」というような姿を東京都内では、特に湾岸の倉庫街や産業廃棄物処理場などで目にすることが出来る。


 まさしく、これが現代社会の、超高齢化社会の構図だといわんばかりのものが展開されている。


 律の勤める会社は自社で倉庫を持つ企業故、こういった引退したドライバーが倉庫管理や倉庫整理、そして荷積み要員として動員される状況にあった。


 律の考えが変わってきた理由の1つとしては、そういった元ドライバーとの交流が影響していた。

 ある者はこう声をかけていた。


「誰かがその役目を果たさなければいけない。目を背けても現実は無視できん。だが、お前は若ぇからよ、まだ希望はあるだろうよ。おっちゃんはもう棺おけ片足突っ込んでっからよ……後5年、後5年我慢すりゃ一足抜けて楽になれる……そしたらそこから5年生きられりゃいい。お前はまだそこまで45年もあるんだろう? まだちょっとだけ……長いぜ」


 状況によっては荷積みの仕事を手伝う律に対し、こういったドライバー引退者はかわいがってくれていた。


 律は常々「どうしても車が買いたいのですが……」と相談していたが、そういった相談にも快く答えていた。


「一番いいヤツにしねえとな……所有欲が失せて何もかも空しくなるぜ……絶対に妥協するんじゃあねぇぞ」


 その言葉を励みにして、律は600万を貯め、その金でとある車種に手を出そうとしていた。

 現在の貯蓄額450万。


 これまでの倹約生活と実家暮らしにより、それなりに貯蓄できていたが後2年ほど我慢できれば全てが手に入る予定だった。


 今の彼のモチベーションは、周囲の大人に恵まれたことと、夢にまで後退せずに前進できているという実感だけで維持されており、それらがなければこんな仕事続けるのは無理だなと常日頃貯金通帳を見ながらひしひしと感じていた。


 そんないつもの毎日が全て変わってしまったのがこの日だった。


 律はいつものように配送を済ます。

 午前中のうちに1件、午後に2件終わればその日の業務は終了。

 業務終了時刻は16時頃であり、本社には17時過ぎには戻れる。


 彼の運ぶ物は文具であり、一定の場所に全て卸せば終わりという割と簡単な業務だった。

 その分給与は低いが、慣れるまでは簡単な仕事から、慣れたら給与のいい仕事にシフトするか今のまま楽にリスクを負わずに稼ぐかの二択。


 律はどちらにするか決めかねていたが、しばらくは楽な仕事にしておこうと考えていた。

 何も考えずに道を走って運び込むだけで終わる、それだけで今は十分だった。


 空荷となった状態の軽ワンボックスはそれなりに悪くない加速を示す。

 しかし、リアがフワフワして気持ち悪い。


 この軽ワンボックスは旧型エヴリィ。


 律が自ら「この車にする」と指名した車両。


 理由は、新型エヴリィワゴンはMTという名のセミオートマであり、会社はそちらを推奨していたのだが、将来購入する車はMTに乗るということを心に決めていた率はあえて5MTの旧型に拘った。


「フル積載だと坂道でクラッチ滑ったら死ぬぜ?」というアドバイスを荷積み担当の親父さんから危惧されたものの、将来MTに乗りたいと考える律は「危ないと思ったらすぐ止めますんで!」と言い、その意気込みを買われて現在に至る。


 実際には最初こそ戸惑ったものの、すぐさま慣れ、

 現在では何度か人を運んだ際、仲の良い荷積みの親父さんから「そのまま大型二種取って旅客に行ったほうがいいんじゃねぇか?」とそっち方面での将来を期待されるほどだった。


 それほどまでに律の運転は丁寧かつ安全だったのだ。


 空荷のエヴリィは途中、秋葉原を通りつつ、浜松町から湾岸へ向かう。

 湾岸に本社と倉庫があり、大型トラックより届けられた荷物が多数仕舞いこまれ、そこから律などによって都心部に配送されるわけだ。


 その浜松町付近に来たときだった。


 律は確かに「目の前の信号が青」であることを確認して発進した。

 律が一番前だったのできちんと左右確認もした上で発進したはずだった。


 走り出すまでは特に周囲に車の姿などなかった。


 交差点の真ん中に差し掛かった時だった。


 プアァァァァというクラクションが真後ろより鳴らされる。

 何事かと思い、バックミラーを見ると、後ろの車がクラクションとパッシングをしている。

 ドライバーが何か叫んでいる。


(左! ひ、だ、り! 危ない!)


 後方のドライバーが何を言っているのかわからない律だったが、何かキラッとした光の旋律を左側から感じたので左側を確認すると、そこにはオーバースピードで突撃してくる8tトラックの姿があった。


 後方のドライバーは猛スピードでブレーキする傾向もなく交差点に突っ込んでくるトラックを確認し、律に回避するよう知らせたのだ。


 急いで回避しようとする律。

 しかしこういう時にMTであるのが裏目に出た。

 あせった律はクラッチペダルから足を強引に離してしまい、パワーが無いエヴリィはエンスト。


 急いでエンジンをかけなおそうとするが、パニックによってクラッチペダルを放したままの状況でエンジンがかからない。

 昨今のMT車両に搭載されるフェイルセーフ機能が悪さをした。


 手や足から血の気が引いていく。

 その時だった。


 律は生まれて初めて、時間が遅く感じたのだ。

 周囲の音が聞こえなくなり、目の前に広がる光景だけがゆっくりとしてく。


 体が何時もの数十倍は重く感じた。


(これじゃまるで金縛りだッ……!)


 感覚的には何度か経験したことがある金縛り状態。

 起きているのに体が動かない。


 金縛りの場合はかなり無理して体を動かすと起きることが出来るが、現在の状態はそうではなく、


 ゆっくりとゆっくりとでしか体が動かない。

 思考もゆったりとしておりどうしようもない。


 全てを諦めかけた律は、とりあえずハンドルをとにかく強く握り、ショック体制をとる。


 後は天に任せ、その時を待った。


 次の瞬間、律の後ろにいたドライバーが目撃したのは……

 けたたましい轟音と共に白い軽ワンボックスが宙を舞う姿。


 すでに左側半分は潰れ、鉄くずと化していくエヴリィの姿。

 白いエヴリィはガギョガギョと、金属が潰れる音をたてながら二転三転して道路を転がる。


 その形状はもはや「車」などではなかった。

 車だったのかと思えるようなスクラップであった。


 突入してきた8tトラックが一体どのような速度で飛び込んでいったのかは不明だが、その破壊力の凄さがわかる。


 後方にいて注意を促したドライバーはトラックが過ぎ去ったのを確認すると、すぐさま大急ぎで白いスクラップの元へと車から降りてすぐさま向かった。


「大丈夫か! おい! 生きてるか! クッ、なんだこれ……」


 当たり一面砕け散ったガラス、立ち込めるガソリンと油の匂い。


「ま、まずい、みんな手伝ってくれ! 中に人がッ!」


 周囲からは女性や子供の叫び声も響く都心のど真ん中、

 スーツ姿の大人や学生と見られる者達は真っ先に助けに入ったドライバーの掛け声により集まり、救助作業に当たる。


 一方の律は……意識が朦朧とした状態にあった。


 まず、左腕に感覚がない。

 どうなっているかわからない。

 右足に強烈な圧迫感。

 左足と背中は激痛。


 しかし「痛い」という声すら出ない。


 エアバッグと座席に挟まれ、かろうじて自分が「まだ生きている」とだけ確認できる状態。

 殆ど開かない目で見ると、目の前にアスファルト。


 車は完全に天と地を逆さにした状態となっていた。


 いや、それも正しくなかった。

 変形しすぎたボディの影響により、どっちが天井でどっちが床なのかもはっきりしない状態。


「誰かナンバー確認してませんか! 撮ってませんか!」


「警察! はやく警察!救急車! 救急車お願いします!」


 あたりから複数の男性の声が聞こえた。


「誰か医者は!? 医者いませんか!」


「車に積んであるAEDもってきました!」


「タクシーの運転手さん、AEDはいいから早く出すのを手伝って! 漏れてるんだ! 燃えちまう!」


 律はこの状況の中で意外にも冷静でいた。


(目の前にしたたってきているのは……ガソリンか……引火すれば全て終わり。……14Lほど……残ってた……かな)


 体は信じられないほど冷たくなり、やけに心臓の鼓動だけが強く感じる。

 心臓の鼓動は周囲の車のハザードと同じ感覚で動いていた。


(そういえば教習所で……あえてハザードと心臓の平均鼓動速度は同じにしていると聞いたっけ……いざという時、心臓マッサージのタイミングに使うからって……)


 こんな時にそんなくだらないことを思い出し、そしてそれきり意識は途切れた。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 全てが白い世界だった。

 生きているかも死んでいるかもわからない世界。


 ボヤけた感じに声が聞こえる。


「――左腕の状態と失血が酷い。失血性ショック症状出たら止まるぞ――」


「――呼吸微弱。いえ、停止しました―」


「――PCPS! こりゃAEDが無かったら駄目だったかもしれん――」



 ふと光を感じる。


「――呼吸器接続。瞳孔状態良し。もってくれよ~。親御さんより先に逝くなよ!――」


 周囲からは聞いたことが無い声で溢れていた。

 女性、男性、入り混じっている。

 時折体に何か痛みが走るが、それが何を理由にしてなのかわからない。


 ただわかることが1つだけあった。

 まだ死んでいない……


 そしてもう1つ。

 まるで体が何か冷たい壁のようなものに当てられているかのような感覚。


 その先を行くと、全てが無に帰ってしまうような気がした。


(爺ちゃんが言ってた……死の壁ってやつ……か……)


 混乱した意識と判断力の中でただ1つ理解できたのは、目の前にかつて祖父が話してくれた死の壁というものを感じたこと。


 死の壁。

 自殺したい人間、明日を生きられない人間の一部が死の間際または死ぬギリギリの状態にて感じることが出来るという壁。


 この壁を突破すると死ぬ、跳ね返すと生きられる。

 あまりにも冷たい感触が目の前に壁のように現れ、そして人によっては囁きのようなものが聞こえることがあるらしい。


 祖父は病気や事故で何度もこの死の壁を体感し、律にそんな存在があると語ったことがあった。

 跳ね返すことが出来たら生きられる。


 その言葉だけ強く記憶に焼きついている。


 しかし跳ね返す力などなく、律にはこの壁を押し返そうと抵抗しようとするだけで精一杯だった。

 体の感覚はもう無く、


 そして再び意識は遠のいていった――

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