金の翼 ~岐阜美濃加茂~
配送業務より戻った律は最初にCRF250Rallyが置かれていた駐車場に停車させると、FRPボックスの箱よりガボッと荷物をすべて取出し、駐車場から店へと繋がる勝手口ともいえる裏口から中へと向かう。
正面入り口を使わなかったのは客と間違われるのを避け、さらに妙な光景をみせて他の客のイメージ低下を避けたためである。
さすがに多少ながらなれど社会経験がある律はその程度の配慮であれば十分にできる男だった。
裏口から入った律は人の気配がある作業場へと向かう。
そこにはフロントフォークもスイングアームも外され、カウル類もすべてなくなり、組み立てラインを流れているような状態となったCB400SBと、クラッチカバーのボルトを外している最中の光の姿があった。
「あーえっと……ただいま。これはどこにおけばいい?」
作業場に入ってきても作業に集中して気づかない様子を光が見せるため、律は声をかける。
「ん? ああ、その辺に置いといてくれればいいや。ちょっち休憩しといて」
作業中の光は律に振り向くことなく作業を継続しながら応答した。
律はその言葉を聞き、袋など一式を光の目の届きそうな近くの作業机の上にドサッと置くと、喉の渇きを感じたため、光の自宅へと戻り、麦茶でのどを潤した。
仕事が終わった後の1杯はまさに格別で、いつも以上に麦の甘みを感じる。
そのままダイニングテーブルの椅子に腰掛け、休憩に入った。
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数分後、ダイニングに光が現れる。
「一段落した。飯食いに行こうぜ」
光は外を親指で指し示す。
「どこに行くの?」
「ん~。できればそこは《何で行くの》って聞いてほしかったな」
「……?」
光の言葉の意図がまるで理解できない律は椅子の背にもたれかかり、しばし考え込んだ。
彼の性格から言葉の意味を理解しようとする。
「……何か面白い乗り物でもあるかな?」
「大型バイクに乗ってもらう。それも特上のフラッグシップ車両にな!」
「えぇ……俺大型免許持ってないんだけど。そんなの乗れないから……」
ブンブンと律は手を振り、NOのサインを出す。
光が普通二輪免許以外獲得していないことは知らないはずがないと知る律は違法行為をさせようとしているのではないかと顔に汗が浮かんだ。
「それが乗れるんだよな~。いいからこっち来いよ」
(俺が乗れる……サイドカーか何かか……?)
光は部屋の外に出るよう律を促し、律はヘルメット一式を持って光の後に続いた。
向かった先は先ほどCRFを駐車させた駐車場であった。
光が手で示した先には、非常に巨大な何かがシートで覆われている。
それは完全にオープンカーのようなシルエットを持つが、オープンカーにしてはやや細長い。
「そのシートをめくってみ。丁寧にゆっくりとな」
律はその言葉に従い、ファサッとシートをゆっくりとズラし、その姿を露にした。
「なんだこれッ!?」
目の前に現れたのは、巨大なバイクのような何かであった。
信じられないことに、フロントカウルの正面には「HONDA」という文字が入り、サイドカウルにはホンダの大型車だけが装着を許された赤い翼のマークが施されている。
それだけを見たらバイクと言えなくもなかった。
しかし、それはバイクではなかった。
前二輪、後一輪。
三輪である。
「こいつはリバーストライクだ。 まあ元はバイクなんだけどな……ゴールドウィング。ホンダの真のフラッグシップさ」
「ゴールドウィング……たしか普通に二輪の大型バイクだったような」
己の知識から名前だけ知っていた律は、ゴールドウィングがホンダの大型バイクであることから三輪となっている事に違和感を感じた。
「三輪にしたんだよ。スタルジスっていうオランダのメーカーが出しているパーツを付けてな。別名Sturgis Trike R18っていうんだ。元々は超大型バイクといったところだ」
光は両手を腰に当て、胸を張ってそのバイクの凄さを説明しようとする。
「こいつはな、俺が仕上げた1台なんだが……オーナーがいい歳でな。最近じゃ半ば俺の愛車みたいになってる。オーナーたっての願いで腐っちまわないようこうやってたまに乗ってやってるが、まぁよる年波にゃ勝てんわな」
説明しながらゴミが付着していたことに気づいた光は指でゴミを取り除いた。
「そのオーナーの人はおいくつなの?」
「もう80を過ぎてる。70の時にゃこいつの初期型に乗ってて、その頃からのお客様なんだが、さすがに体力が低下して重すぎてどうしようもないってんで俺に相談にきたんだ。GLシリーズはどうしても諦めきれないっていうから、あれこれ探して辿り着いた答えがこれさ……それでも80超えたらなかなか乗れなくなるからな」
正面を向いているようで光はどこか遠い方向を向いていた。
その先には何か見えているものがある様子であった。
(自分にも言い聞かせてるのかな……)
律は表情から光の環状を読み取る。
その目線の先にはゴールドウィングがあったが、光は明らかにそのゴールドウィングに強い思い入れや拘りなどをもっている様子であった。
人間、誰しも寿命というものがある。
60を過ぎると200kgを超えるバイクというものは辛くなる。
ホンダゴールドウィング。
歳を重ねた老練のホンダドリームの店員達が「ホンダで最後に乗りたいバイク」と口癖のように述べる代物。
だが、最後のバイク、いわゆる「あがりバイク」としての適性は0に近い。
最新型でも400kg近くある車体重量は1つ前のこのモデルでは400kgを超えてしまっている。
よく80過ぎたおじい様方がハーレーに乗っているが、彼らがよく乗るハーレーより100kg以上重いのだ。
とてもワイドなボディはそこまで大きく倒れ込まないが、坂道などで横に倒れてしまえば復帰は不可能な重さ。
ハーレーの場合は補助輪などおじい様に優しいオプションが存在するが、ゴールドウィングにそんなものはない。
普段乗りにおいても低速時の重さは普通の人間ですら恐怖を感じるほどであり、ちょっとした坂のような角度のついた段差を押し引きで乗り越えることすら不可能に近い重量をもつ。
そんなバイクをいつまでも乗れるようにしてほしいと頼まれた光が出した答えは、バイクとしての特性を捨て、倒れないようにしてしまうという方法であった。
ゴールドウィングの乗り味をなるべく活かす形でその重量に困らないよう、あの手この手で調べた結果見つけ、その車両に施した答えがこれである。
その車両は高齢のライダーにGLシリーズを楽しませるということが出来るようになった上、律ですら乗れる状態となっていたのだった。
「これ、俺乗れるの?」
エンジンから伸びるエキパイの本数を見た律は興奮し、今すぐ乗りたいと本能が体を急かすが、自制心がそれを抑制した。
右手で左腕を握り込み、必死で体を押さえ込もうとする。
「二輪免許なんていらないから乗れる。一切傾斜しない三輪車両は普通自動車免許で乗れる三輪の扱いだ」
「マジか……」
「乗るにあたってはメットすら不要だ。ということで、お前が乗れ。俺は後ろに乗る」
光の言葉を聞いた律は、とりあえずスマホでゴールドウィングなる存在を調べてみる。
エキパイが片側3本もあることから、まともなエンジンではないことがすぐわかり、とにかくエンジンの正体を知りたくなったのだ。
そこにはSOHC水平対抗6気筒なる文字が並ぶ。
水平対抗6気筒。
振動を極限にまで抑制しつつコンパクト化しようとすると、この構造に辿り着く。
現在において1つの終着点となるエンジン。
横並びに並んだ片側3つのピストンは、それぞれの稼動がそれぞれ逆側に付属したピストンによって振動が相殺され、極めて振動が少ないモーターのようなエンジン特性となる。
そのような非常に優秀なエンジンでありながら競技用や農業用航空機を中心として採用されており、車においてはポルシェを除けばスバルのレガシィなどのフラッグシップグレードにしか搭載されない。
エンジン構造としては90度Vツインと同じくバランスシャフトを不要とするぐらい振動が少ない代物だが、このような化け物を心臓部にこさえた二輪車両は排気量からして他を圧倒する。
その排気量1832cc。
そこらの乗用車すら真っ青な代物。
カタログスペックを見た律は他を圧倒する数値が並び、「ほへー」とスペック表だけに見入るほどであった。
実はこのゴールドウィング、これよりさらに1つ前のモデルに逸話がある。
当時まだ750cc制限がある中、なぜか1つ前のGL1500ゴールドウィングはそのまま販売が許された。(自主規制だったため売ろうと思えば売れたが、国へ説得が必要だった)
しかしバイクという存在を凌駕したことで運輸省が販売を許諾してしまったのだ。
その後、その流れに追随し、ヤマハがV-MAXを発売したことでナナハン自主規制は終了。
すでにこの数年間で刀の騒動などがあり(昭和の刀狩り)、各社逆輸入行為を大々的に行っていて有名無実化していた規制ではあったが、それらを一刀両断したのはカタログスペック大好きスズキではなく、ナナハンという存在を世に送り込んで自主規制を作ってしまったホンダ自体なのだった。
当時の雑誌記事では「日本のバイクを完全に逸脱した何か」として宣伝されている。
(こんなところで水平対抗6気筒に乗る機会を得るなんて……それもポルシェでもスバルでもなくホンダ……人生ってよくわからないな)
四輪マニアでもヨダレどころか別の液体が脳より分泌されそうなエンジンの車両に乗れることは律にとっても幸福だった。
それも、元々はバイクであり、実質的には大型三輪バイクとも言い切れるそれは律にとって史上初の大型バイク試乗ともいえる。
なぜ光がそのようなことをさせようと考えたのか律には理解できなかったが、その機会を無駄にしたくなかった。
「何してんだ。早く行こうぜ? 乗れよ」
すでにタンデムシートに座っていた光は律に早く乗るよう促した。
「えっ、ああ……うん」
ヘルメットを被った律はすぐさまゴールドウィングへと向かう。
シート高は795mmのため、普通に跨ることができた。
跨った瞬間律の眼に入ったのは、「バイク」というものを逸脱したコックピットの造形。
どう見ても車にしか見えないタコメーターは、レブリミットが6000回転。
スピードメーターは240kmまで数字表記されており、その右側に水温計などがある。
明らかにそれは「車」であり、写真撮影して「スバルのレガシィ(?)です」などとコメントをつけてSNSに投稿すれば少なからず騙されそうな人がいるほどだ。
その左右にはスピーカーがあり、ハンドルとハンドル付近にも大量のスイッチが並ぶ。
そのバイクとしてはとてもワイドな運転席は車のソレにしか見えない。
「これ……どうやって操作すりゃいいの?」
あまりのスイッチの多さに眩暈がした律は光に助けを請う。
「基本はバイクだ。機能の大半は走行しながら説明してやるよ。右側にセルスイッチがあるだろ。ほれっ」
光は律にキーを渡す。
ハンドルの奥にはキーシリンダーがあり、律はそこに差し込んだ。
セルスイッチを稼動させると。
キュオオオオォォォ ドゥルルルンとボクサーサウンドが響き渡る。
ホンダのギアトレーンにボクサーサウンドが混ざり合ったアイドリング音は今まで聞いたことがないような重低音であった。
「ギアチェンジ類も基本は同じだ。乗り方は少しだけ違うがな」
光の言葉を受けて律はクラッチを握り込む。
教習用CB400SF-Kと同じぐらいの重さであり、やや重い。
それでも握り込めないわけではない。
Nの表示を見た律は一速に入れようとするも――
「――おっと待った。こいつでは教習所で教わった通り、5本指でクラッチを握りこめ。基本的にそう乗らなけりゃいけない代物だ」
光の言葉を聞いた律は急いで指をかけ直した。
グッとクラッチを握り込んだ状態でシフトチェンジペダルを踏み込む。
ズダンという音と共にゴールドウィングは一速に入った。
光がそのような指示を出したのには理由がある。
非常に重たいゴールドウィングにおいてはクラッチが近く、半クラッチの領域が大きくとられている。
理由は重い車体にある。
重すぎる車体で低速でバランスを取ろうとすると力んで手に必要以上の力がかかってしまう。
その際、指を挟んでクラッチを入れると指を怪我する可能性がある。
だからゴールドウィングは最初からあえて5本の指でもって握り込むようクラッチが調整されているのだ。
律は少しだけクラッチレバーから離すと、ゴールドウィングはすぐさま半クラッチ状態となり、やや前進した。
「な? その位置だと指かけてっと動いちまうだろ。ゴールドウィングにおいてギアチェンジの時以外に指かけんのはクラッチによろしくない。発進では5本指だ。わかったな? それじゃ出発。左折なー」
「りょーかい」
ウィンカースイッチを左に入れ、左折の合図を出す。
周囲に車の姿はなく、律はゆっくりと手を離していった。
すると500kg近い車体はアイドリングだけでクリープ現象より早い速度で走り出す。
「ハンドルは向けたい方向に対し、両手に力を入れて曲げろ。右に曲がりたければ左側を前に押しだして右側は手前に引く、そんな感じだ」
「そっか……パワステとかないもんね」
光の話から車両の特性を理解した律は丁寧に左折した。
ゴールドウィングは一切傾斜することなく、車のように曲がっていく。
1速でも20km近くの速度が出てしまうほどのトルクであった。
半クラッチを使い、速度を制御しながら曲がる。
そのまま大通りに入った律はゆっくりとスロットルを開いて加速させる。
少しだけ開いたにも関わらずウォーンという音と共に凄まじい加速を見せるゴールドウィング。
すぐさまクラッチをいれ、二速へ。
ガシャコン。
「……」
そのままさらに加速し、三速へ。
ガシャコン ドゥオオオオオオ
三速のまま加速すると表定速度へと到達してしまう。
「ギアは5段だが、下道は3速までな。それで十分だ。二速と三速だけでいい」
光の指示が耳に届く一方、律は後一歩で舌打ちしそうであった。
(今、レブリミットの半分以上まわしてたよな……?……よーやくわかった。これがホンダ流チェンジペダルってわけか。この官能的ともいえるサウンドの全てを台無しにするこれがホンダの作りなのか。CRFとCB、そしてこのゴールドウィング……みんな同じような音がするッ)
律はゴールドウィングがガチャガチャやかましいシフトチェンジペダルだったことで、ホンダの仕様というものをようやく理解した。
スコンスコンとギアが入って欲しい律にとって、この金属のカチャカチャ音は非常に不快。
真のフラッグシップと呼称される車両ですらこのような音なのだから、これがホンダのクラッチやチェンジペダルというものなのだと。
気になる部分こそあったものの、三輪となったゴールドウィングの乗り心地は素晴らしいの一言であった。
ポジションは完全な殿様のり、ピンと背中が伸び、とても優雅で楽な姿勢。
ハンドルバーはやや幅広で両手を広げたような状態だが、力が程ほどに抜ける状態となる。
純正ではないがフロントは地面の凹凸を十分に吸収し、安定した挙動を見せ付ける。
「ちょっと失礼」
走行中の律の後ろから光の左手が伸びる。
何やら左側の大量のスイッチ類を操作していると正面のスピーカーからラジオが聞こえてきた。
正面だけではない、真後ろからも聞こえる。
「なんか後ろからも音がッ」
「はっはっはっ。そりゃあ6点スピーカーだからな。さっき乗る前に俺の座席の両隣にスピーカーがあるのに気づかなかったか?」
律がサイドミラーで確認すると、光が手でスピーカーを示している。
よく見ると光はヘルメットを身につけていなかったが、問題ないので一瞬不安が襲った律はすぐさま冷静を取り戻す。
それなりの音質でラジオの音が律へと向かってきていた。
ウィンドプロテクションはCRF250のそれなりの風が襲う状態をさらに上回り、もはや殆ど届かないような状況となっている。
それでいて、そよ風のような何かが律の首下などに届いていた。
もはやそれはバイクではなかった。
装備類、メーター類、走行時の感触。
屋根がついていないだけの車である。
低回転から凄まじいトルクで走るゴールドウィングは低速でもとても楽しい。
(これが大型か……いや、これは大型バイクの中でも特殊すぎるのか? この振動の無さ、安定感、楽な姿勢……こういうのも……)
「悪くない……」
「はははははは。300万以上ですよお客さん。税金は二輪枠だが生半可な維持費ではありませんよ?」
自身の膝をパンパンと叩きながら、光は律の幻想を打ち砕いた。
「くっ……」
普通の人間ならば「車買うわ」となるような存在。
ボクサーエンジンの乗用車でいいならインプレッサの2.0Lが乗り出し180万。
対してこちらは純正改造で約400万。
レヴォーグどころかWRX STIと同価格。
趣味の乗り物すぎる三輪。
屋根が無く、車としては荷物積載量も多くはなく、バイクとしては二輪専用駐車場などに停車できないワイドボディ。
1800ccと怒涛のトルクはお見事である一方、現実的には一般のライダーにすら縁がない車両である。
その価格から律は現実に引き戻された。
「まー大型ってのは大体こんな感じのエンジンフィールだ。今のうちに最大級のバイクを楽しんどけ」
岐阜を走る特殊車両は男二人を乗せ、山と田畑に囲まれた大通りを突っ切っていった――




