バイクのストレスを解消させる。 ~岐阜美濃加茂~
その日の夜は光の自宅の空き部屋を律は使わせてもらえることになった。
光は「たぶん数日ぐらい宿泊することになるから自由に使え」と言い、マットや毛布など寝られる道具一式を部屋に持ち込んできた。
律はそれまでにメールにてある程度の連絡はとっていたものの、電話をかけ、両親に現在位置や状況などを説明した。
「――まあ、光兄の仕事などを手伝って居候にならないようにするから……」
「まあ、光に迷惑かけないようにね」
「ああ、うん……」
律は自分に言い聞かせるようにして母である夢に説明し、そのまま電話を終えた。
(そろそろ仕事も考えなきゃいかんな……その前に長距離ツーリングも考えたい所だが……)
律はそんな思いを胸に目を閉じ、そのまま気絶するように意識を失った。
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「ハッ!?」
目を瞑っただけで時間が飛ぶ。
そんな感覚はバイクに乗ってからは2度目の経験である。
あまりに疲れすぎていたのか夢に入ることもなく、自分が眠ったという意識になることもなく眼が覚めたら窓から差し込む光が明るくなっていた。
急いで時刻を確認すると現在10時。
普段起きる時刻より3時間以上も過ぎている。
「くそっ、朝食の手伝いも何もできていないじゃないか! 昨日、母さんと約束したってのに俺はッ!」
飛び起きた律は着替えてまずはダイニングへと向かった。
するとそこには昨日の残り物+目玉焼きといった朝食一式がラップをかけておいてある。
隣には光の直筆で書置きがされていた。
――炊飯器に飯がある。焦らなくていいから食ってから店側に来るように――
「うぅ……後で光兄に謝らないと……」
律は情けない気分となりつつも、まずは朝食を採って身だしなみを整え、それらの後片付けを行ってから店へと向かった。
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「ごめん、寝過ごした!」
律は人の気配を感じ、バイクの整備等を行う作業場へと向かい、光を見つけると声をかけた。
「おう、起きたか。別に気にするな」
律が作業場の中に入ると目の前には驚きの光景が広がっている。
作業用の皮手袋を見につけた光は、膝をついた姿勢にてCBを整備していた。
CBの後輪や前輪などが外され、まるで分解されているかのような状況であった。
シートなども外され、まるで事故車両を修理しているかのようである。
「えーっと……これが早めにやりたかった作業? 俺なんかへんな乗り方してたかな……」
CBの状態を見た律はラフな乗り方をしていた記憶はないが心配になり、何気なく手を胸のあたりに当てる。
「ん? お前には問題ないぞ。マシンにゃ問題あるがな」
キリキリとインパクトレンチでボルトを緩めていた光は、一旦作業を中止して立ち上がった。
「新車のCBに?」
律はCBと光のいる場所に近づく。
「ああ。今のCBはストレスが溜まりに溜まったヒステリー起こしかけの女みたいなもんさ。最近のホンダは昔と違ってオーバートルクで何でもかんでも締め付けやがる。てめーんとこで指定した締め付けトルクでボルトやナットを締め付けない。それがマシン全体に悪い影響を与えているわけだ」
締め付けトルク。
乗り物においてこれほど重要なものはない。
例えばボルトは「とりあえず締めればいい」という事はない。
新幹線の事故などが有名であろう。
下部の床下機器を覆うカバー部分のボルトに対し、想定の2倍のトルクをかけて閉めた。
その結果、振動などによってボルトに想定外の負荷がかかり、カバーが吹き飛んで走行中に乗客のいる窓付近に部品が衝突。
そのダメージから「窓に直接当たっていたら間違いなく乗客が死亡していた」といわれるが、カバーはその後になんと列車上部の架線まで吹き飛び、ショートして停電が発生して新幹線が急停車。
その急制動の衝撃によって寝ていた全く別の車両の乗客がケガを負ったという事故。
カバー部分は2号車の一番前の真下で、そのカバーが窓付近に直撃したのは3号車の一番前の窓。
カバー自体は実に車体に直撃するまで20m以上を移動し、その後、直撃を新幹線が感知した位置から、さらに後ろに30mほど吹き飛んで架線に命中するほどの勢いがあったという。
時速300kmというバイクでも到達できうる世界ですら、ボルトという存在をぞんざいに扱えばこのような事故に繋がりかねない。
航空機やロケットの世界ではそれがさらに大変な事故へと繋がるほどだ。
変にストレスがかかるオーバートルクの方がよほど危険なのである。
通常、バイクを生産する際は「あえてゆるく」各部分のボルトを締め付けている。
理由は「運ぶ際などに妙なストレスがかかってフレームなどが歪んだりする」など想定外のことが起こるからだ。
タイヤの空気圧も少なめに設定し、とにかく「全てをゆるく調整」するのが基本。
4メーカー全て共通だった。
それが、インドや中国などでパーツ生産された、ないし車体も生産されたものなどとなるとオーバートルクとなる事象が多発。
ホンダは「下請けは規定どおりかそれより少し緩くしているだろう」などと勘違いしており、ディーラー側は全てではないが「納車時に1本1本全てのボルトまで見ない」などという事からオーバートルクのまま納車される事例がある。
実際にそういうのをきちんとやっているドリームなどでは「昔より納車整備に時間がかかっている」と陰口を言うほどである。
優秀なバイク屋は「全てのボルトを見る」という事をやるが、ドリームの場合は基本「1000km点検時」でしか見ない。
さらに重要なのが「ボルトは締め付ける順番」というものすら決まっているのだが、ドリームの点検では「大半の直営店舗ではそこまで守ってはいない」ということがある。
ドリームの質を上げるというが、具体的にどこからやったらいいのかわかってない様子がある経営幹部達は、そういう「ある程度高速で動く動力車において最も重要な要素」を満たすことからはじめるべきであろう。
光はそれが事故にまで繋がるものではないと理解しつつも、「車じゃねえんだから全部見てしかるべき」という己の信条より、一律5万円で「全てのボルト類その他を調節する」というサービスを展開するほどであった。
ここで「5万とは高くないか?」と思った人。
実際に現実にそういうサービスはあるが、エンジンカバー類から何か何まで全バラのサービスだからね。
外車なんかは、この時点で電装系の不具合などを見つけたりして、その後に大きく影響するからそういうサービス展開している店でその手のサービス受けてる人は結構いるし、車検前の有料車両点検サービスにこのサービスが含まれていたりする。(どのバイク屋でも7万とか8万とかかかるアレ)
DIYで一度でもそういうことをやった人なら、すべてのボルトを規定のトルクで、規定の順番で完璧にやるというのがいかに大変かわかることだろう。
「これからコイツはスイングアームも外そうと思ってる。特に最近のホンダはスイングアームのシャフトにちゃんとグリス入れてないんだよ。気づいたら錆びてるっていう。ドリームでそれやってる店は数えるほどでしかない。というか、そんなモンは製造時にちゃんとやってると思って疑わない」
「それってめっちゃ時間かからない?」
ボルト類に左右別々に番号札をつけてまで綺麗に整頓して並べつつ分解している様子を見た律は、光の職人としてのプライドにやや引き気味になるほどであった。
「まぁ今日は日曜で暇だしな……休日は緊急対応が基本でみんな預けてくるのは今日の夕方以降だから。んだからまー、数日ほどCBから離れてもらうぞ?」
「光兄に任せるよ……俺にはまだバイクがよくわからないし」
律は両手をスッとあげて疑問といったようなポーズを示した。
「で、CBで何か気になってる点は? 取り回した際にキーキーうるさいのは気になったが」
「走行中の跳ね上げが酷い。手首が痛いまま……」
律は炎症を起こしている手首を光に見せ付けた。
赤く腫れた手首は軽い腱鞘炎のようなものを起こしている。
「むむ……割とコイツ自体はそういうクセがあるっちゃあるが……んじゃあ、こいつをちょっと俺も試してみていいか?」
律の状況は割と深刻そうであることから、
光は自らが乗って状況を確かめたい旨を律に問いかけた。
「乗ってくれたほうがありがたいよ……これがCBの普通というものなのか、インパルスが良すぎたのか……約120万かけて、今の所は光兄が産業廃棄物手前と言ったインパルスと殆ど変わらないんだけどさ……」
律は手のマッサージをしながら、光に頷いた。
「アレは壊れてないだけでいつ壊れるかわからない状態だが、乗り心地はとてつもなく良くなるようカスタムされてるから、純正CBとの比較は難しいけどな……こいつも金を払えばそれなりにゃなるしな」
「うーむ、俺は純正が好きなんだけどなあ……」
「ははっ。燃料タンクをカスタマイズした男が言う台詞かよっ」
光は腹を抱えて笑った。
初めて見た後で思わず調べてしまったが、やはりCBの純正は立体エンブレムなどではない。
律はカスタマイズについては何も光に報告していなかったので、CBもいよいよ高級路線のために見た目をややゴージャスに変えてきたかと一瞬勘違いしてしまったが、やはり純正仕様だとエンブレムはシールであった。
「俺は翼のエンブレムが好きなのっ!……ところで何か手伝うことある? 何もせずに居候するぐらいならせめてレンタル車両を通常価格で借りさせてもらって、店に貢献したい所なんだけど……」
律はタダ飯を食べたくないのでサービスを受けて貢献するか、働いて貢献しようと光に提案する。
元よりそのつもりでこの場所まで来ているのだ。
律は無職ではあるがニートではない。
働かない人間に明日はないと考える男。
昔から行動力は非常に高い方なのである。
「おう。お前には今日配達をやってもらう予定だから」
「へ?」
「土日だぜ? レンタルなんてみんな出払ってるか、これから借りられてしまうからな。それよりも普段は綾華がたまにやってるパーツ配送をやってもらう。解体屋とかから指定の商品を集めてもらうんだ。そのためのお前が使う仕事道具を急ごしらえで作っておいた」
皮手袋を一旦置いた光はトコトコと店の奥へと向かってる。
「ほれ、ついてこい」
そしてボーっと立ったまま硬直していた律をこちらに来るよう促した。
律が向かった先は、店の裏側に位置する駐車場であった。
トランポとして使う車両の隣に謎のバイクが置いてある。
見た目からして明らかにオフロード系のものと思えた。
どこかで見たことがあるが思い出せない、しかし律はそれを間違いなくどこかで見たことがあった。
頭の中を穿り返すと、一番最初にCBと並んで列挙した車種に似ている。
購入検討リストに入れた車種である。
しかし名前を思い出せない。
「……これは……なんだったかな……」
「CRF250Rallyだ。そいつにCRF250F用のバイク便一式セットを装備した配達業務用改造車…兼、お前の基本能力向上用バイクといったところだ。無論、この車高……ローダウンモデルじゃないぜぇ?」
ニヤける光の一方、律は――
(こんなのどうやって乗るんだろう)
――と硬直してしまっていた。
リアシートから後部にかけ、巨大なFRP製の箱を背負ったオフロードバイクは、とにかく重心点が高く不安しか感じない。
「まー、解体屋付近は舗装されてなかったりするからな。オフロード系じゃないとだめだ。綾華は律向けの配送用バイクはセローがいいとか言ってたがパワーはこっちのが上だからな」
しばらく黙ってCRF250Rallyを見つめた後、律は覚悟を決める。
「わかった…やってみる。もちろん、コケてもいいやつ?」
「事故車の3コ1で俺がちょっとした買い物用に使おうとこさえたモンだから好きにしてくれ。ほれ、ナビも付けといたぞ」
光が顔でクイッとその方向を示唆した先には、ハンドルにくくりつけられたゴリラの姿があった。
ゴリラはCBから移動させたものだったが、金具類はCBからの移植ではなくまた異なるパーツとスタンドにて新たに装着された状態となっている。
律の加茂レーシングにおける初仕事は生まれて始めてのバイク便となったのだった――




