高尾と山梨の蛇の道(前編) ~山梨ツーリング~
今回からようやく本編開始です。
序章の導入部などに興味が無いという方はこちらからお読みください。
尚、実質的な第1話なのでルビや説明などが改めてされるケースがあります。
梅もまだ咲かぬ春前。
ついに公道デビューを果たした男は、親戚の女の子と共にいざ国道20号へと突き進む。
その名は音羽 律
2日前に免許を獲得したばかりの、初心者である。
つい先日まで8ヶ月もの間意識を失っていた彼は突如として二輪に目覚め、今日へと至っている。
親戚でバイク屋を営む音羽 光が退院祝いと称してレンタル扱いで受け渡したインパルス400は、「俺はまだまだいける」とばかりに、その心臓部にてオイルをかき混ぜつつ燃料を爆発させ、律をまだ見ぬ地へと引っ張りこんでいった。
「感じはどう?」
すぐ前を走る少女が赤信号の国道20号、調布付近の地点にて問いかけた。
公道デビューからまだ10分程度。
律はまだ体が固まった状態である。
そんな様子を心配するがごとく発したその言葉は彼女のヘルメットに装着されたB-COM SB6Xにより、電波に変換して飛ばされ、そして律のヘルメットの左側にクリップ止めされる同じインカムがその電波を受け取り、クリアな音声に再変換し、スピーカーを通して律の耳元へと運ぶ。
それは少女の息遣いすら聞こえるほど高精度なものであった。
「……スズキって正直変なイメージをもっている人が多いと思う。でもこれは、そういう適当な人間のふざけた評価を完全に吹き飛ばすぐらい、よく出来ているのかな……?」
インパルス400。
他の400ccネイキッドと比較して最も違う点はその車格にある。
約一回りほど小さく、CB250Fホーネットと殆ど変わらない大きさ。
だが、それにも関わらずこのバイクは他のライバルのネイキッドバイク達とほぼ同じ動力性能を得ていた。
犠牲になっているのは排出ガスの処理能力であった。
スズキ製四気筒エンジンは振動も少なく、乗り心地も悪くなかった。
律が教習車と比較して感動するほど、乗り心地が良い理由は、何もカスタマイズされているからというわけではない。
今彼が公道デビューとして始めて乗ったバイクは元より純正からBremboのブレーキとカヤバのサスペンションを装備する。
よって他の車種より乗り心地やブレーキ動力性能は1段階上の代物。
それでいて価格は他の車両と横並び。
横並びしている理由はエンジンがやや古い形式にあり、フレームも実質的に新造設計ではなく改良品であるコストカットによる。
徹底的に開発資金を削ぎ落とした分を他に回したことでスズキユーザーはこう口走っていた。
「こいつはな、完成度だけでいえばCBにだってゼファーにだって負けちゃいない旧車なんだよ」―だと。
それがすぐ出来るような環境が整っていたのがスズキというメーカーなのだ。
そして、このインパルス400はジムカーナ用として前オーナーが10年以上乗り続けた代物だった。
後部サスペンションはナイトロンに変更され、エンジンガードやマフラーガード、ナックルガードなどを装着。
さらにジムカーナ用のためなのかプロテックの後付ギアポジションインジケーターまで装着。
ハンドルバーはさらにアップライトなアップハンドルへと交換され、姿勢ポジションは完全な殿様乗りとなっている。
その結果、想像以上に街乗りでの負担が少なく、道路の継ぎ目などの凹凸に柔軟に対応できていた。
マフラーは何度も転倒したことでキズがついているが、ステンレスのエキパイに交換され、ヨシムラのサイクロンがおごられていた。
律にとっては初めて公道で運転したバイクであり、純正とどれほど違うのかも理解できないほどまだ知識が足りていなかったが、少なくともそれを加味したとて、インパルス400が名車とされる理由をこの10分間だけの軽いウォーミングアップの走行で理解できるほどの挙動をズタボロのこのバイクは示す。
赤信号中にメーターを見ると走行距離6万キロ。
約10年、これ一本に乗り続けたという話を事前に光より聞いていたが、
そこから律は「自走」にて大会に向かっていく生粋のオーナーであることを理解した。
そう思うとタンクまで凹んでズタボロの車体にはなぜか、ボロいというよりかは「老練」といった印象を受ける。
そのキズの1つ1つが前のオーナーがインパルス400にて限界に挑んだ証なのだ。
律は少々ヤレたシートの感触やエンジンの振動、キーキーと音がする前輪ブレーキなどから勝手に顔も知らぬオーナーがジムカーナを走り込むイメージを脳内にて展開していた。
土曜の早朝。
国道20号の下り路線はひどい渋滞である。
しかしその酷い渋滞が逆に律の不安をかき消すほど遅い走行ペースとなってくれていた。
「律くん。信号停止中はNでええんやよ! ここは教習所やないし、そんなに左手を酷使したら後で握力なくなっちゃう!」
信号停止中にクラッチを握り込んでいる様子を見た少女は律に注意を促した。
実は律は左手に不安があった。
事故にて後一歩で切断というところまでダメージを負ったことから、初めての教習中に問題を抱えていることを認識し、周囲にそれを相談していたのだった。
この少女にはその件を伝えていなかったが、彼の父である男からいつの間にか聞いていたのだろう。
律は本当は言わないでもらいたいと考えていたが、マスツーにおいて留意せねばならない自身の致命的な弱点であることから納得する他なかった。
「大丈夫。ちょっと半クラの感覚を覚えておこうと思ってるだけだから……」
ギアチェンジに不安がある律は半クラッチの状態を確かめるためにクラッチを開いたり閉じたりを繰り返し、バイクが少しばかり前後に動く状態となりながら感触を確かめている。
エンストさせて盛大にズッこけることなどしたくなかったためであった。
そもそも車間がとられにくい国道20号こと甲州街道において、発信直後のエンストからの立ちゴケなど危険極まりないものである。
その危機感というものが律をそうさせんと促したのだった。
バックミラーでその様子を見ていた綾華は、その時点では何も言わなかったものの、眼をやや細めた。
「綾華! こっから国立府中と八王子駅周辺がめちゃくちゃ混むんだけどそのまま行くのか?」
B-COMに左手を添えながら律は綾華に言葉を投げかける。
「高速使いたい?」
綾華はその姿に律の方を振り向いた。
「ちょっち試したい」
「男やねー。ええよ。ちょっと試そっ」
親戚の少女、音羽綾華は律の男気ある判断に胸が躍る。
車好きで、自分にとっては非常に怖い首都高も毛ほどとも思わない男だとは知っていたが、二輪でもいきなり中央道へと突入しようというのだ。
通常ならば「怖くて高速とか行げね!」ってなるはずなのだが、律にそんなもの全く関係なかった。
バイザー付きヘルメットSHOEI GT-Airを被っている律は、朝の日差しが差し込むことからバイザーを降ろした状態で表情がよくわからないものの、その眼は輝きを放っている様子が伺える。
もう我慢が出来ないという様子は体中からオーラのようなものを出して表現しており、綾華にもそのオーラはなんとなく認識できるほどであった。
二人はそのまま調布インターより中央道に乗ることにした――。
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――15分後。
いくつもの信号渋滞を抜けて二人は調布インターに入るためのカーブに入っていく。
左ウィンカーを点灯しながらそのカーブに入った律は思い切って生まれて始めての4速ギアに入れた。
それまではそこまで速度に乗ることが出来ず、ギアは教習所内の限界と同じ3速までしか入れていなかった。
インパルスはスムーズなギアチェンジを示し、料金所のレーンまでのカーブを加速していく。
その様子をバックミラーより見ていた綾華もCBR250RRを加速させるも、早すぎて律は彼女を追い抜いてしまった。
「わっ、ちょっと待って!」
綾華がスピードダウンを促すも、律にはすでに綾華の声が届かないような状態へと入っていた。
そのまま正面一番左側のETCレーンに入ってゆく。
ETCレーンはやや反応が鈍く、律は2速まで落として減速することになったが、特に問題なくETCレーンを通過。
綾華がその後ろにそのまま続く。
「(いくぞ、いくぞいくぞいくぞォッ!)」
心の中で何度も叫びつつ、過去何度も四輪自動車にて通った高速の合流レーンまでへのカーブに進入していく。
カーブはまだ不得意で多少フラつくが、とくに問題なく通過。
そして。
ヴオオオォォン、 ワァオオアアアアアァァァァァィィィィィィィィ
三速から四速にギアチェンジし、そのまま一気に加速。
「ああっ、待って~~」
綾華の存在すら忘れてしまった律にはその言葉が届かず、そのままアクセル全開。
車とは比較にならない凄まじい加速力によって、インパルスはわずか4秒程度で時速100kmへ到達。
「ひゃっほぅ!」
その鋭い加速に律は思わず叫んでしまうほどであった。
加速と共に熱い熱気が脛の辺りを襲うが、特に気にならない。
バイクが本気で燃料を爆発させて加速しているという感覚を、その熱気が助長させ、さらにテンションが上がる。
そのまま一気に左レーンに入り、五速、六速へとギアチェンジしていく。
「すげぇ! すごいぞスズキ! なんでこんなにギアシフトがスコンスコンと入っていくんだ! まるでバイクがもっと加速しろと俺に語りかけているみたいだ!」
「ちょっと律くん! いきなりそんな加速せんで! 私のCBR250RRも加速は悪ないけど加速力やとやっぱ400ccには劣るんやから!」
「あっ……ごめ……」
綾華の大声による注意に、律は綾華とのマスツーリングを行っていることを思い出す。
一瞬一人だけの世界に入り込むほどインパルス400は素晴らしいバイクであった。
いや、バイクの本当の楽しさとは元来はそういうものなのだ。
人をその人のもつ固有の世界へ誘う。
それが出来るバイクが最も完成度が高いものであり、インパルス400もその例に漏れない。
ネイキッド四天王に数えられる存在が、他のメーカーのネイキッドバイクになど劣っているはずがなかった。
「そのバイクは6万キロオーバーのオンボロなんやよ! いきなりそんな加速して、どこか壊れたら……ともかくもうそんな無茶はせんといてね!」
律に追いついてすぐ真後ろまできていた綾華はヘルメットのシールドに唾がかかりそうな勢いでもって律に言葉をぶつける。
律ですらその声にたじろぐほどの声量があった。
「……えーと」
「わかったッ!?」
綾華の声には明らかに苛立ちが混じり、普段よりトーンが低い。
スピーカーを通してそれが完全に律にも理解できるほどである。
「……わかった……」
律はそのあまりの声の大きさに気おされたが、内心では「もうちょい加速したい」という思いでいっぱいだった。
しかしそれなりに車も詰まってきており、仕方なく100km巡航の状態を維持した。
稀に80kmで進む車がある度に車線変更を繰り返す。
その姿を見た綾華は「(本当に高速初めてなんか……」)」と驚くほどであった。
それは、軽といえど四輪自動車にてずっと首都高を走り続けた経験値によるものだった。
操縦方法こそ全く異なる両者だが、車を運転するという上において注意をしなければならない部分などは変わらない。
首都高4号線など危険で運転しにくい場所ですら仕事で日常的に走らされた律にとって、国立府中から八王子付近の高速などわけなかった。
インパルス400はその律の姿勢に「いきなりブン回すとは上等だぁこの野郎! まだ俺はスクラップになるのは速ェんだよ! ついてきやがれホンダに乗ったケツの青いガキが!!」とばかりに問題なく加速して左レーンの乗用車をヒラリヒラリとやり過ごす。
後に続く綾華の方が6速から5速にギアダウンして加速などをしないといけないためキツいほどであった。
八王子の料金所を超え、八王子インターにまでくると綾華の方が神経をすり減らした影響で疲れてくる。
普段の自分のペースより明らかに速かったのだ。
「律くん……石川PAに入ってほしいんやけど……」
まだ寒い季節ながら緊張と不安から顔に汗が滲むほどであった綾華は喉が渇き、石川PAでの休憩を提案。
その提案に律も乗り、石川PAにて休憩することとなった。
石川PAへのレーンに入った綾華は減速する律を追い抜く形で再び先行の位置をとった。
「こっちに二輪専用駐車があるからついてきてなー?」
すでに何度か利用していた影響でそこに二輪専用駐車場があることを知っていた綾華は律の誘導を試みる。
律は低速になったことでフラフラしながらも綾華についていった。
二輪駐車場は土曜の朝ということもあり、何台かバイクがきていた。
最大で5台程度しか入れないため、二人はギリギリに詰めた状態で左端の方にバイクを入れる。
「んしょっ」
CBR250RRを停車させた綾華はヘルメットを脱ぎ、CBR250RRのミラーにかける。
「律くん。ちょっとクラッチ操作やってほしいんやけどええかな?」
綾華は律の方へ歩み寄った。
「ん?」
そしてバイクから降りようとしていた律を綾華は静止し、突如クラッチ操作をやってほしいと切り出す。
律はそのままサイドスタンドをかけた状態でバイクを斜めに立てかけたまま跨った状態となり、普段どおりのクラッチ操作を行った。
「うん。それ駄目な見本やね」
クラッチをハンドルバーに密着させた様子を見た綾華は呟く。
律は何が駄目なのかわからない。
思わず眼を何度も瞬きして目をパチパチさせる。
「えっと……なんか違う?」
「ちょっと手ぇ離して」
綾華はインパルスの左ハンドルを握る。
「まずは小指と薬指をハンドルバーにかけたまま、人差し指と中指だけでクラッチ引いてみてほしいんやけど…………こうなー」
綾華はその状態でクラッチレバーを引き、何度か試す。
そして手を離し、律に同じ方法でのクラッチ操作を試させる。
律は試してみるものの、初めての方法で違和感を感じた。
「んーっと……?」
「その指が当たった状態がクラッチ入ってる状態で、そこからちょい離したら半クラなんやよ。さっき半クラを試すとか変なことやってた時に気になってたんやけど、そのバイク、ナックルガードがついててよう見えないやんか。せやから変な感じがして今試してもらったんやけどね」
全てのバイクがそうではないが、スズキとホンダは最初からこの状態で動かすことを前提としたクラッチレバーとワイヤー設定となっている。
その影響か、特にホンダはやたらとクラッチとハンドルの間が広く間隔がとられている。
最近のホンダはそこにクレームがついたのかアジャスター機能がついたが、古いバイクほどとにかくクラッチまでが遠い。
インパルスも古い車種のため、その傾向があったが、そもそもバイクのクラッチは停止中以外、ハンドルに密着させるほど握り込む必要などない。
こうすればちょっと開いてアクセルを捻ればバイクが発進可能。
ギアチェンジも指に当たらない程度の感覚で行えばすんなり入る。
そういう操作をしなくともスコンスコンと入るのはインパルス400のクラッチ関係の出来がきわめて優秀だからである。
安物バイクだとこれが中々上手くいかずに交差点のど真ん中で泣きをみることがあるが、特に初心者ほどその感覚に陥りやすい。
原因は1つ。
クラッチをハンドルバーに密着させんばかりの状態で交差点の真ん中にてギアをいくつもダウンさせる。
これがクラッチによくないのだ。
バイクのギアはスコンスコンと1速ずつクラッチを開閉してギアチェンジするのが好ましい。
律はMTの四輪車に乗っていた影響で四輪と同じ感覚でやっていたのだが、それがよろしくないことを綾華はここまで来るまでの少ない時間で看破していたのだった。
「ギアチェンジってこうやるのか……」
「そうなんやよ。それと、シフトペダルについてもなんやけど、いちいち元の基本ポジションにせんでええんよ。特に加速時にはずっとシフトチェンジペダルを足の甲に乗せたままな感じ。どっちも覚えといて」
綾華は律が教習所の教えに習い、いちいちシフトペダルを元のポジションに戻してからチェンジペダルに足をかけるというのを繰り返していたのを確認していた。
これだと無駄にレスポンスが悪くなるだけでまるで意味がない。
チェンジ時に妙なミスをしないようにという教習所の教えだが、実際は加速時にそんなあたふたしていると逆に危険である。
シフトレバーの握り方と合わせ、チェンジペダルの操作方法も修正しておきたかったのだった。
「わかった。」
律は頷きつつ、ヘルメットを脱いだ。
「それじゃ、ちょっと何か食べる? 私お腹がすいてきたんやけど……律くんは?」
「何か食べるか。奢るよ」
「わぁーい!」
ピョンピョンと跳ねながら食堂に向かっていく綾華に対し、律もミラーにGT-Airをひっかけ、さらに斉工舎のカラビナロックをかけ、綾華の後に続いた――




