密着走行
正直なところ、律は恥ずかしいどころではなかった。
男の威厳の欠片もなくなる女性運転によるタンデム走行。
そんなの周知プレイもいいところであるし、そもそも「現実世界でこれまで目撃したことのない姿」であることが気がかりでならない。
だが、それでもなぜか今日は優衣ともう少し同じ時間を共有したい気分でいた。
惚れたというのとはまた違う。
男と女の性別的枠組みを外れた、人と人の仲に極稀に存在する「同じ時間を共有したい」という気持ち。
それが「幼い」感情なのか、「人間らしい」感情なのか律には判断できない。
だが人間誰しも一度はそういう機会があるはずだ。
それが例え同姓であれ、年齢が大きく離れている関係であれ、そういう機会がある。
きっとそれはお互いにシンパシーを感じた瞬間に突如訪れる感情であるのだと律は結論付ける。
周囲の視線などどうでもいい。
ただ一言、彼女に純粋な気持ちでもって伝えたいことが1つだけあった。
しばし考え込んでいた律は優衣に誘われるがままに歩き出し、そして彼女の愛車VESPAのもとへと向かう。
当初重かった足取りは徐々に軽くなる。
後は「倒れない」ように祈るだけ。
夕日を見事なまでに反射し、オレンジ色を一部に纏うVESPAに律が近づくと、スマホスタンドにスマホを装着した後に優衣はなにやらカチャカチャとシルバーの飾りのような部分を弄りだす。
シルバーの飾りは通常走行においては踵にあたる部分に配置されているものである。
一体何の作業をしているのか律には理解できない。
ガチャッ。
「これでよしっ、これタンデムステップね~」
律は目が真ん丸くなった。
ただの装飾と思われたステンレスのパーツはタンデムステップであったのだ。
勢いよく飛び出したソレは誰がどう見ても完全にタンデムステップである。
律が驚いている間、優衣はキーをポケットから取り出し、トップボックスを開ける。
42Lという純正でありながら大容量のトップボックスの中にはヘルメットなどが仕舞い込まれていた。
優衣はヘルメットを取り出した後、その中に中身を交換するようにして購入したレインブーツカバーや先ほどまで身に着けていた黒のハイヒールシューズが入ったAlPHAのブーツが収められていた箱を突っ込んだ。
「こっちなら先輩のも入るから入れちゃって~。バッグとか走行時に当たって気になったりするから~」
「あ、ああ……」
優衣はスマートキー付近をカチャカチャと弄るとシートがパカッと開き、メットインスペースが露になった。
律は彼女の言われるがまま、肩にブラ下げていてヘルメットや教習用の教本などが入ったトートバッグをメットインスペースに放り込む。
さすがはスクーターといったところで、とにかく収納できる部分が多い。
彼女の話ではなんとフロントにも収納スペースがあるらしく、パカッと開くと500mlペットボトルが2本は入るスペースが存在した。
律は収納スペースの多さに関心しつつも、バッグより取り出したGT-Airを被る。
「わぉ、SHOEIなんだ~。いいねそれ~」
「ははは……まぁね……」
教習所でもやたらと評判のいいSHOEI GT-Airを優衣にも褒められた律はテレる。
実は律、形状だけならGT-Airよりも、やはり最も衝撃を受けたX-fourteenの方が好みであったものの、GT-Air wandererのマットブラックに白い左右非対称ストライプが入ったモデルは10代~20代においては非常に評判がいい。
律としては褒められているのは「GT-Airというヘルメット」なのか「このストライプ柄」なのか「この柄のヘルメットという存在」なのか「このヘルメットを選んだセンスを持つ自分」なのかどう評価すべきか非常に迷うところだが、優衣はどうやら「ヘルメットを選んだセンスをもつ自分」を評価してくれているような気がして素直に嬉しかった。
そんなことを律が考えている間に優衣はVESPAを一旦駐車場の枠内から出し、タンデム状態となったらそのまま走りだせるような場所まで取り回していた。
「さて、どう乗れば良い?」
優衣が停車させると律が口を開く。
律は自分が先に跨った方がいいのではないかと考えていた。
跨った後に後方に移動しすればバランスを取れるからだ。
「先輩は足が長いから届くでしょっ? 私が乗ったらタンデムステップに足をかけずに乗ってもらえます?」
一方優衣は自分が乗った後に乗ってほしいと嘆願する。
その上でタンデムステップに体重をかけられると左側に倒れる可能性から、タンデムステップに体重をかけずに滑り込ませるように右足をサイドキックするがごとくシートに回して騎乗してほしいと律に頼んだ。
「じゃあまずそれで」
律がそういうと優衣はサッと乗り込み、左足で片足立ちする。
右足はフロアボードに置き、ハンドルを両手で握る。
そのまま右足と右腕に体重をかけ、VESPAはサイドスタンドをかけたまま水平の状態となった。
「ッしょ!」
律はその常態になったのを確認し、サイドステップに体重をかけないまま地面に左足をおいた状態にて右足を大きく上げ、そしてシートに滑らせるようにして跨った。
「ッツツ」
優衣は律が密着した影響で息を漏らすが、律は踵こそ着かないもののつま先から踵までの間の1/3ぐらいの部分は地面に接地していた。
そのままつま先を利用して後ろに下がる。
その状態でVESPAを両足だけで支えることが出来るほど足つきはそれなりに悪くない状況だった。
乗る際に少しの間密着しすぎたことに律は「ヤバイ」と内心思ったが、あえて何も言わない事にした。
「なぁ~んだ。全然大丈夫じゃん。やっぱ二輪経験者は違うんだなぁ~」
「他の人だとこうはならないのか?」
「もっとグラグラして怖かったよ。最初乗った時にちょっとグラついて怖かったけど大丈夫大丈夫!」
優衣が息を漏らした理由はややバランスが崩れた影響だったことに律はほっと胸をなでおろした。
優衣はそのままVESPAのエンジンをかけ、そして走り出す。
VESPAはスルスルと加速した。
優衣は右折禁止の案内表示に従い、バイク用品店から左折して甲州街道に入る。
律は教習所で教わったとおり彼女の肩に手を当てていたが気になる感触があった。
恐らくそれは間違いなく「下着のストラップ」と思われるものが手に当たっているのだ。
ここに手を置いている場合、カーブ時に左右に振られることになるがそれは何かいろんな意味で「優衣の運転に支障」を与えないか心配になる。
また自分に再び「セクハラ」フラグが立っていないかも心配になった。
一応優衣とはそれなりに距離をとっており、股間が背中に当たるなどという最悪の状態は避けている。
タンデムシートは座り心地もそこそこでそれなりに距離を保てるほどの長さがある。
というよりも長さがある要因はデカい車体に起因している。
42Lもある大容量の正方形トップボックスを装着した状態が、一般的な30L程度の50cc~125ccスクーター向けトップボックスを装着した状態の車体との大きさ比率と同じになるような車体サイズなのだ。
このスクーターは小さくない。
だから優衣の細身の体に対して十分な隙間が生まれてしまうのだった。
甲州街道に入った優衣はすぐさま左に左折し、一旦隣の片側1車線の住宅街へと進む道へと入った後、再び左折してUターンするかのごとく左折の繰り返しで甲州街道に戻ろうとしていた。
左折した先の甲州街道に入る手前の交差点の信号が赤になり、停止する。
「やっぱそれなりに乗ってるのかー」
「まぁね~」
律が何気なく褒めてしまうほどに優衣は慣れた様子でカーブをスラスラと曲がっていく。
それも元来は「そこまでバランスがよくない」と言われるスクーターで、さらにバランスが悪くなるタンデム状態をまるで意に返さず小回りさせている。
「キャンプ道具とか積載すると40kgとか増えることもあるからねぇ~」
優衣には顔を律に向けず運転にある程度集中しながらも会話する余裕があるほどであった。
信号が青になると、対向車の姿が無かったためにそのまま右折。
優衣は左右をキョロキョロ見回してからアクセルを入れる。
特に右折にも問題がなかった。
グレーのVESPAは「俺はこれでもVESPA売れ筋のフラッグシップモデルだぜ? 50ccの原付じゃねぇんだ!」とばかりに右折後すぐさま加速していく。
優衣の乗るGTS300は何気に現行モデルだった。
トラクションコントロールとABSを装備したこのモデルは、律を乗せた状態で見事に完璧なトラクションを見せる。
持ち前のスチールモノコックによる低重心と2018年より搭載されたトラクションコントロールの影響でフラットダートなら意に介さないほどの走破性を誇るVESPAはスクーターというよりかは「VESPAというジャンル」と評価されており、広義においては国外版PCXなどと並ぶラージホイールスクーターだ。
直線に入っても加速は悪くなかった。
車重161kgにトルク重視の278ccの吹けあがりのいいエンジンは、250ccビッグスクーターなんて目じゃない加速を見せ付ける。
とにかく挙動が軽い。
そしてサスペンションは見事に跳ね上がることなく路面の凹凸に柔軟に対応できている。
なぜVESPAという存在が今日でも評価されているのか律はすぐさま理解することが出来た。
休憩中に少しコレについて調べてみたところ、イタリアではなぜがこれがX-MAXと戦っているらしいが、律はX-MAXを選ぶならデザインからしてやはりコイツだろうと思うのだ。
というか、本気で若者向けとしてKIMCOやピアッジオのスクーターなどと並んでコレとX-MAXが戦っているというのが信じられないほどである。
イタリア人のセンスというものがよくわからない。
芸術品と言いきれる美しいスチールモノコックボディの塗装。
シガーソケットやスマートキー、ABSやトラクションコントロールなど先進的な装備を標準装備。
そしてイタリア車両では割と珍しい「燃料計」なども装備。
飽きの来ないシンプルで美しい流線型のデザイン。
小型のウィンドスクリーンは十分なウィンドプロテクションを保ち、不快な風切り音もしない。
唯一気になるのはアイドリング時にやたら振動するエンジンだが、それは「VESPAらしい」味付けなのだろう。
946が日本でいうトヨタセンチュリーかレクサスのような高級モデルに対し、純粋なフラッグシップ車両としてそれなりに人気を誇るGTS300は素晴らしいものだった。
運転はしていない律だが、その加速力などはタンデム状態でもよく理解できる。
彼女が「首都高も楽々」と主張したのはウソではない。
1500cc乗用車よりか明らかに優秀な加速性能をタンデム状態で示している。
250ccビッグスクーターより間違いなく加速は良さそうである。
しばしの間VESPA GTS300を味わった律は、そろそろかとタイミングを伺っていた。
そして東京スタジアム付近の交差点が赤信号になった状況を見て彼女に以前から伝えようと思っていたことを伝える。
「優衣ちゃん」
「ん~?」
「俺のこと先輩って呼ぶけどさ……もう俺もジュニアリーダーじゃないし、先輩なんて呼ばなくていいよ。なんか君から先輩って呼ばれるほどのこととか俺には出来てないし、なんか俺らそういう上下関係みたいな感じなくない?」
「えっ?……確かに音羽先輩って言い方は周りに合わせてグループに入ってたから呼ぶようにはなってたけど……」
突然切り出された話に優衣は戸惑いを見せた。
「バイクにおいては君のほうが先輩だしさ、今後も二人でバイクで買い物とか行ってみたいしさ……昔みたいな呼び方に戻して欲しいっていうか……先輩って言葉が結構重かったというか……」
律は今までの思いを吐露する。
ジュニアリーダーとして活躍していた頃の自分はまさに「格好付けたがりの道化」そのものであった。
特に高校時代以降が酷かったと記憶している。
律はその頃の活動中、分身していたかのような状態だった。
本物の律が「良きリーダー象」というものを演じる律を外から見るかのような感覚。
そんな状況で活動をしていたのだった。
綾華などが憧れる姿の律である。
「他者に求められる最高のリーダー」として自身が描くものを演じる。
そんなことをずっとやっていた。
そんな律は女子から「先輩先輩!」などととにかく引っ張りだこで助力を求められる存在だったが、一方ではボロボロの状態だったのだ。
その中で唯一、律が無理していることを知っていたのが他でもない優衣だった。
「そんな肩に力を入れなくてもいいんじゃないか――」そんな言葉をいつも彼に対してかけていた。
優衣は中学に入って組織に所属した頃、当初こそ昔から呼んでいた方法で律に話かけていたが、
周囲が「先輩」と呼ぶのに合わせ次第に先輩と呼ぶようになり現在に至る。
優衣ですらそうせざるを得ない状況になるほど律は無理をしていたのだった。
しかし、その「先輩」という言葉は律にとって重かった。
その重圧が律をより道化にさせていたのだ。
だから律はジュニアリーダーから抜けた今こそ、
今後は等身大の状態で優衣と接したいため、「先輩」という肩書きを捨てたかったのだった。
「ふ~ん……そっかぁ……じゃあもう、リッくんって呼んでいいんだね?」
「そうそれ! 懐かしいなー! 俺はもう先輩なんかじゃない。本当に小さかった頃の君とイベントとかで遊んでた男から何1つ変わらないまま時が過ぎただけの存在なんだ。だから、そう呼ばれたい」
律は右手を差し出してサインを送る。「ソレダッ」と言わんばかりの合図を彼女に送りたくなるほど懐かしい名前だった。
優衣は律のその言葉に「先輩」という背中で語りかけるような律がいなくなった寂しさと同時に、常に真正面から自分を導いていた「年長のお兄さん」としてのリッくんが戻ってきたことに喜びを感じる。
とても変な気分である。
だが、寂しさより喜びの方が大きく上回っていることに段々気づいていた。
何と言うか彼がより近い存在になったような気がしたのである。
あの頃の状態から成長が止まってしまった「年長のお兄さん」としてのリッくんと成長して対等な立場になったような、追いついたかのような感覚に心がくすぐったくなるような妙な感覚に襲われた。
パパッ
そこに釘を刺すかのように後ろの車が軽くクラクションを鳴らす。
信号が青になってるぞと促すドライバーによる注意喚起であった。
優衣はすぐさまアクセルを入れて走り出す。
停車時は地面に足をついてバランスをとっていた律は走り出した常態に合わせてタンデムステップに足を乗せる。
「もう~。変なこと言い出すから青になったの気づかなかったよ~。ホント、運転中に変なこというからビックリしたじゃないか!」
「ごめんごめん。でも、今日買い物していて、俺は大昔の祭りのイベントで二人して祭り会場をめぐったことを思い出した。今の俺らってあの頃のそういう関係に近い気がしてさ……」
走行中の周囲の音に負けないぐらいの声でもって律は彼女に伝える。
店の中で走馬灯のように過ぎった思い出の1つにそんなものがあった。
祭りの出店の店員としてボランティア活動をしていた律の下へただの参加者として訪れた優衣。
丁度休憩時間になった関係で律は祭り会場で楽しむことになったが、その時に自分を連れまわした姿と今日のソレは被っていたのだ。
その時彼女は確かに律のことを「リッくん」と呼んでいた。
綾華が嫉妬ではなく純粋に羨ましがるぐらい清純な関係の中の良い兄妹か親戚のような姿がそこにあった。
律が優衣に求めたのは「最低限、あの頃のような爽やかな関係をもう一度」であった。
自分の中では「人生の汚点」と考えている子供のリーダーを演じた道化の自分よりも輝く、剥き出しの、等身大の自分自身の本当の姿がそこにある。
それは間違いなく現状においては「優衣」との関係ででしか享受できないものなのだ。
「あはははっ。お互い、あの時から全然成長してないのかもね~」
「なはははははっ!」
周囲には毀れんばかりに二人は笑う。
優衣もどこかで律にそんなものを求めている事に気づいていた。
幼い関係でもいいから、律と昔みたいに笑いあっていたい。
きっとそんな気持ちが「タンデム走行を誘った原動力となったのだ」ということに気づく。
そして律が「それに応えた」理由にも優衣は気づくことが出来た。
「リッくんもようやく素直になったね!」
ウキウキした気分になり、アクセルがラフな操作になる。
しかしそれがまるで気にならないことに自分自身が暴走気味なことに優衣は気づく。
感情が爆発している。
「ああ、これは借りだ。今度は俺が車を借りてどっか行こう」
「何言ってるのさ~。私らはライダーなんだぜっ! リッくんが免許とってCB納車したらそれに乗せてもらうか、こいつで一緒にツーリングするに決まってるだよ~?」
「あっはははは。そりゃ確かに」
夕日が沈みかける甲州街道を走るVESPAは、「あーやってらんね。リア充爆発しろ」とばかりに頬を赤く染めるがごとくボディが太陽光の反射で赤く染まっていた。
ローマの休日ならぬ府中の休日であった――




