大苦戦(前編)
動物病院に向かうことになった音羽家。
道中で勉と夢より律はハルが最後にお世話になったのもこの動物病院であったことを聞かされる。
律は思い出す。
18年前のあの日。
服の中にスッポリと納まって帰っていったハルのことを。
周囲が「見た目が悪い」と毛の色合いだけで評価されたハルは里親が見つからなかった。
そのため、最も最初の猫である黒猫とすぐお別れすることになり、悲しみに暮れる音羽家に対し、動物病院の先生はハルを救う意味も込めて里親になってほしいと願い出ていた。
律は散々悩んだ末、ハルを連れて帰る事にした。
夢と勉は「律が家に猫がいてほしいかどうかで決めな」――と律に選択権を与えたのだった。
結果的にそれは音羽家にそれなりに幸せな17年を与えたのは間違いない。
ハルの凄さは、音羽春の名を懸賞で使って出すと「大当たり」を繰り返す強運にある。
映画の試写会から始まり、特殊なイベント、ゲームソフト、何でも当ててきた。
金額的には大きな当たりではないが、ポツポツと細かいものを多く当ててきていた。
母の夢の趣味である懸賞であったが、それまでは「出しても当たらない代物」と勉や律から笑われていたものであったものの、ハルの名前で当たりを連発するようになってからは「我が家の招き猫」として認識されるようになる。
特にハルはそれなりに賢く、律の感情を読み取ることが可能だった。
律が悲しい時、辛いときは絶対に傍を離れなかった。
律は1つ理解できていることがある。
それは「ハル以上」という猫は恐らくこの世に存在しないということ。
強運を持ち、それを家族に分け与えられる猫など早々いるわけがない。
だからこそ「よほどの事がない限りは断る」という風に考えていた。
ペットロスは音羽家では起こっていなかった。
安易に新しい家族を増やしても「ハルと比較してしまうので次の猫が可哀想なことになる」可能性を捨てきれなかったからである。
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動物病院に辿り着くと、馴染みの動物病院の先生の両手に黒猫が抱かれていた。
律、夢、勉の3人が最初に共通で認識したことは「デカい」
「何ヶ月ですかこれ?」
思わず勉が口走ってしまう。
黒猫はそれなりに成長していた姿である。
「9ヶ月……10ヶ月ぐらいなのかねぇ……元々は別の家で引き取られた猫らしいのだけれど、そちらの家で不幸が起きて私の所に転がり込んできてしまったんだよねえ……」
先生はひょうひょうと何時もの調子で説明する。
黒猫は家猫の血筋で生まれ、一度里親に出たが、この先生の管轄地域にひょんなことから預けられたのだという。
以降、ワクチン注射や旅行時のペットホテル目的としてこちらにお世話になっていたのだった。
しかしそちらの家では猫が飼えない環境となり、動物病院に預かることになったというのだ。
「……無責任だ……」
律が小言のようにボソッと呟いた。
それは自身が20年近くに渡り、責任を果たし続けたという誉れのようなものがそうさせた。
律は猫を飼うにあたってはややリアリストな面がある。
保健所の猫を安易に拾ってきて多頭飼いするような事はしない。
出来ることなら多くの猫を救ってやりたいことから、行く当てのない猫を飼うよう心がけてはおり、一番最初に音羽家にやってきたのは元野良の小猫でかつ黒猫だった。
そちらは非常に賢かったが、野良猫だけに外に出たがり、紐付きで散歩するようになったものの、
交通事故によって1年で亡くなってしまう。
その後すぐさま出会ったハルは日本猫で沢山の兄妹がいたものの、ハルだけ「見栄えが……」とサビ猫独特の色合いが好まれず残ってしまった状態のを引き取った。
こちらは完全な家猫であった。
音羽家はハルの強運も重なりハルを手放すなどありえなかったものの、それでもそこには律、夢、勉の3人がもつきちんとした責任感と、律の懸命な世話によるものであった。
例えどんな理由があっても手放すなんてありえないと考える律にとっては、どんな理由があろうとも責任を果たせない者に対しては「無責任」と感じるのである。
やや神妙な面持ちになった律は黒猫を見つめる。
黒猫はなぜか律の方から目線を外さない。
まるで律を知っているかのような様子である。
律は顔つきをじっくり確かめる。
するとあることに気づく
(……こいつ……賢い)
20年近くの間、猫を飼いつつ様々な猫に出会う機会があった律。
すでに律は猫を飼う能力はベテランの領域であり、周囲からは「泣き声だけでなんで猫の気持ちがわかるんだ!?」と思われるほど猫に手馴れていた上、周囲が知らなかったものの猫の性格、能力について顔つきや体つきだけである程度判断できる能力まで持っていた。
そればかりか、ハルの加護でも身に着けたのか、ハルとすごして10年経過したあたりから様々な猫から好かれ、あちら側から近寄ってくるような能力まで身に着けている。
稀にネコカフェに来るような人間の中に、大量に猫が集まってくるような力を持つ者がいる。
そういった者というのは大体「長期の間猫を飼っていたことがある」などいう者だ。
実は猫というのは人が思う以上に賢い。
その者がどういう人間で、どういう性格なのかについて、ある程度判断できる。
単なる猫好きと、本物は格が違うということはネコカフェや野良猫の集合場所などに向かうとすぐわかる。
単なる猫好きだと殆どの場面で近づいてくることがないが、この手の者達にはあちら側から擦り寄ってくるのだ。
有名人では、赤坂で病院を経営する院長や、NHKなどの番組で世界を周りながら猫を撮影している元々は動物を撮影していたカメラマンなどが有名である。
前者は殆ど公の場に出てこないが、その筋では有名で、本人も「医師をやる傍ら、飼い始めて3代目の猫と時間を過ごすうちに殆どの猫に嫌われることがなくなった」というが、本当に臆病な猫でもその先生には懐く姿を律は1度だけ目撃したことがあった。
そしてハルと過ごして10年が経過した頃、自分もそういう力に目覚めていたのだが……
まるでその力を証明するかのごとく、黒猫は先生の手から離れて律へと向かう。
金色の目、全身真っ黒。
やや毛は長めで、中毛といった方がいい感じであり、毛の触り心地は高級クッションのようなモフモフ感である。
背中を撫でた律は「気品がある」ということをすぐさま感じ取った。
「ウチに来るかい?」
その言葉に黒猫は「んみゃあ」と律の方を向いて返事をする。
「預かってくれるのかい?」
動物病院の先生は律の表情を見定めながら伺う。
律の顔つきはかなり厳しいものだった。
「気難しい猫とも思えませんし、こいつ賢い気がします。いたずら好きにも思えないし……」
顔つきから黒猫の性格を読み取った律は、この猫が音羽家の負担にならないような印象をもったので、預かることに同意した。
「ふう良かった……律、実はね…私達は新しい猫を飼おうかって結構前から先生に相談してたのよ……この子を飼いますと言ってたわけではなくてね、なんというか……」
そこで初めて律は気づいた。
父と母、二人は猫がいる音羽家こそ音羽家であると考えていたことに。
自分はすでにハルで十分であったが、両名はペットロスこそ起こしてはいなかったものの、猫の鳴き声、歩く音、首輪の鈴の音、それらを欲していたのであった。
そのため、機会があったら紹介してほしいと事前に相談していたが、それはまだ律が眠っていた頃の話であったのだ。
「なんだぁ……早く言ってよ~」
そこに気づかなかった律は表情をやわらげる。
そういうつもりなら特段拒否する理由も無い。
音羽家に猫が必要というなら律はそれはそれで良かった。
黒猫が音羽家の新たな家族として加わった。
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その日そのまま連れてこられた黒猫について、命名権は律に与えられた。
律は「どうでもいいんじゃない」と夢や勉に命名してもらおうと考えていたが、ネーミングセンスが悪いことを自覚している両親はそれなりにセンスがあると認識する律に任せることにしたのであった。
「そうだなぁ……ウィラー……ウィラーってのはどうかな?」
律は黒猫をホイールの意味を持つ「ウィラー」と命名するのかどうかと両親に問う。
家に到着した黒猫は元気に走り回っており、まるで車のホイールのごとく軽快さをもつからである。
黒猫の顔つきはシャキッとした顔であるが、とにかく特徴的なのは「目を真ん丸く開く」というまるでジブリ系作品に登場しそうな姿にあった。
全ての猫がそうではないが、猫によってはこのように目を真ん丸く開く者もいる。
泣き声は「うみゃ」というような感じで、特段特徴というほどのものではない。
そんな姿からポッと出てきた名前がソレであった。
両親はその名前を承諾し、黒猫は「ウィラー」と名づけられる。
「宜しくな、ウィラー」
律のそんな言葉にウィラーは「ん~!」と口を開かず、これまた一部の猫がやる珍しい鳴き方で返答した。
鳴き声を使い分けるのも賢い猫に多いという。
特に賢い猫が多いとされる大型種のノルウェージャンフォレストキャットやメインクーンなどにこのような鳴き方をする者が多い。
ウィラーもまた、賢い猫が多いとされる黒猫だけにそのようなことが可能な者であった。
しかし、なによりも家族が驚いたことがある。
それはウィラーが「水洗トイレをなぜか使いこなす」ということが出来ることであった。
ウィラーは来たばかりの家を散策し終えると、トイレに向かったが、それは律らが用意したかつてハルが使っていた全身が隠れる猫用トイレではなく、人間用トイレに向かったのだった。
器用にも水洗トイレで用を足したウィラーは信じられない事に水洗トイレのボタンまで押して流してしまう。
「これを手放したっていうの!?」
欧州などでは割とやる猫がいて動画配信サイトでも映像がポツポツでてくるが、流石に水洗トイレを使う猫を初めて見た音羽家は驚きを隠せない。
「こいつが賢いことを動画配信したら餌代とか稼げたりして……」
律はその姿に思わずそう溢さずにはいられないほどであった。
音羽家に3ヶ月ぶりに猫の生活音がもどってきたのであった――
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翌日、律は午前中の2時限目に予約を入れていた。
出かけようとする律をウィラーは追いかけて、玄関の前で座り込み、出かける律を見送ろうとする。
すでに音羽家にウィラーは馴染んでいた。
「じゃ行っくるよウィラー」
すでに家族は仕事に出た後であり、一人残った律はウィラーに挨拶して教習所に出かけていった――




