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ツーリングドランカー! ―現代二輪ライダーの備忘録―  作者: 御代出 実葉
第二章:明日行きたい所にバイクで行く
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丹後半島周遊記 天橋立→京都府(丹後市丹後町)

 出発準備を整えて松井物産を出た律は再び178号線へ入っていく。


 数分の間は人家のあるやや内陸側を走行していたが、178号線はすぐさま海岸線沿いを走る道路へと変貌した。


 左手には遠めに周囲に馴染まないリゾートホテルらしき建物が見え、律は「需要があるのか……」などと不思議そうに思いながらも北上した。


 まるで栗田半島が遠くにある島のような感じすらする風景を横目に、律は難波野を越え、旧日置村へと入っていく。


 ここから178号線は再び内陸側を走る。


 旧日置村。

 丹後国風土記逸文にもその名が出てくる、古墳時代~奈良時代に栄えた土地。


 この場所がかつて特に有名だったのは、当時美男美女が非常に多かったために「浦島太郎と乙姫は、この場所に駆け落ちしたのではないか?」などと、推測的に丹後国風土記逸文にて語られた所による。


 元々、かの有名な浦島太郎は伝承にて丹後半島にいたとされ、浦島太郎本人を祀る神社は丹後半島内に多く存在する。


 これから律が通過することになる伊根町本庄浜などでは、浦島太郎が釣りをしたなどという伝承が残っていたりするわけだが、とりわけ日置村というのはそこに住む氏族の血脈などに謎が多く、


 それでいて美男美女が多く住んでいた事から「浦島太郎駆け落ち説」というのが推測で語られるようになった。


 ようは舞台となった伊根町に残る「死んだ」ないし「老衰した」という話は、竜宮城の者達、または浦島太郎の友人や知人が彼らを匿うために流したデマであり、


 実際には二人で陸地に上がって日置村に移り住んで静かに暮らしたのではないかという噂程度の推測が、非常に古い文献の「逸文」とされる伝承に書かれているのである。


 そのぐらい周囲の集落とは異なる顔つきの「美男美女」が多かったというのだ。


 日置村自体は漁村でありながら古来からその名が示すとおり、太陽の沈む方角を日々見定めて季節や月日の移り変わりを確認して国府や朝廷などに報告する責務を負った者達の住む場所でもあるのだが、


 全国的に各地に分布する「日~」と名づけられた集落とそこに住む一族はそのような役目を負っていた者達の住まう場所であることが多い。


 これらの地域は夏至や冬至に至ると、特定の非常にわかりやすい場所に太陽が沈むなどすることから「本日が夏至である」などといった判断が出来る場所となっており、それらを報告して季節を刻む役割を与えられていた。


 今日のようにGPSやらなにやらで太陽の位置すら測位して「うるう秒」などを作れるような時代ではない古来においては「太陽の角度」ででしか季節を計る方法はない。


 しかも彼らが生きた時代はそもそも「地動説」や「天動説」すら提唱されていなかった時代だ。


 だから、「翌日に太陽が必ず出る保証」すら無いとされていた頃だったため、


 基本的に彼らは太陽を信仰し、翌日にも太陽が現れるよう祈りなどを捧げていた様子で、伝承などでも、「夜になると明日また日がいずるようにと祈祷していた――」というような事が書き残されている。


 現在ではやや寂れた漁村だが、かつてはそんな伝説のあった地域なのだ。


 そんな旧日置村を過ぎると再び海岸沿いを走行することになる国道178号線。


 しばらく進むと遠くに何か陸地のようなものがかすかに見える。

 亀島である。


 亀島。

 かつては捕鯨が盛んだった地域。


 古くからここは漁村として栄えたが、特に捕鯨については江戸時代などに多くの記録が残されて江戸の地にまで伝わっているほどだ。


 捕鯨自体は殆ど神事のような扱いであり、命がけで捕獲した後はきちんと供養などをしていた。


 半島内には「鯨の墓」という、捕獲した鯨の供養のためにたてられた墓が存在し、貴重な収入と栄養源であった鯨を神聖視しながらも捕獲していた様子が伺える。


 大正時代以降は捕鯨を行うことはなくなったが、現在においても周辺には鯨が出没するのでホエールウォッチングなどが行われている。


 律は何かがありそうな予感はしたが、それが何かわからない様子で里波見へと入っていった。

 里波見を越えると次第にかすかに見えていた島が近づいてくることに気づく。


 そしてそれが半島であり、陸地続きだということも理解できた。


 178号線は里波見で一旦多少内陸側の場所を通過すると再び海岸線沿いへ。


 律は「(ここまで海岸線沿いが多いと台風とか津波とかあったら大変なんじゃないのかな……)」などと、あまりにも海が近いことにやや恐怖を覚えた。



 そのまま海岸線が続き、再びやや内陸側へと入ってしばらくすると、178号線が信号を境に二手に分かれている。


 養老に到着したためであった。


 直進すると新道バイパス区間、Y字交差点を右折する形で旧道へと入っていける。

 律は偶然交差点の信号が赤だったために一時停止してその間に先の状況を確認。


 旧道の先に道の駅があり、そこで小休止することを考え、旧道を進むことを選択し、右折。


 旧道はセンターラインすら引けない道幅でありながら、辛うじて対面通行が可能なよう整備されていた。


 両サイドを民家に挟まれた状態で進むと、その道幅のまま海岸線沿いへ。


 大型車が入ってこられなさそうな旧道区間がしばらく続くと、旧道は片道一車線の二車線道路になり、なったかと思うとすぐさま道幅は再び狭くなってしまった。


 そのまま退避場を越え、人家のある場所へと進むと突き当たりへ。


 ここを左折すると新道にぶつかり、右折すると市道という形で旧国道を走りながら道の駅に行くことが出来る。


 律はすでにナビの目的地として道の駅をインプットしていたので右折指示が出され、右折。


 そのまま進むと「伊根湾めぐり遊覧船」なる観光船の停泊所があったが、特に気にせずそのまま道沿いに進む。


 再び人家のある通りを抜けていく律。


 この時、律は気づいていなかった。


 この周辺が「伊根の舟屋」と呼ばれる京都の重要伝統建築物保存区域であり、かつ有名観光地であることを。


 遊覧船の停泊所を越えたあたりから次第に人や車が増えていき、走行ペースダウンしたことで律も何かを感じとった。


 そして次第に「この周囲には何かある」と考え始めるようになる。


 伊根の舟屋。

 釣りバカ日誌などで有名となった場所だが、漁村として栄えた江戸時代中期頃には現在の伊根の舟屋を構成する建造物が建てられており、


 一連の「舟屋郡」などと称されるこの場所は江戸時代の頃から現代までその姿を留めているものとされる。


 京都、特に丹波では有名な観光地であり、この舟屋は1階が船自体を仕舞いこむことが出来る作業場となっていて、住民は2階部分に居住して生活している。


 本来ならこのような田舎の場所に観光遊覧船などあるわけが無いことを理解している律は思考をめぐらし、


「(ここは何らかの観光地だが、海側に何かある、ないし湾岸側から見て何かある場所なのか……)」ということを推測した。


 その推測は当たっているわけだが、道沿いからその姿を拝むことは出来ないのだ。


 しばらくは直ぐ傍を人家とする道が続くと、開けた場所に出る。

 律は一時停止して海岸側に目を向けるが、木々によってよく見えない。


 小型船がやたら停泊させられており、その一部が人家のすぐ近くに停泊させられているということしかわからなかった。


 律は「むぅ」と息を吐きながらも、後ろから車が来たためそのままCRF1000を発進させる。


 道は一旦海岸線沿いに出るが再び人家が集中する場所へ。

 やはりこの場所もなぜか歩行者が多い。


 そしてその歩行者は明らかに地域住民ではなく旅行者のような身なり。

 殆どが高齢者だが、どうやら遊覧船の停泊所方面へと歩いて行く者が非常に多いことがわかった。


 古い民家に囲まれた場所を進むが、結論は出せない。


 稀に民家が途切れた場所から湾岸が見えるものの、通り抜ける状態では一連の人家がどうなっているのかよくわからなかった。


 1つわかるのは、周囲の人家はやたら古い建物であること。


 しかしそれ以外は何もわからず、その結果ミスを犯す。


 進んだ先にはY字の交差点があった。


 本来、そこはナビが道沿いを進むという形で信号を左折するかのように指示していたのだが、他の車につられて右に向かってしまった。


 律は急いでUターンしようと試みるものの、すぐ近くに謎の駐車場があることに気づいた。

 傍には展望台らしきもの。


 展望台にはそれなりに人がいて、湾岸沿いから何かを見ている。

 

 だが、見ている方角が明らかに地平線ではなかったのが目に入る。


 その駐車場はやや開けた状態となっていた。

 すかさず律はその駐車場に入る。


 一方通行ではないので、Uターンなどは楽であり、先程の疑問が解消されることを願いつつも入った駐車場にて、その場所が観光地であることを知ることになった。


 伊根の舟屋に到着したのであった。


 律はとりあえず何ももたずに展望台近くにある説明板へと向かい、そこで全てを理解すると、すぐさまCRF1000Lに備え付けたバッグからカメラを取り出し、再び展望台に戻る。


 遊覧船のもう1つの停泊場所となっていたこの場所こそ、伊根の舟屋を一望できる展望ゾーンだったのである。


 先程まで通った人家の殆どは「舟屋」と呼ばれる建築物で、ここが保存地域であることを知ると、律はカメラでその姿を撮影した。


 遊覧船に乗るつもりはなかったが、この展望台の範囲から見渡せるだけの光景をレンズに収めつつも、スマホなどで伊根の舟屋について調べ、伊根町の歴史や成り立ちなどについても理解する。


 停車して気づいたのは、すぐ近くの道の駅まで歩いて向かう事が出来る事であった。


 ナビどおりに向かうと回り道になるが、道の駅から階段で下って行くことでこの場所に10分程度で訪れることが出来る。


 舟屋周辺の駐車場スペースが小さいため、実質的な第二の駐車場として道の駅が機能しているのだ。


 しばらく舟屋の展望台で過ごした律は「どうせなら」ということで、歩いて道の駅まで向かうことにし、CRF1000を一旦駐車させたまま、移動を開始。


 しばらく進むと船着場のような場所があり、人が入っていけるようなスペースがあった。

 特に立ち入り禁止の看板などなく、船の姿もない。


 観光客が船着場から見える舟屋を記念撮影している姿を見て、律も真似して記念撮影する。


 そのまま道なりに10分か15分ほど歩くと道の駅まで行く事ができる階段の近くへ到着。

 驚くことに、その地点から対岸を見るとそこにも舟屋が広がっていた。


 そう、実は捕鯨がすでに行われていない亀島には現在でも漁業が続けられているため、周辺には舟屋が広がっているのである。


 律が通りがかりに、最初は「島」と認識し、次に「半島」と認識した亀島付近まで来ていることに本人は気づいていなかった。


 律は「望遠レンズがあればなぁ」などとボヤきながらも遠くにある対岸の舟屋を撮影。

 別方向から先程まで通った道沿いの舟屋も撮影する。


 ある程度写真が撮影できたことで満足した律は、道の駅へと向かって行った。


 道の駅「舟屋の里伊根」に到着すると、建築物が舟屋を象ったものであったので「地元愛に溢れる道の駅のお手本みたいな場所だなー」などと考えつつも、トイレ休憩を済ませた。


 トイレから出ると海岸側に展望台があることを知り、律はそちらへと向かう。


 高台となっている道の駅からは、伊根湾を一望できると共に舟屋を見下ろす形で見ることが出来、律はすぐさま写真撮影を開始。


 午後の漁を終えて戻ってきた漁船などをレンズに収めつつ、その眺望を楽しんだ。


 展望台などを眺めて一息入れた後はおみやげ屋へと入るが、海産物中心のおみやげ屋はツーリング中の律にとっては購入するものに乏しく、特に何も買わずに外へと出たのだった。


 道の駅で小休止した後は再び徒歩にてバイクの下へと戻り、本来ならば来た道を引き返して国道178号線を進むべきところ、舟屋をもう少し見たい衝動にかられて、そのまま道沿いへと進む。


 先程の道の駅までの階段の場所までバイクで向かい、その先へ。

 その先には船着場などがあり、地元民しか来ないような場所であったが、さらにその先へと向かう。


 民家の間を進んだ先には、亀島方面へと向かう県道622号線が目の前に現れたが、律は左折してコの字型で道が続く県道622号線へと入る。


 道の先が途切れていたためであった。


 そのまま先へと進むとトンネルが見えたが、トンネルに入ると何も見えなくなるため、律は近くを通る道路が途切れていないことをナビで確認すると、狭い小道へと右折して進入したのだった。


 そこは農道のような道で、周囲には畑が点在していた。

 しばらく木々に囲まれた状態で坂道を登っていくと日本海が見えたが、舟屋はもう見えなくなってしまっていた。


 そのまま進むとY字の交差点へ。

 しかし律は道なりに進む事を選択。


 一時は178号線方面へと舵を切る。


 だが、ナビを見て178号線の形状を見ると、明らかに新道バイパス区間であり、走っていても面白そうではない道であった。


 すると律はその先のT字路にて右折。

「なにやら雰囲気のある」田舎道へとCRF1000を進めさせた。


 ナビを見る限り、その先まで進む事ができそうなので、律は「もしかして、こういう道を進んだ先に何かがあるんじゃないかな」――などと考えたのである。


 これが後に律が「とりあえず行けそうな街道に繋がる道は一度通ってみる」という方針を生み出すキッカケとなる道との出会いであった。


 しばらく田園地帯を走り、集落と思わし場所を抜け、ヘアピンカーブを2つほど通り過ぎながら坂道を登っていくと、道は狭くなり、整備状況も悪くなる。


 だが、長い上り坂を登って下り坂へと差し掛かったあたりで突然開けた場所が現れた。

 崖が見え、その先には日本海。


 その道を中心として広がる風景はある種「道路」としての絶景であり、一時停止させた律はバイクに跨ったままデジカメを取り出してその状況を撮影する。


 己の予感が当たっていた事に喜びをかみ締めつつも「国道だけが風景を提供するわけではない」という事に気づいた律。


 もしかするとこれまでに「国道を通り過ぎたことでその機会を失った風景があるのではないか」と思うと武者震いした。


 そのため、今後は「わき道に入る」というのも積極的に行おうと決意し、バイクを再び走らせる。


 その場所はガードレールすら全くない崖のある山道の下り坂の名も無き道路に過ぎない。

 だが、これまで見たこと無い開けた風景を道路から提供し、走っているだけで楽しめるものだった。


 しばらく走っては一時停止を繰り返し、そこからの風景を撮影する律。


 急がば回れとはいうが、こんなに景色に富む場所はそう多くないと思っていたので、賭けに勝った喜びにそれまでの疲労感が一時的に吹き飛んでいくほどだった。


 そのまま下り坂を下ると日本海側では珍しい棚田を見かける。


 律は棚田の姿などもレンズに納めて新井へと入っていった。

 新井の集落を抜けると再びまるで絵に描いたような美しい棚田の風景が目に入り、バイクを停車させてその姿を撮影する。


 田園風景ならよく見るが、棚田というのは律にとって珍しいもので、とくに海岸線沿いに広がる棚田は珍しく、好奇心に駆られてなんどもシャッターを切った。


 実はひそかに観光地と知られる隠れた名所、「新井の棚田」に到着していたのである。

 律はその棚田の風景に満足すると再び出発。


 内陸側なのに海が見える開けた場所を、ガードレールすらない状況の中で進んで北上。


 数分ほどで山間部を走ることになり、山間部を進み、次の集落へ。

 泊と呼ばれる地域を通過すると、そのまま道なりに進んだが、今度は失敗であった。


 野室までの道はガードレールできちんと整備された道路であり、特に風景も優れたものではない。


 泊から178号線へ向かう事ができるのだが、そうすればよかったと律は後悔する。


 野室から先も狭い田舎道であり、そのまま本庄浜へと到着した。


 本庄浜。

 浦島太郎が竜宮城へと旅立ち、そして戻ってきたとされる場所。


 つまり、亀が虐められていた場所であり、浦島太郎が爺になった場所である。

 この場所で彼が釣りをしていたことが物語の始まりとされるのだ。


 付近にある宇嶋神社は古来より玉手箱と竜宮城の話が言い伝えとして伝わってきた場所であり、つまりは、この場所が浦島太郎のおとぎ話の発祥の地であると言えなくも無い。


 つき当たりに差し掛かったので、律は左折して筒川の上流を目指すような形で西へと向かう。


 田園地帯を抜け、筒川の流れに逆らって併走する形で道を進み、その先の集落には「浦嶋館」となる存在があったのを目にしたが、


 喉が渇いていたので、水分補給がてら、この一帯の雰囲気にしてはやたら広すぎる駐車場に入ってバイクを停車させ、近くの「浦嶋館」なるおみやげ屋に入る。


 そしてその場所にてここが「浦島太郎伝説発祥の地」であり、すぐ近くに通り過ぎた海岸から浦嶋太郎が竜宮城に旅立ったことを知った。


 もし国道178号をそのまま進んでいたら、全く気づくことも無かっただろうことは間違いなく、(看板は存在するが)


 律はさらにこの建物自体が玉手箱を模したものだと知り、浦嶋太郎にそもそも「発祥地」などあったことを知らなかったので驚きを隠せないでいたが、


 特に浦嶋館が特別な観光地ではなかったので、一連の話を頭に深く刻み込んでそのまま浦嶋館を後にしたのだった。


 その後は国道178号線を右折して再び北上。


 山へと向かい、トンネルを抜け、浦入へ。

 ここから急に道が狭くなり、まるで旧道のような状況となった。


 整備されていない国道区間に入ったのである。

 しばらく進むと再び二車線となり、律は安心する。


 浦入の集落を越えると再び海岸が右手に広がる国道を進むことになった。


 ここからはクネクネとやたらカーブが続き、トンネルなどは無いものの、道自体は二車線で道幅もきちんとしており走りづらいということは無い。


 しかし経ヶ岬付近へと向かう道路近くのヘアピンカーブから道が再び狭くなる。


「こんな所で力尽きるんじゃなーい!」


 それは、どこへ向けての言葉かは不明だったが、律はその道幅の狭さに国道178号線に対してそう言いたくなってしまった。


 明らかに予算が尽きたような感じで道幅が狭いのである。

 しばらく進むと二車線が再び復活するので、まさに「力尽きた」と言えるような区間であった。


 経ヶ岬方面へと向かう道路がある交差点を過ぎると、下り坂となり、再び景色はよくなる。

 律は「日本海は下り坂とよく似合う」と思いながらも、今度は停止することなく進んだ。


 下り坂を進むと集落が見える。

 柚志である。


 実はここにも棚田があるのだが、国道沿いからは人家がある影響でよく見えない。


 柚志の棚田も、棚田の絶景を一望できる場所へと向かう道があるのだが、律はそれに気づかぬまま集落へと入っていったのだった。


 柚志。

 この場所は漁村ではあるが、男は基本農業を営んでいる関係で「女性が魚を採る」地域である。


 つまり「海女」がいる地域。


 近畿地方かつ日本海側では唯一といっていい場所であり、男は畑を耕し、女はハマグリなどを収穫して古来より生計を立てた。


 その生活様式は関西では非常に珍しく、江戸の頃より「東北でそのような姿は見るが、どうしてここの者らはそのような生活をするに至ったか」と、訪れた者たちが疑問をもつほどである。


 何しろ、ここから西へ向かっても東へ向かっても数100km単位でそのような生活様式をもつ集落はないので、どうしてこの場所に海女という存在がいるのか全くわからないのだ。


 通常、この手の生活様式は何らかの方法で伝わってくるのである。

 だから、たとえば漁業でもその漁に使う船の形状は山などによって陸地が隔絶されてしまう地域間では全く形状が変わってくるし、


 稲作の方法なども渡来された際の手法が異なることで方式が違ったりする。

 近代においては現代も続く電力の周波数の違いが現れるなど、最初に伝わった方法によってある程度スタイルは決まるが、


 それを決定付ける何かががこの地域にはまるでないのだ。


 何しろこの近隣においてはこの村だけ海女という存在があって、周辺にはそれが無い。

 海女が盛んに分布する地域とはあまりにも離れすぎている。


 歴史学者は「稲作だけでは満足に生活できなかったが、広々とした土地に作られた棚田がある影響で男は畑の管理で手一杯であったところ、この周囲は漁場としては優れていたので必然的に女子供が漁に向かうことになって定着したのではないか」と見ているが、推測の域を出ない。


 少なくとも不思議がられながらも江戸時代の頃には「海女の村」として周辺に伝わり、現代においても海女として働く者達がいるということだけは事実である。


 律は砂浜が白く、海がとても透き通っていることに感動しながら、砂浜にて働く海女の姿を目撃する。


 しかし「海女」というのがこの周辺では、いや、北近畿では非常に珍しいことを知らなかったので「まぁ、海も綺麗だし、海女さんもいるんだろうな……」程度に考え、そのまま柚志を過ぎ去って行った。


 再び内陸を進むことになる国道178号線。

 左右を畑に挟まれながらも律はややオレンジに色づいてきた空を見上げながら走行ペースを維持する。


 田園広がる尾和を抜け、中浜へ。


「(うん? 中浜って、この辺りだと結構人が多い感じがするな)」


 旧中浜村。

 ここでは地引網漁が成功し、中世以降それなりに発展した場所。


 地引網漁と平行して農耕も盛んに行われ、人口は周辺の漁村と比較すると多い方である。

 付近には農村の宇川村と宇川温泉などがあり、丹後市中心部ほどではないが、この周囲はそれなりに人が多い地域である。


 それらを証明するように妙に場違いなマンションなどが周囲に見られ、律も人が多いという実感がするほどだった。


 中浜を抜けると宇川へと入っていく。


 この辺りは、やや道幅の狭い二車線道路となっており、左右に人家が軒を連ねる。


 ガソリンスタンドを抜けた先には公営団地などがあり、この周辺はそれなりに人が多いことを容易に想起させてくれる。


 団地を抜けると集落がある。

 平と呼ばれる場所だ。


 この場所、実は丹後半島近辺では日本の縄文文化を探るにあたって非常に歴史的意義がある場所だったりする。


 理由は「極めて長い間、縄文人がこの場所に住み続けた」遺跡があること。


 これまで日本に定住している縄文人というのは「ある程度の期間で他の場所に移り住んで行く」という傾向があった。


 それも当然で、環境変化が起こればより良い場所に移動するのは動物だってそうであるように人も移動をするのだ。


 だから「基本的には1つの場所から同じ時代の遺跡や土器などの遺物は出土しない」というのが半ば常識化していた。


 大きく移動せずとも多少なりとも移動をするのである。


 だがこの平で見つかった遺跡は「3000年間その場所に留まり続けた」という、非常に長期にわたってその場所に根を下ろした縄文人のものであり、


 その地層ごとに出土する土器は、時代に合わせて形を変えながら発展していく一方、一連の遺跡群は全く移動せず、この縄文人の集落は3000年間この場所にて生活し続けた後、そのまま弥生時代、そしてその後の時代へと移り変わって行ったことがわかっている。


 稲作は弥生時代以降、縄文文化のあった遺跡よりやや北側の陸地で行われて現代まで続くわけだが、この一連の稲作が行われる田畑からも「掘ると何らかの石器や土器などが見つかる」など、周囲にはかなり多くの人がいたことがわかっており、そればかりか上記遺跡の近くには古墳時代の様式による建造物跡すらあるのだ。


 ちなみに歴史的にこの地域が書物などに名を連ねるのは平安時代以降。


 だが、その遺跡群などの一連の調査から「恐らくこの地に長年住み続けている者は縄文時代から(外部から血を取り入れているとしても)この地に定住し続ける者である」と考えられ、


 今日においても古くから他へ移り住むことなく、この平の地で暮らす者たちが少なからずいることがわかっている。


 旧平村自体はそこまで規模の大きい集落ではなかったものの、周囲では「古よりこの場所には人が住んでいた」と言い伝えられており、それが歴史調査を行う発端でもあるので、3000年どころか現代までの5000年間をこの地にて過ごしている者がいるかもしれない。


 そんな平を抜け、海岸線沿いを進むと此代へ。


 道なりに進むと「丹波松島展望所」という場所があり、駐車場があったので律はその駐車場に立ち寄ることにした。


 丹波松島展望所。

 その風景が日本三景の「松島」に似ているということから「丹波松島」と名づけられた。


 展望台は階段を上った先の、住宅でいう二階部分のような場所にあり、そこから東側を向くような形で丹後半島を見ると松島のように見えるのだという。


 律はその状態がそれなりに整った景色であったために写真を撮るが松島自体を見たことがないので「確かに綺麗だけど、日本三景と似ていると言われても比較できないな……」と思ってしまうのだった。


 少々休憩した後に律は再び出発する。


 展望所の先はトンネルとなっており、しばしの間、日本海の風景とはおさらばとなった。


 トンネルを抜けた後も内陸側を走るので日本海はそれほど見えず、屏風岩展望所のあたりで再び海岸が見えるようになる。


 律は屏風岩展望所にて再び停車し、名勝地の1つとされる屏風岩を撮影。

 自身は特に岩に興味はなかったが、景色に優れていたので一時停車してまで写真撮影を行ったのだった。


 すばやく写真撮影を済ませると再び発進。


 筆石の集落を抜け、その先へと進む。


 目的地である「はしうど荘」はもうすぐである。

 竹野の集落へと律は入っていった。


 竹野。

 弥生時代より人が住まう地である。


 本日の目的地「はしうど荘」はこの竹野にあり、近辺には道の駅「てんきてんき丹後」というものがある。


 この場所で特筆すべきは、シーズン以外は1500円で電源サイトが利用できる「てんきてんき丹後オートキャンプ場」である。


 恐らく本来のツーリングライダーならば「この周辺で宿泊する」というなら間違いなくこの「てんきてんき丹後オートキャンプ場」を利用し、その上で「はしうど荘」などは「風呂のために利用するのみ」に留まるのが普通であるが、


 律は今回テントを持ち込まなかったがために「はしうど荘」を目指すことになったのだった。


 周囲を古墳で囲まれる竹野周辺の国道178号線を進んだ律は、オートキャンプ場の横を通り過ぎ、道の駅へと辿り着く。


 時刻は17時13分。

 すでに日本海は夕日に染まる状態にあった。


 空腹を感じた律は、まず先に道の駅へと向かうと、フードコートにてやや早めの夕食を済ませ、その後にはしうど荘へと向かった。


 目的地であるはしうど荘は橋を渡った先にあり、178号線が交差点にてカーブを描いて南下するところ、そのまま直進した先にある。


 到着した律はCRF1000から全ての荷物を降ろし、バイクカバーをかけた後でチェックインへと向かった。


 チェックインを済ませると部屋を案内される。

 向かった先にて律の目に入ってきたのは「シングルの洋室」であった。


 オーナーが、律が若いことから気を利かせたのであった。


 和室にシングル部屋が無いという理由もあったようであるが、あまり和室での寝付きがよくない律にとっては和室しかないと思っていたので予想外の幸運である。


 部屋自体は「格安ビジネスホテル」といった感じで、ベッドを中心にやや狭い部屋取りであったが、トイレなどはきちんと備え付けられていた。


 部屋を案内された際「この時間帯からの露天風呂からの景色は絶景です。よかったらどうぞ」と言われたため、律は大急ぎで仕度して共同浴場へ。


 こちらでは源泉かけ流しの浴場があったが、律は体などをきちんと洗った後で露天風呂へと向かう。


 露天風呂は夕闇に海が染まり、風呂全体もライトアップされて神秘的な光景であった。


 その光景を見るだけでも疲れが癒えていくような感じがするほどであり、上田が勧めた「はしうど荘」はある意味で当たりであったと言える。


 ゆっくりと風呂に浸かってすごした後は、そのまま部屋に戻って歯を磨いたあとは特に何もすることなく、そのまま就寝した律なのであった――

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