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ツーリングドランカー! ―現代二輪ライダーの備忘録―  作者: 御代出 実葉
第二章:明日行きたい所にバイクで行く
144/149

敦賀湾春景色 彦根→福井県(敦賀市)

 翌日。


 再び彦根城を横切って北上する1台のCRF1000の姿があった。


 そのCRF1000Lはロスマンズカラーを纏い、いざ山陰へと意気込みを見せるかのように琵琶湖の湖畔を北上していく。


 それは間違いなく彦根市にて一泊していた音羽律の乗るアフリカツインの姿。


 彦根城を過ぎて県道517号線を右折し、県道2号線を朝早くから疾走するリッター級ツアラーの姿がそこにあった。


 本日最初の目的地は敦賀。

 理由は「ガソリン補給」である。


 さて、山陰地方を西へと向かう場合についてだが、普通に考えれば国道303号線を通って小浜市から舞鶴へと入っていくのが得策に思える。


 ただ、このルート最大の問題はガソリンスタンドに恵まれない過疎地ばかりを通ること。


 国道303号線沿いは湖北バイパスから熊川宿を通して殆どガソリンスタンドがなく、そのまま小浜市へと入っていくことになる。


 そのため、ライダーは案外このルートを選択することが少ない。


 俗に言う「敦賀→舞鶴ルート」がツーリングにおいて鉄板とされているのは、移動時の各種補給が容易な点からである。


 ようは北陸本線と共に北上し、小浜線にて西進するというルートだ。


 敦賀自体が発展した街であるのは、けっして原発があるだけでなく、なんといってもロシアやアジア周辺諸国などの交易が盛んな国際貿易港であることによる。


 年間1500万トンにも及ぶ貨物量は国内でも屈指の量であり、ここから関西地方などにコンテナ貨物などが運ばれていくわけだ。


 つまりそういった「大動脈の拠点の1つ」である敦賀は、小浜市と異なりガソリンスタンドなど、自動車旅行に欠かせない各種施設に恵まれた場所であり、


 北海道へ向かうフェリーなどもあることから、関西のライダーにとっては非常に重要な拠点の1つである。(四国や中部、中国地方のライダーにとっても北海道ツーリングに向かうなら基本は敦賀に向かうことになる)


 当然、多くのライダーが集うのでツーリングライダー向けの宿泊プランを用意するホテルなどが存在したりしてとても便利な地である。


 律は事前に上田から「西に行くなら敦賀を経由した方が何かあっても困らない」と聞かされていたが、現在の最大の懸案事項はガソリンであった。


 律のCRF1000は、美濃加茂内で光が気を利かせて満タンにした状態で引き渡したきりガソリン補給が滞っていたのだが、


 この状態で303号線から小浜市を目指すと、舞鶴より先のどこかでガソリン補給することになり、とても不安がある。


 ならば多少迂回する形になるが敦賀経由の方が何かと困らないことは、昨日のネットカフェ内にて調べていた律も気づいていた。


 なので、県道2号線の湖畔沿いの景色に優れた道路を進み、県道311号線を進んだ県道44号線を通った後、律は迷わず国道8号線をそのまま突き進んで北上した。


 国道8号線。

 律が左折した木之本周辺から敦賀まで続くルートは、別名「塩津街道」と呼ばれる。


 近くには賤ヶ岳古戦場と呼ばれる、秀吉と柴田勝家の権力争いが行われた地がすぐ側にあり、


 古来より貿易が非常に盛んだった地域だが、実はこの場所は日本史においても語られる、とても有名な女性が歩いた街道でもある。


 紫式部。

 源氏物語にて日本史でも語られる女性作家である。

 時は西暦996年。


 越前(現在の越前市)の国司となった父と共に、紫式部は大津の地より船で北上し、塩津と呼ばれるこの地にて一旦船を降りた。


 今ではすでに廃れているが、実は、かつてこの塩津の地には室町時代から江戸時代にて栄えた塩津港とは別に「古代塩津港」と呼ばれるもう1つの存在があったと言われ、紫式部はそこで船を降りたとされる。


 この時、彼女はホームシックのようなものを感じ、それをを歌として残しているのだが、それ以外にも極めて興味深い話を残しているのだ。


「塩津に神社があった」という話である。


 実はこの神社、その存在が発見されたのは国道8号線のバイパス工事を行う際、滋賀県と国土交通省が共同で2006年から行った一帯の歴史調査がなされてから。


 当時発見されて周辺地域にて大ニュースとなった。


 彼女がその神社に訪れたかどうかは不明だったが、船上からその姿が見えるといった話を残していたことが事実だったのである。


 その後、周辺には平安時代後期まで使われたとされる古代塩津港の遺跡が発見されたわけだが、この神社からは神像など多種多様な貴重な歴史資料が発掘され、当時から塩津の地が非常に栄えていたことが判明した。


 それまで、平安時代の頃の塩津というのは紫式部らを含めた一部の人間が語るにとどまり、実態として塩津が発展したのは塩津街道が整備され、敦賀が最盛期を迎えた鎌倉時代以降と思われていた。


 当時、菅浦、大浦、塩津の3箇所の港を中心に3つの街道が整備されていたわけだが、塩津は「その1つに過ぎない」と思われ、紫式部ら平安時代の著名人による話は「後年肉付けされたものでは?」と、21世紀に入るまで考えられていたのである。


 だが実際には、それら3つに先駆けて塩津が最も先に発展し、彼女の話はありのままの事実であって、特に脚色されずにそのまま後世にまで伝わったことが確定的となる。


 さらに重要なのが、この遺跡群の調査により、かつて琵琶湖には大地震による津波が発生したことが事実であったことも裏づけられたことと、それによって古代塩津港が崩壊したことが判明したのだ。


 1185年のことである。

 吾妻鏡や方丈記などといった古代の文書などから、京都を中心に被災した大地震が存在したことはこれまで知られていた。


 その後の地質学の研究にて、この地震はマグニチュード7級の凄まじい大震災であったことがわかっており、震源地は何と琵琶湖に存在する活断層による影響だったことが判明。


 各種文献においては、その際に「琵琶湖で津波が発生した」と語られているのだが、

 それを証明するような形跡は周辺地域にはそれまで見つかっていなかったのである。


 というのも、現在の琵琶湖は当時よりも水位が上昇しており、高さにして1.5m分ほど陸地を浸食したのだが、以降波などによる侵食が津波の影響を覆い隠してしまっていた。


 だが、この一連の古代塩津港と神社が発見され、さらに「埋まっていた構造物から津波によって倒壊した形跡」が明らかに見られることから、津波発生が事実であったことが判明したのである。


 しかしながら、この一連の発見は2011年4月に見つかったため、当時大々的な発表はなかった。

 地元新聞ですらこの発見を報道することなく伏せられ、地質研究会などによる発表に留まるのみ。


 3.11からわずか1月での未来に警笛を鳴らす発見。


 混乱していた日本国内において「琵琶湖に活断層があり、M7級の地震によって発生した津波で当時の塩津周辺が崩壊した」などという話が出れば、


 どうでもいい市民団体などが「不謹慎」や「風評被害」などと騒いで碌なことにならないことは見えていた。


 重要なのは「琵琶湖ですら津波が起こりうる」ことであり、さすがにその件については敦賀原発再稼動問題の動きを見計らった翌年に、再び大々的に発表される。


 あえてその手の声を利用した状況で発表すれば、そういった声は出てこないと考えた国交省の役人の知恵による、経産省の胃が痛くなるような形での発表となったのだった。


 ようは、古代塩津港は平安時代後期の1185年にM7級の地震が発生した後の津波によって周辺地域ごと被災し、鎌倉時代に至って街道ごと再整備されて現在に至るということだ。


 日本が「古来より地震大国であり、その度に何度も復活していった」ことを表す重大な発見になったのだった。


 さて、8号線に入った律は、片側1車線の「少し古い時代の昭和の国道」といった趣がある場所を通過していく。


 敦賀へ向かう車の量は多く、その殆どがトラック。


 朝方敦賀へ向かうトラックの中には、北海道などへ向かうトラックなどもあり、すぐ前を走る13m級の大型トラックが2020年度から導入された苫小牧ナンバーだったため、


 律は「あんなのあったかな?」と苫小牧自体は知るものの、室蘭ではなく「苫小牧」と書かれているのを不思議に思った。


 しばらく湖畔沿いを進む8号線は藤ヶ崎トンネルに入る。


 トンネルを抜けると、左右を山や丘に挟まれた平野を縫うようにして進む道路に入った。


 ところで、この近辺には塩津神社と呼ばれる神社があるのだが、古代塩津港近くにあった神社とは無関係とされる。


 この塩津神社自体は近くにある池から大鹿村と同様、塩水が湧き出るので塩を作っていたとされるのだが、では「塩津」という地名が、この神社もとい塩が取れる池から名づけられたのかというと違う。


 平安時代初期の頃からこの周囲には「塩津」という地名が名づけられていた。


 その理由は「近江は塩と無縁な地域ながら、この地域には北陸から塩が入ってくるから」とされており、長野県の塩尻と似たような由来によるもの。


 この塩が取れる池というのは、どうやら塩津と呼ばれはじめた後から発見された場所のようなのである。


 そこを発見して塩を作っていた者をあやかって祀ったのがこの神社の始まりとされるが、


 残念ながら前述する1185年の大地震によって池は埋没し、以降塩がこちらで取れることはなくなった。


 そんな塩津神社付近を通過すると、8号線は琵琶湖の北端を通過。

 調査ではこの辺りに古代塩津港があったとされる。


 以降、琵琶湖は見ることがなくなる。

 ナビにてその状況を確認できた律も、名残惜しい気持ちを残して琵琶湖を後にした。


 そのまま8号線を北上。


 住宅街を抜けると道の駅が見えてきたので、休憩がてら道の駅に入った。

 道の駅「塩津海道あぢかまの里」である。


 時刻は9時12分。


 朝食を食べていない律は、何か腹に収めるものはないかとバイクを駐車させた後に周囲を散策しはじめた。


 すると「丸子船」という謎の船を見つける。


 丸子船。

 琵琶湖の海運に欠かせなかった「琵琶湖に特化した」商船である。


 北前船と並んで北陸の交易において非常に活躍した船で、かつては北海道から敦賀、敦賀から街道を馬車などが通り、


 そこから丸子船にて琵琶湖を通って、大津、大津から大阪まで再び馬車と、北前船と丸子船を用いて陸運と海運を併用した交易があったのである。(馬車のない時代は牛車や馬、牛へ荷物を積載して運んだ)


 その中で丸子船は北陸から運ばれた海産物などを大津方面に運ぶ仕事と、大阪などで作られた工芸品などを塩津などに運び込むことが主な仕事だった。


 帆船であるが、その構造は非常に特殊。

 帆が船体中央よりかなり後部の部分に設置されている。


 船頭は後部に設けられた就寝スペースにて船上で寝泊りし、生活の殆どを湖上で過ごした。


 丸子の由来は丸太を半分に割った「おも木」と呼ばれる船体左右に付けられた構造部材に由来するとされ、貨物は帆より前にあたる部分に積載した。


 船としての最大の特徴は前述した「おも木」とされる部分と、底面が均一な平らであること。

 この理由は琵琶湖には浅瀬が多いのと、従来の構造だと浮力が足りないため。


 おも木。

 和製の木造船には従来より一部の船にて存在する部位である。


 和船研究者曰く「構造船」と呼ばれる室町時代以降に登場する和船に至る、丸木船と構造船の中間的な「準構造船」と言うべき存在に採用されたもの。


 ただ、通常「おも木」とは、このような丸太をそのまま側面部に貼り付けたものではない。


 基本的には、船底部分の側面に装着するL字型に木材を切り抜いた部位であり、主にこの構造を持つ「オモキ造り」と呼ばれる和船は、北陸と関西、三陸地方にて盛んに用いられた。


 丸木船からオモキ造りへと進化した過程としては、東北地方や関東地方では木材を「前後に」接続して大型の船が作られていった一方、


 北陸、関西地方においては「2つの丸太をくり貫いて左右につなげる」製法が編み出され、

 

 それまで、L字にくり抜いて作った丸太を左右に2つ繋げて作っていた船を「さらに大型化しようと」試みた結果、


 上記2つの丸太の間に「船底」と「側板」を装着したらさらに大型化できるんじゃね?――などと、誰が考案したかは定かではないが、そんなことを思いついた者がいて生まれたもの。


 関東や東北においては「巨大な杉」などが多数あって前後に接続すれば満足な大型木造船が作れた一方、北陸や関西においては「巨大な杉」が存在しなかったので、前後に接続する構造には出来ず、


 長さはそれなりにあったので「左右に繋げてどうにかならないかな?」と考えて2つの丸太を使った丸木船から進化したと思われている。


 これらは遺跡などから発掘された弥生時代の木造船などから、「その構造の進化」を辿ることが出来、北陸・関西地方ではこの「オモキ造り」が発展していった。


 後に丸子船を除けば、この「オモキ造り」と呼ばれる構造は造船技術がさらに進化することでその殆どは廃れて行くのであるが、


 側面部にL字状態に装着された「おも木」は富山湾にて別の進化を辿り、まるで航空機の翼のような形状でもって底板の左右に装着されるようになって、明治時代の頃まで残り続けたりしている。


 しかし丸子船はそういった「構造」とはまるで異なる位置に、しかも形状も意味不明な状態で「おも木」が装着されている。


 船体を輪切りに切断した断面図とも言える状況で船の構造を見た場合、おも木のある部分はホバークラフトの断面図に近い形状で、


 船体自体はホバークラフトの断面図の状態に、さらに同じような形状を小型化した上でひっくり返して2つを重ね合わせて船底として装着したかのような構造となっているのだ。


 これによって船内は「二段の鏡餅を逆さにしたような」状態になり、「渡し舟」として琵琶湖を横断・縦断する際にはここを「座席」として用いた。


 この構造の船は近年の発見によって琵琶湖では「平安時代後期」には登場したことがわかっているが、鎌倉時代にはすでに交易船などとして活躍していたことがわかっている。


 丸子船はいわばオモキ造りとしては「最古」に分類される船ではないかとされるが、だとしても漁船などとして使われた他の和船と比較すると独自すぎる構造だった。


 この構造を筆者が見る限り、丸子船のおも木は主に「復元力」を増加させるために配置しているような気がする。


 一部ではバイクのツインチューブフレームと同じ考え方ではないかという話もあったが、そんな構造にはなってない。


 船首はまた別の構造である丸子船のおも木は、あくまで船体側面部に装着されたもの。


 浮力を稼ぐという構造ではないかとも言われるが、どちらかと言うと船底が平らすぎることから揺れに弱く、それに対する復元力を稼ぎたかったように思う。


 そんな丸子船がいつまで使われたかというと、何と驚くことに21世紀まで使われた

 最後の船頭は山岡佐々男氏。


 1990年代後半。

 NHKがドキュメンタリー番組を制作してまでその最後の船旅までを追った方である。


 この時、彼が使っていた船は「金龍丸」と言われるが、この金龍丸、何と大正時代に建造されたものだという。


 山岡佐々男氏が購入し、琵琶湖にて最後に運用された丸子船の生き残り。

 総トン数12トン、積載貨物量15トンの俗に言う江戸時代の「百石積み」と呼ばれるタイプ。


 主機関は昭和の時代にディーゼルに変更されたが、元々は焼玉エンジン。

 これらは全て戦前に建造され、戦後も運用されていた丸子船の生き残りで、丸子船の新造は戦前の時点で終了。


 以降は帆船タイプも金龍丸のような「汽船」や「ディーゼル船」も全て修繕で運用され続けた。


「嘘だろ!? 木造船がそんなに保つのか?」と思うかもしれないが、


 実は木造船というのは航空機と同じような考え方で「板」などを張り替えていけばいいので、耐用年数自体はいくらでも伸ばせる。


 モノコックのために限界がある航空機と比較すると寿命は割と長い方だ。


 大航海時代の帆船の寿命が当時をして半世紀ぐらい平気であったのを考えれば、木造船が案外長寿命なのがわかるだろう。


 無論「パーツ単位」で見れば寿命は短いが、修繕を重ねて使い続けるものだ。


 北朝鮮や中国が「戦前に竣工、進水された」大型木造漁船を未だに使っていることを考えても、そんなに驚くに値しない。


 そんな金龍丸。

 写真で見ると帆が付いているが、これはただの飾りのようなもの。


 最後の船頭である山岡氏が後年、祭り行事に使うようになって当時の丸子船を再現するためにと装着された。


 そんな山岡氏の引退時の年齢は84。(2001年時点)

 御年84歳まで現役で丸子船を用いて交易を行っていたというのだから恐ろしいもの。


 晩年は竹炭や練炭などの炭を主に運んでいたとされるが、昭和40年代~60年代は石材なども運んでいた事があったのだという。


 さすがに寄る年波には勝てず、また運ぶ物も無くなってしまったので84歳にて引退となったが、金龍丸はその後さらに売却されて修繕、改造されて屋形船(丸子丸として再就役)となってしばらく運用された後に、2000年代後半まで運用されて解体された。


 大規模修理が行われての再就役であったのだが、船体はもはや限界に来ていたらしく長くは保たなかったのだった。


 丸子船は今より10年ほど前にその幕を閉じたのである。


 ――そして、道の駅に展示され、今現在律の目の前にあるのは、昭和30年代までいたとされる帆船型の丸子船の生き残り。


 いわば平安時代後期から生き残り続けた琵琶湖のかつての華だった存在。


 名を「勢湖丸」と言い、この船の建造自体は江戸時代後期である。

 金龍丸と比較するとやや積載量に劣るが、13トンほどの積載量を誇ったことが看板に書かれていた。 


 律はこの手の大型の木造和船を初めて目にしたのであるが、大変興味深い構造と大きさから、すぐさま丸子船について調べ始める。


 すると琵琶湖博物館に復元船と呼ばれる「正真正銘最後に新造された丸子船」と呼ばれるものが存在することを知った。


 この丸子船は大津を地元とした和船の船大工であり、現役最後の木造船大工とされる松井三四郎氏が新造したもの。


 最後に丸子船の修繕などに関わってからすでに半世紀が経過していた所、丸子船を後世に伝えたいということから、唯一存命で製造方法を知る彼に新造を依頼した。


 琵琶湖博物館の館長が「復元ではない。新造で、琵琶湖にも進水した」というように、この丸子船は完成と同時に造船所から琵琶湖内を曳航される形で琵琶湖博物館に運び込まれており、ニュースでも話題になったほどである。


 この時、三四郎氏は息子である三男氏に協力を仰ぎつつ新造を行った。


 丸子船どころか木造船にも殆ど関わることが出来なかった三男氏は、ここで始めて「丸子船」そして「大型木造船」の造船の経験を積むこととなり、


 さらに前述する金龍丸の大修理にて二隻目の丸子船を担当したことで、丸子船を含めた大型木造船を扱える技術を父より継承し、


 三四郎氏亡き後の現在でも三四郎氏が設立した松井造船所にて、国内には数少ない「木造和船」の造船を行っている。


 日本の場合、神事などで木造和船を現在でも使うことがあるが、丸子船を新造する前までは松井造船所では鉄船の建造と修繕などを主としていて、木造船については全くもって仕事がなかった。


 だが、その新造の話以降、京都や奈良などから「作って欲しい」と頼まれることによって経験を積んでいき、現在では木造船もそれなりに作るようになっている。(それでも年1隻~2隻程度)


 また、その新造などを当時傍らにて見守っていた三男氏の長男である2018年時点で37歳の光照氏によって技術がさらに継承され、親子三代に渡って木造の和船を作り続けており、その歴史はまだ続きそうだ。


 現在光照氏がもっぱら作る丸子船は各地の博物館やコレクターからの依頼に応える「大型模型」などに留まっているが、それらはちゃんと「浮く」ように出来ている。


 単なる模型ではなく、あくまでスケールダウンした「船」である。

 この模型はある種「大型船」の設計図的な意味合いがあり、ここから本物を作ることが出来るのだという。(かつての職人は設計図を残さない代わりにそのような形で残した)


 光照氏も三男氏も願うのは「琵琶湖に再び丸子船が戻る事」だが、今後に期待したいところである。


 律は「クラウドファンディングとか何とか……何かあればいいのに」と思いつつ、伝統芸能や伝統工芸の重要性を噛み締めながらも何も出来ない自分に、いささか空しくなりつつ、


「(記憶するだけでも違う。誰かにその話をすることで何かが変わるかもしれない)」と考え、その場所を後にした。

 

 そのまま周囲を再び散策すると「丸子焼き」なる謎の食べ物屋を発見した。

 一見するとただの「たこ焼き」なのだが、「たこは入っていない」のだという。


 腹が空いていた律は、匂いにつられて300円という安価なこともあり衝動買いしてしまった。

 パックにはたこ焼きとしては「割と大きい」サイズの丸子焼きが6つ入っている。


 外見は完全にたこ焼きである。

 ためしに1個食べてみると、たこの代わりに入っていたのは「餅」


 それも甘みのある餅であった。

 入っているのは福井名物「羽二重餅」である。


 羽二重餅とは粉餅に砂糖と水あめを練り合わせたもの。

 もち米も福井産のものを用いて、粉餅もやや独特な製法で作ったもののみが羽二重餅を名乗ることができる。


 ソースの辛さと餅の甘さが絶妙なハーモニーを奏でるそれは大変美味であり、さらに「腹が膨れるボリューム」であった。


 それだけでも腹八分目となるぐらいの量であったが、律は足りないと感じたのでさらに周囲を散策すると「ごパン」と書かれた小さなパン屋があった。


 律はそこでメロンパンを購入。


 割と普通のメロンパンであったが、それでもって満腹となり、しばらく休憩した後、歯を磨いた後に道の駅「塩津海道あぢかまの里」を後にしたのだった――

 

 ~~~~~~~~~~~~~


 道の駅を出た律は再び北上。

 しばらくの間は信号の多い区間を走行し、再び信号が少ない場所へと向かって行く。


 左側には湖西線が現れ、高架橋の下を潜る形で右側に移り、しばらくの間、鉄道との併走区間となる。


 さらに北上すると近江塩津駅の真横を通り過ぎる。

 ここで湖西線は北陸本線と合流。


 以降、東側から向かってきた北陸本線、湖西線と併走する形で北上する。


 律は、ここで道路の異変に気づいた。


 延々とセンターラインが黄色いのである。


 そう、実は琵琶湖を境に西へ向かうことになると、山陰地方を含めて田舎地域は殆どがこの状態だ。


 故によくあるのが、遅い車に30kmも40kmもついていかなくてはならなくなる事。

 明らかな過積載トラックはほぼ道の障害物と言ってもよく、


 8号線は全区間が50km~60kmの法定速度の中、時速30km前後しか出せないトラックやトレーラーなどに頭を悩ますことになる。


 現状の律の場合、前を走るトラックは敦賀から北海道へと向かうRO-RO船に乗るため「過積載」という状態が絶対に許されないので普通に速度と車間を守っていて頼もしい感じもするのだが、


 大阪あたりから敦賀港までを往復するだけのトラックの中には酷く速度が遅い者もいる。(多くの場合、積載重量が厳守される海運に用いるためハズレを引いたと言える)


 これらは度々トラブルの原因となっているが、彼らは殆どの場合譲らない。


 一応法的には「譲りは義務」とされているのだが、どうもこれらが周知されていない気がする。

 元来、法定速度を下回る自動車は後続車に追いつかれた場合「道を譲らなければならない」


 義務である。

 高速道路を除き、一般的な公道では法定速度以下での走行は確かに認められている。

 

 だが、どうも大半のドライバーは「譲る」という行為をしないことが「1点減点」+「反則金」の道交法違反であることを知らない。


 広域農道など「低速の作業用車両の追い越し、追い抜き禁止」といった、国交省管轄ではない道路を除き、道交法においてはトロリーバスなど一部車両を除けばこれが適用され、追いつかれた場合は「加速の禁止」「左側に寄る」などの努力義務が生じると共に「道を譲らなければならない」のだが、


 少なくともそれが不可能であっても「譲る行為」を「しなくてはならない」のだが、なぜかそこを勘違いして「低速で走行することが許される」と思っている人間が少数ながら存在する。


 道交法は「交通の円滑を図る」ために設けられたもの。

 渋滞を「誘引」する行為は禁止。


 法定速度以下で道を譲らないまま走行することは、爆音で周囲を威圧しながら道路を占拠して低速走行を行う暴走族と同じである。


 その場合、黄色いセンターラインにおいて二輪が取れる手段は3つ。

 登坂車線などが来て二車線になるのを待つか、無理してでも追い抜く(追い越しではない)か、交差点の信号停止中を見計らって追い抜く。


 これらはいずれも追い抜きに対しての話で追い越しの話ではない。


 追い抜きは基本的に横断歩道や自動車横断帯以外のケースで認められているので、交差点の信号停止中の追い抜きはルール上問題ない。


 交差点30m以内は車線変更、つまり「追い越し」がアウトなのである。


 ルールを見てもらえばわかる通り、横断歩道がある箇所で追い抜くというのは大抵のケースで「追い抜いた車両は歩行者の横断のために停止した」と考えられるので、追い抜きも禁止で当然。


 自動車横断帯も殆どの場合は横断歩道に付随しているものだが、ごく稀にサイクリングロードとの交差区間において、サイクリングロード側が自動車横断帯という形で整備されていることもある。


 これらにおいての追い抜きは、想像力を働かせれば「人身事故」となるリスクがあるため禁止されているわけだ。


 ちなみに、いずれも道交法の解釈では信号などが無い場合のみ。

 ようは、信号の無い横断歩道、自動車横断帯においての追い抜きが30m以内で禁止ということ。


 二輪は、その力をフルに発揮すればそれらで追い抜き可能であるということ。 


 最もバイクが多いのは最後の手段だろうと思われる。

 これは白バイの目の前でやっていても追い抜きなら停止線を越えない限りサイレンを鳴らされるということはない。


 ただし抜く場合は右側から。

 左側からの追い抜きは、右折車両が前方にある以外で認められていない。


 正直、交差点の信号で追い抜きしたいけど違反にならない状況でやりたいというなら、信号停止区間の交差点に、横断歩道だけでなく歩道がある場合は素直にエンジン切って歩道をバイクで押すのが無難。

 

 その際は歩道を活用して左側からも抜ける。


 それがダメなら迂回できそうな道を見つけて迂回して追い抜くのが無難と言えるのだが、迂回できるケースは限られるため、殆どの場合有効な手段とはならない。


 実はこれらは案外国会内などで問題視されていることで、最近は国道などを中心に待避所や登坂車線などを整備するケースが相次いでいる。


 酷道の二車線化において特に多い。


 それだけ問題視されている問題なのだが、北陸、山陰、三陸といった地域の道路は100km以上が黄色いセンターラインのままどうにも出来ないことが多く、


 多くのライダーはイエローカットしていくのが実情である。


 今回は「助かった」と思った律だが、反対車線を通るトラックの多さ、そして、前後を大型トラックに挟まれる状況から「場合によっては追い抜きも考えなければならない」と感じたのだった。


 そんなこんなで進むと、8号線は山側へと入っていく。

 併走していた北陸本線などからは一旦距離をとる形となった、


 しばらく進むと8号線の登坂車線区間に入ったため、律は前のトラックが気を利かせて登坂車線に入って減速した状況を見て加速。


 法定速度を守った状態で追い抜いた。


 その後は緩やかなカーブが続いた後、一時的に黄色いセンターラインから一般的な破線となり、反対車線からの追い越しが横行して律に緊張が走る。


 津軽までの8号線で数少ない追い越し可能区間であった。

 その区間を抜けると今度は下り坂。


 反対車線が二車線となり、片方が登坂車線となる。

 このあたりは景色が開けているというわけではないが、流して走っていてもとても爽快な気分になれる道路。


 春先の涼しい風は新たに購入したジャケットのベンチレーション部分を通して体中に流れ込んでくる。


 長い下り坂を下って行くと北陸自動車道が右側に見える。

 そして、次に見えてくるのが集落。


 (……こういう何も無いところって、一体…どうやって生計立ててるんだろうか? 塩津や敦賀で仕事してる人のベッドタウンみたいな感じなのかなー)


 こういった場所の大半はかつては村だった場所や宿場町であるのだが、現在はただの集落となってしまっている。


 律はこのような場所を通る度に「どうやって生計を立てている」のか気にしていたが、


 例えば母方の実家である茨城では「案外コンビニなどが近くにある」など、日本一魅力がないと言われながらも生活環境が悪くないところ、こういう場所は「コンビニすら」見つからない。


 深夜に自転車を使えば20分以内でコンビニがある場所ですらない地域でどうやって生きているのかは、都心部でしか暮らしたことがない律にとって非常に不思議なのであった。


 ちなみにこの地域は元々は柴田勝家の領地である。

 ここで付近にある国道365号線について少し話をしたい。

 

 国道8号線には少し東側に北国街道と呼ばれるもう1つの街道、国道365号線がある。


 これは柴田勝家が織田信長から命じられた際に自身の領地からより早く織田勢のいる安土城の所まで合流できるようにと新たに整備した街道だ。


 当時、塩津街道は人の往来が非常に多く、行軍には適さないとされた。


 そこで織田信長は「勝家よ、いつでも軍を移動させられるよう、新たな道を整備しておけ」と命じ、整備費用の一部を織田家が負担する形で大規模に街道が敷かれた。


 実は塩津街道も北国街道も江戸幕府はそれほど重視していなかった影響で東海道や中山道と異なり、その保守管理は後に領地とした福井藩などが行うこととなってしまうのだが、


 国道8号線や国道365号線は旧道区間も見てわかるとおり、両者共に街道としては屈指の出来である。


 国道8号線の場合は「商人が往来するために非常に重要な交易路」であったのだから当然なのだが、


 「行軍のため」という理由だけで8号線に見劣りしない365号線こと北国街道が整備されたのは、柴田勝家の織田家に対する忠誠心と、織田信長による柴田勝家への家臣としての信頼の絆が浅いものではなかったことを裏付けるものと言える。


 ちなみに、かの有名な松尾芭蕉が奥の細道にて通ったのは8号線の方であるのだが、365号線はその後も「8号線の迂回路」として整備され続けて現在に至る。


 バイパス区間の交通量は非常に少ないため、滋賀県から新潟方面に行くという場合は迷わずこちらを選択すべきと主張するライダーが多い。(今庄で8号線と合流でき、そこを越えて8号線にて越前、そして福井に入ればそれなりに環境が整っているから)


 あくまで迂回路の特性上、かつては宿場町がそれなりにあった365号線沿いは「何も無い過疎地」となってしまっているが、双方は今庄にて合流し、365号線は越前方面へ、8号線は新潟まで向かうため、交差して双方は再び分かれることになる。


 さて、話は8号線に戻る。

 曽ヶ村付近の集落を越えた律は山間の景色を楽しみつつ、北上を続ける。


 しばらくすると再びセンターラインが破線となるが、車の交通量は相変わらず多く、それはまるで蟻の行進といった状態であった。


 笙の川と併走しながら進むと敦賀市疋田に入っていく。

 ここは敦賀から最も近い宿場町としてかつて栄えた場所。


 宿場町としての名残が現在も残っており、市道から古い町並みを見ることが出来る。

 8号線はこの疋田から国道161号線と合流し、片側二車線による四車線となる。


 疋田を抜けるまでしばし快走路となるが、それも10分程度のこと。

 疋田を越えると再び黄色いセンターラインの8号線に戻る。


 律は「(こういう場所を確認していけば自分のペースでもって走ることも可能か)」などと考えながら、旧道区間による迂回も可能なことを踏まえ、柔軟な対応が重要なことを噛み締めつつ、敦賀へ北上を続けた。


 しばらく進むと「敦賀バイパス」と「国道8号線」で分かれるため、律は敦賀バイパスを選択。


 トンネルが続く敦賀バイパスを通って敦賀市内へと入り、ナビを見て金山バイパス側へと側道から進入。


 敦賀市内から敦賀湾方面へと向かう。

 右折して県道256号線から向かったのは、ナビを見て「なんかありそうだ」と感じた松原公園であった。


 松原公園。

 またの名を「気比の松原」


 世界文化遺産となった三保の松原、佐賀県の虹の松原と並び、日本三大松原と称される名勝地。

 公園の中央を横断する形で道路が通っており、そこからの景色は「三大松原」に恥じない景色を拝むことができる。


 その中央を横断する道路から、公園の中心地を海岸線側へ北上すると駐車場があり、そこから敦賀湾を一望できる海岸へと向かうことが出来る。


 律はあまりにもその松原の景色が綺麗だったので一旦横断しきった後、再び戻ってきて前述の駐車場にアフリカツインを停車させた後、


 徒歩で先ほどの道路に戻り松原の景色を写真で収め、その後に海岸へと向かって休憩し、これからのことを考えはじめるのだった。


 海岸から気比の松原を見渡すと、春先の敦賀湾の景色は美しく、気比の松原は律からすると「三保の松原より個人的な評価は上だな」と感じるほどの松による林が広がっているが、


 小浜市ではなく敦賀を選択した自分の考えは間違っていなかったと理解すると同時に敦賀行きを薦めた上田に感謝した。


 人生二度目の日本海は律が想像している日本海のイメージとは異なるものであったものの、ますます日本海側が好きになるだけの雄大な松林の広がる気比の松原となったのであった――


 敦賀湾と敦賀市。


 平安時代より栄えし北陸の重要拠点。


 江戸になると新たな航路が開拓され、明治になると蒸気船などの登場によって一時廃れるものの、


 この地に銅像などがある大和田荘七によって国際貿易港へと変化したことでソ連などとの交易が生まれ、再び活性化する。


 この敦賀湾にて絶対に見逃せないエピソードが1つある。

 後にポーランドが日本のために尽くし、そのポーランドからもたらされた情報が最終的にソ連の北海道上陸を阻止する切欠となった話だ。


 時は1920年。

 第一次大戦を抜け、国家としての独立を企てるポーランドにおいて、ロシア革命は非常に危険なものであった、後に誕生するソ連に対しポーランドでは反共主義者による運動が盛んとなる。


 そこで主導権を握ったのがポーランド系ユダヤ人である。

 彼らは当時、後に虐殺が行われるドイツよりも、国民を人と思わず各地で略奪などを続けるソ連に対し警戒していた。


 一方のソ連はポーランド・ソビエト戦争という形で一時ポーランドを侵略する。

 最終的にこの戦いはポーランドが勝つ形となるが、その間、占領された地域から多くの反共主義者をシベリア抑留に処した。


 そのため、時のポーランド政府は国際連盟を通して彼らの救出を行おうと各国に助けを求めるが、イギリスやフランスはそれらの行動を見向きもせず、援助の手を差し伸べない。


 そんな状況の中で手を差し伸べたのが日本であった。


 日本が行ったのは、反共主義者の親の子供、つまり戦災孤児となった者達の受け入れとポーランドへの帰国を達成させること。

 

 ポーランド政府の活動はウルジオストクにいたソ連の赤十字に所属する者達を感化させ、結果ソ連内での孤児の受け入れはウルジオストクから始まることになり、


 ウルジオストクと交易があった日本の敦賀が日本での戦災孤児の受け入れ先となった。


 当時の日本はWW1に実質的勝利を収めた形となるが、日露戦争から太平洋戦争中期に至るまでの日本人は「人道的見地」という言葉を曲解することなく市民単位で活動できるだけの道徳心があり、


 餓死寸前であった戦災孤児は暖かく受け入れられ、敦賀にて健康を取り戻した後にポーランドに移送される。


 そしてこの戦災孤児の一人に、後に日本の外務省、そして帝国陸軍と大きく関与していく人物が1名いたのであった。


 その者とはポーランド帰国後、同じシベリア抑留された戦災孤児を集めた「極東青年会」を組織するイエジ・ストシャウコフスキである。


 彼は日本大使館との太いパイプを構築することで、WW2の際、ワルシャワ内にて「ユダヤ人でありながら」日本政府に保護される形で自由な活動を許され、


 レジスタンスを組織してユダヤ人を、そして祖国であるポーランドを守るために戦いに赴くことになるのだ。


 映画「戦場のピアニスト」などで奮闘していた様子がが描かれる、一連のワルシャワのレジスタンス活動を支えるボスが彼であり、そして当人はワルシャワに当時存在した日本大使館に保護される形でナチスドイツが「捕縛」することが出来なくなっていた。


 しかもドイツにより何度も暗殺計画が実行されたが、日本大使館は徹底的に彼を守り、結局彼はソ連が進出してきて日本大使館が撤退することになってはじめてソ連側に捕らえられるまで、ワルシャワ内で活動し続けた。(その後、再びシベリア抑留されつつも生き残り、最終的に再び日本に来日している)


 あの戦場のピアニストでシュピルマンがソ連軍に保護される前後に彼はソ連軍によって、彼を助けたドイツ人将校同様、再びシベリア送りにされるわけである。


 捕縛された後も彼の活動は大きく広がり、ドイツによって一帯が占領された後、東側に取り込まれて事実上のソ連の植民地のような状態になるポーランドに対し、


 かつての縁から日本大使館を利用し、各地に広がる日本大使館にはレジスタンス活動に参加する者達だけでなく、ポーランド臨時政府の諜報機関の諜報員などを配置する架け橋となった。


 この活動が非常に大規模に及び、小野寺信が蜘蛛の巣状に広がったヨーロッパの情報網を活かして活動したことは別作品にて触れたが、


 重要なのは、彼の存在が後に杉原千畝による命のビザに繋がり、そして小野寺を通して伝わった情報から「北海道への完全撤退」を陸軍が行わなかったことがソ連が北海道を占領できなかった原動力となる。


 ポーランド政府が、もはやソ連に占領され絶望的な状況になっても尚、「日本も同じ目に遭ってはならない」とヤルタ会談の情報を漏らし、


 その情報が「嘘か真か」と陸軍内にて混乱する中で、外交官などを動因してソ連などと競技を重ねた結果、断片的な情報が現地の部隊に伝わって北千島に戦力が残ったことが後の奇跡を生んだと言える。


 その奇跡を遠くから支えた者こそ、かつて戦災孤児となってシベリアに抑留され、そして敦賀に渡って「敦賀、そしていつか絶対に日本に恩返しする」と誓った一人の男から始まったのだ。


 そんなポーランド系ユダヤ人を1940年に再び敦賀は受け入れる事態となる。


 前述した杉原千畝という外交官が発行したビザは、ウラジオストクから日本に渡るための日本のビザ。

 つまりシベリア鉄道にて向かう先は敦賀だったのだ。


 当時のユダヤ人は「この世に楽園があるとするならツルガだ」と言葉を残すほどで、敦賀港とその周辺は7000人という規模のポーランド系ユダヤ人が押し寄せた。

 

 この時、敦賀にいる人々は食事を分け与えたり、ポーランド系ユダヤ人が持っていた、なけなしの金品(ガラクタ同然のもの)を買い取り、それを日本円と交換した。


 彼らが金品を交換してまで日本円を手に入れねばならなかったのは、横浜港や神戸港へと向かうための旅費と食料を調達するための日本円を確保するためである。


 金のない者の中には国道を歩いたとされるが、敦賀の人々は銭湯を無料開放したり、ぼろ布を集めて浴衣などを作って提供して彼らを手助けした。


 こういった一連の活動が祖父をポーランド系ユダヤ人とする、とある魔王のような力を持つ者が日本の戦後統治政策を転換させる切欠となったわけだが、人と人の繋がりによって生まれる力は決して無視できないという教訓とも言えるエピソードである。


 律は今、そんな歴史的に日本に様々な面で影響を及ぼし、そして現在も貿易港として活躍し、2018年豪雨の山陽・関西地方の被災においても機能不全に陥った山陽地方に代わって海運で手助けした敦賀にいる――

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