国宝五大天守が1つ。 ―彦根市―
城。
大多数の日本人が想像する日本の城とは、基本的に「天守」をもつ大規模な要塞を想像することだろう。
しかし、その天守という存在が生まれたのは室町時代以降、俗に戦国時代と呼ばれる頃だ。
戦国の世になる前までの城とは、かの宮崎駿作品「もののけ姫」の「たたら場」のようなイメージの要塞を「城」と呼称しており、
実際に劇中、外部から訪れたアシタカは、たたら場の人間と異なり、これを完全に「城」として扱っているのだが、
そこを攻め入る侍も城落としの要領でもって攻め込んでいることからも、間違いなくたたら場は「城」である。
それまで、飛鳥~平安~鎌倉時代~室町時代に至る長い間、城というイメージはあのようなものであり、戦国の世の終わりを告げる大阪の陣に急造された「真田丸」も広義の上では立派な「城」であるのだ。
つまりは法隆寺の五重塔などに代表される、7世紀頃に建造された巨大建築物などが日本国内に存在しながらも、要塞としてこの手の「天守」と呼ばれるような天高くそびえ立つ巨大建造物が生まれたのは1500年以降ということになる。
まぁ当時の記録を見る限りは「櫓はともかく、巨大すぎる天守は戦術的・戦略的アドバンテージがあるかどうかといえは、その優位性は維持コストなどを考慮しても殆どなく、地域を治める大名などが力を誇示するものとして、ある種シンボルタワー的な、周囲に威圧感を与え監視などをを目的に建造した、政治的優位性と抑止力をアピールするための建造物という」意味合いが強い。
実際に、乱世の世にて活躍した殆どの城は多聞城から世に広まった多聞櫓と呼ばれる三重、四重からなる階層構造を主とした建造物を持つ要塞ばかりであり、
それらはあくまで城壁に沿う形で建造されていたわけだが、一般的に認知される城壁に囲まれた要塞の中心にこういった階層構造の巨大建築物を建造して「天守」としたのは織田信長が建造した安土城が始まりとされる。
最初にその建築物を天守と呼んだ男が誰だかわかれば前述の説明は「ですよねー」となることだろう。
というか、建築を計画したその男の性格が垣間見えるような存在こそが「安土城」だったわけだ。
それが後に秀吉に受け継がれ、秀吉が大阪城などを築城する頃には各地の諸大名らもこれを模倣し、似たような巨大な天守を建造するようになり、
そして江戸時代へ移ると、この天守と呼ばれる存在は維持コストが莫大ということから急速に廃れていったのである、
ところで、一連の多聞櫓などに発展する前の段階では、江戸城の静勝軒などが城壁に近い場所に展望台というような形で据えられて、来賓の者をもてなしたといわれるが、(割と平和だった武蔵国などにこういう建築物を持つ城が非常に多くあったとされる)
静勝軒自体は櫓ではなく、戦での運用は想定されていない。
恐らく、この手の「来賓をもてなす」ために建造した建造物を見て触れることができた者たちが「これは戦場において使えるのでは?」と考えて発展させていき、多聞城のようなものが出来上がったと考えられるが、
静勝軒自体は、当時存在した寺院の楼閣を参考に建造されたと言われ、主に金閣寺を参考にして作られていたとされているのだが、他にもこういった建築物を参考にして作られたものが関東や京都などを中心に各地に存在する。
例えば、二条城に存在した初期の櫓や本丸がそうだったと言われるが、現在の二条城はその頃の建築物の殆どを火災や地震その他によって消失してしまい、その姿を現地で拝むことはできない。
しかし実は明治時代、時の明治政府が資金調達のために各地の城などの建築物を廃城令によって取り壊す傍ら、販売していたことがあった。
それが信じられないことにかつて彦根藩が管理していた世田谷の地に移築された例があったりする。
かつて彦根藩が管理していた下馬に、彦根藩が立ち去って明治時代以降に建てられた観音寺の楼閣がそれだ。
この楼閣は、二条城本丸に存在した三重櫓だったと言われ、二条城の中でも特に古い建築物だったとされている。
実物が現在も存在している非常に貴重な建築遺産だが、見た目は金閣寺を小ぶりにして三階建てにし、金箔を施さなかった――というような感じで、
こういったものをベースに二階、三階構造の櫓が生まれ、後に多聞櫓へと様々な人の手によって発展させられていったのだろうと歴史研究者などから推測されている。
一応、安土城が築城される前の段階において天守と思わしき構造を持つ城はいくつか例があったとされるが、この作品内では「最初に名乗った」という点をもって安土城を「天守の祖」という形で解説したとここに記しておこう。
さて、彦根城であるが、この城は別名幸運に恵まれた城とも言われる。
正確には「天皇によって2度損壊を逃れた」幸運を持つ城である。
なぜなのかと言われれば、1つは、現在、建築されたままの天守が残る城の中で唯一「特例措置として、当時、全国各地の城にて盛んに行われた明治時代における陸軍の要塞化」が一切行われなかった城であり、
陸軍がその建築物の価値を勘案し、殆ど手をかけずに利用して後世に残した姫路城と並んで「二大国宝」と言われるわけだが、
日本の国宝指定を受けた5つの城のうち、この2つは当時の姿をほぼそのまま残す傍ら、彦根城は「特例措置によって保存が決定された」城なのである。
保存が決定される経緯においては2つの説が存在しているとされるが、その大きな原動力となったのには井伊家の存在が大きい。
かねてより井伊家の者達は「名君」だったとされる。
35万石という多くの領地を得ながらも、その大量の領地をもって横暴な内政などを行うことなく、地元の農民や商人からはそれなりに慕われ、
桜田門外の変においては、飛び地である世田谷村の者達が立ち上がろうとするなど、とにかく領地にいる市民に慕われていたエピソードが多いが、
実は彦根藩にはたった1つ絶対に欠かせない江戸時代後期のエピソードがある。
それは「近江天保一揆」などに代表される農民一揆に関連する飢饉などが起こった際、「彦根藩は一人も餓死者を出さなかった」という話だ。
前回も説明したように、かねてより井伊家は地元農民などを大切にした。
世田谷などの飛び地には毎年のように米を送り、今でもボロ市にて販売され続けている「代官餅」を年に1回配布したりするだけでなく、(現在は販売物だが、かつては地元民に無料で振舞われた貴重な御餅)
かような飢饉が起これば「蔵を開放して米を分け与える」行動を起こし、周囲から「藩の財政が破綻するぞ」と警告されても「では、その農作物は誰が作ったのだ?」と、藩主が部下を説得して農民のために身を削ってまで尽くしたのである。
そのため、前回説明したように、基本的に農民が敵視したのは「幕府側の人間」であり、ある時期までは「私たちが支援するから我慢してくれ」と抑え込んでいる姿があった。
しかし、それが限界に達したのが、桜田門外の変の後に一橋慶喜などが幕府の実権を握り、水戸藩に対して甘い裁定を下しながら彦根藩は10万石の領地を厳封させられたことである。
これによってついに我慢の限界に達した井伊家は「幕府は敵」と認識して反旗を翻し、新政府軍へと加入。
後の戊辰戦争へと繋がって行くわけなのだが、その姿は大久保ら新政府軍主要メンバーをして「世の中とは意外なものだ」と、これまで江戸と癒着していた姿から正反対の立場で徳川を追い詰める姿に頼もしさすら感じていた。
最終的に彦根藩は新撰組局長を捕らえることにも成功していることから、武勲をあげて明治時代へと移って行くわけなのだが、
幕末の厳しい財政状況に立たされながらも、彦根城は綺麗な状態を保たせ続けてその後の明治時代へと移っていき、
いわば「名君のシンボル」たる存在だった彦根城が「解体される」と決定された際の地元民の落胆は大きく、
その声が各所から届いて大隈らの嘆願に繋がったのではないかと思われている。
特例措置がとられる際の協議においては、保存する理由として、城が美しかっただけでなくそういった地元民から愛される井伊家の功績も鑑みてのことだったとされるため、名君が天皇の鶴の一声さえ生んだと考えることができよう。
ちなみに余談だが、各所の当時の城の状況を見ていると財政状況から城の荒廃は激しく、各所に残された写真を見る限り、陸軍が取り壊したりした殆どの城は「そのままではまともに使えない」ような廃墟のような姿ばかりだったりする。
実際に写真を見ても「解体作業前に自然に倒壊しそうなんですが」なんて建物はザラにあった。
いかに、幕末までの頃に各地の藩が財政的にも疲弊したかがよくわかる。
いわば陸軍が後にも残した彦根城を除いた19城は「取り壊すのは勿体無いから」と考えられるだけ整った見た目の状態だったわけであり、
それが今日の現存天守12城へと繋がって行くわけだ。
そんな彦根城の2度目の窮地は1945年8月15日。
この年、太平洋戦争の折、アメリカ軍は5月頃から各所の歴史的建造物があるような場所も平気で爆撃するようになった。
5月14日の名古屋城を皮切りに、彦根城を含めた現存天守20城のうち、8つを焼失することになる。
名古屋城の炎上は、別の作品にて語るように中部日本新聞が「日本初のカラー新聞」を発行する原動力ともなった悲劇だが、その悲劇の連鎖は8月15日に至るまで続いたのである。
米軍は当初、8月15日にそれまで爆撃が避けられていた彦根市への攻撃を計画していた。
もし仮に無条件降伏を飲まなかった場合、彦根城は間違いなく消し炭にされていたと思われ、
そういう意味では昭和天皇がある意味でこの悲劇を救ったと言えるわけだが、彦根城は日本が降伏したことで、幸運にも焼失8城に続いて9城になるところを免れたのであった。
そんな多くの幸運と名君に支えられた城が「彦根城」である。
律をまず出迎えたのは佐和口多聞櫓である。
ここが入り口となっており、基本的にはこちらから彦根城天守へと向かって行かなければならない。
佐和口多聞櫓の先を進むと彦根城博物館などがある広場にたどり着く。
ここから先の見学は一部有料となっているのだが、律は「お得そうだから」とセット券を購入。
玄宮園や博物館の拝観料がセットとなった、お得なチケットであった。
チケットを購入すると、石で整備された階段を上がることになる。
最初に驚いたのは、天守まで向かうための階段が急なこと。
かつて、学生時代に熊本城などに訪れた経験がある律は(城の階段ってこんなに険しかったかな……)と息をやや切らしつつ、石などで整備された階段を上ることになった。
入場料が取られるのはこの階段を上がった先なのだが、その前に天秤櫓がある天守へと向かうための桟橋が見上げる形で目の前に入ってくる。
この周囲は一種の撮影スポットであるのだが、律は割とバリアフリーとは程遠い階段などをレンズに収め、そのまま天秤櫓のある桟橋へと向かって行った。
天秤櫓のある桟橋は鉄道でいうループ線のような構造となっており、桟橋を潜った後も階段が続くのだ。
一連の場所には老人向けの「杖の貸し出しサービス」なるものがあるが、律から言わせれば「そんなのあってもなぁ」といった感じで、ある程度足腰がまともな状態でないと見学できない場所であることを理解させられた。
律は桟橋から天秤櫓全体の像をレンズに収めると、そのまま桟橋の先へ。
そんな天秤櫓だが、中に入ることができる。
中にはインスタグラム向けと思われる小道具があったり、特設コーナーがあって、その時々に飾られているものが異なるのだが、律は一連の場所を見学した後、天守へと向かって行った。
天秤櫓を越えた先には太鼓櫓があるが、ここを通ると目の前に彦根城天守が堂々と現れる。
律は係員にチケットを渡すと、外履きの靴を納める袋を貰い、スリッパに履き替えてスタスタと天守内部へ。
「順路」と記載された立て札などを目にしながらそれに従って歩くのだが、内部の階段は傾斜角60度となっており、さらに「老人などに優しくない」急な角度が付けられている。
そんな中で律が注目したのは梁である。
それは「木の性質」を完全に理解した者でなければ、絶対に作れない構造をしていた。
曲がりくねった木々を組み合わせた梁は、これまで律が見てきた日本の歴史的建造物では見たことないような構造をしており、日本のかつての建築家の凄さを体感するには十分であった。
その梁の構造は二階、三階へと移動する度に複雑な構造となっていくのが見えたが、天井ばかりに気をとられていると転倒しかねないほど城の中には段差などが多くある。
必要だと思われる場所にはスロープのようなものが設置されていたが、そのスロープですらきちんと意識しなければ足元をすくわれかねない危険性があった。
律は足元を意識しながらも天守に移動する。
非常に急な階段を何とか上りきるには気を使ったが、何とか階段の先へ。
すると360度に渡ってバツグンの景色を展望できる最上階に到着した。
最上階は琵琶湖から吹く風が髪を揺らすほど風が入り込んできていたが、
律は特に怖い思いなどはしなかったので最上階からその景色を覗き込んだ。
が、見ていて思ったことがあった。
それは「案外琵琶湖が木々に隠れてよく見えない」ということで、
なぜか城の敷地内の木々によって琵琶湖の湖畔沿いが隠れ、それによって本来は広角に広く見渡せるはずの琵琶湖の景色がとても残念なことになっている。
もし仮に律が殿様であった場合「なにゆえ、このように木々が眺望を邪魔するか! 切ってしまえい!」などと言いたくなるような状態だが、
この木々の大半は「実は築城当時は植えられていなかった」ものらしく、後ほど博物館を訪れて明治時代の頃の写真などを確認することになるのだが、その限りでは、以前の景色はもっと素晴らしいものだったことを後々理解することになるのだった。
一連の景色を楽しんだ律は多くの人で込合っていたこともあって天守を後にする。
出口に付近に到着し、施設内を見学するためのスリッパを片付けて外を出た際、遠くに高速で走りぬける何かを目にした。
「そっか……この辺りは東海道新幹線が通っているのか……」
スマホを見た律はそれがすぐさま東海道新幹線であることに気づいた。
天守近くの展望台から新幹線の路線が遠くにあることを目にすることが出来る。
そう、あまり乗っていて気づかないことなのだが、東海道新幹線は彦根のすぐ近くを南下している。
というか琵琶湖の直ぐ近くを通っている。
だが、残念なことに殆どみることが出来ない。
また、駅も米原を過ぎると次は京都になってしまう。
この周辺は彦根城を代表する高台から新幹線を見ることは出来ても、新幹線側には遮音壁などが配置される影響で景色にも恵まれず、琵琶湖という景色豊かな日本一の湖の存在をまるで感知することなく通り過ぎることになるのだ。
東海道本線からはそれなりに景色を楽しめるのだが、それとは雲泥の差がある。
律はこれまで大阪などには殆ど訪れたことはなかったが、修学旅行などで何度も関西方面に来たことがあった。
その際に利用するのは当然新幹線である。
だが、新幹線などで通っているはずの滋賀県のイメージがまるでない原因が琵琶湖などの一連の景色が殆どを新幹線内から拝めないことによるものだと気づき、「もうちょっと何とかならなかったのかなあ」と「はぁ」と息を漏らすのだった。
天守を出た次に向かったのは現地のボランティアの人が「太鼓櫓も入れますよー」と案内していたので太鼓櫓へ。
すると、ボランティアガイドの壮年の男性が太鼓櫓内で彦根城について説明していた。
律も他の観光旅行者の輪に混ざってその話を聞く。
「――実はこの彦根城ですが。今現在皆様もいるこの太鼓門櫓も含めて、その殆どどこからか別の城から移築されてきた建造物になります」
「へぇぇー」といった声が周囲から漏れる。
律にも驚きの話であったため、聞き入るようにしてボランティアガイドを見て集中しはじめた。
「もしかしたら既に天守を見学された方も周囲にはいらっしゃるかもしれませんが、あの天守は元々は4階または5階建てで建造されていた割と巨大だった大津城の天守をこちらに移築して建てられたものです。昭和32年の彦根城全体の解体修理時の調査にて判明しています。各種建材に施された数字が飛び番となっていて合わないんですね。本来なら1から始まらないといけないのに、途中の番号になっている建材が多く見つかり、4階または5階建てだった形跡が見つかったために、以前より書物の記録などでその説が提唱されてきたのですが、改めて有力説となりました。太鼓門櫓などとは異なり、全てそのままというわけではないらしいので、新たな建材も用いて改築するがごとく生まれたのが彦根城の天守となります」
その面白い話には聞き入る者が多く、段々と周囲も静まり返ってくる。
「現在皆様がいるこの太鼓門櫓についても、元々は他の城の城門だったとされています。どうやら実際にはもっと巨大な城門だったものを切り詰めて小型化したらしく、やはり建材の数字が合いません。ですがどの城から再利用したのかは未だにわかっておりません。彦根城の施設に関しては8割方移築されて作られたリサイクル城とも言える状態だったりするんです。……意外かもしれませんが、江戸時代以降に築城された城というのは、そういうのが少なくありません。一国一城令などで廃城とされた結果他の城に転用されたケースなど、様々な理由あってのことです」
「(この場所がもっと大きな?……城門としてはそれなりの大きさに見えるのに)」
律はキョロキョロと周囲を見回し、太鼓櫓がそれなりの規模であることから基となった城の城門は一体どのレベルだったのだろうと不思議がった。
早々大きな城門はないのでそれなりに有名かつ大規模な城のものを流用していたのではないかとワクワクする。
「――ここ、彦根城に訪れた皆様からよく言われるのが、天守までの道のりが急なものであったり、妙な位置に桟橋を作っていたりする――という話なのですが、一連の原因の1つには、土地の形状に合わせて石垣を積んでその上に建築物を作ったのではなく、元の建築物をパズル的に配置するために土を盛って石垣が組まれたことにあるんです。切り詰めるのも限度がありますので、櫓と城の配置が斜めとなっているのも、基となった建築物の影響あってのことなのです。最初から計算され尽くして生まれた城とは異なるからこそ、このようなデザインとなったわけですね」
「(なるほど……確かに櫓と天守の接続がおかしかったもんなぁ……改築したのかと思ってたけど改築したのではなく、基の構造のせいでそうせざるを得なかったのか)」
「そんな彦根城なのですが、彦根城自体は戦乱と無縁だった一方で、大津城は関ヶ原の前哨戦とされる激しい戦いがあり、天守には大砲が大量に打ち込まれたとされています。昭和32年における解体修理の際の調査において、かつて、それらのダメージを受けて修繕が施された箇所がいくつも見つかっており、彦根城自体は戦と無縁なれど、彦根城の天守は激しい戦を戦い抜いて現在もこの場所にそびえ立つ存在であることがわかっているのです。いわばここは、戦国の世の城の生き残りとも言える……全体の規模は小さくとも、まことに国宝として相応しい場所であるのです。以上となります。それではどうも皆さん。長い間お話につきあってくださり、ありがとうございました! この後も気をつけて見学してください」
ボランティアガイドの壮年の男性が頭を下げると、周囲から拍手がわく。
律も知らなかった情報だらけなことに「録音したいぐらいにいい話だった」と、とても満足し、そのまま太鼓櫓をしばらく見学して写真などを撮影した後に外に出た。
そのまま来た道を戻ると、先ほどチケットを購入した場所から博物館へと向かって行くのだった――
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彦根城博物館の中に入ると、博物館の中には刀や武具、そして旗や茶器、印鑑など井伊家に伝わる様々な文化財が展示されていた。
律がここで驚いたのが「フラッシュ撮影可」という注意書き。
博物館や水族館では基本「不可」の所、この場所では可だという。
非常に珍しいので驚きである。
ただ、元々明るいレンズを使うRX1RM2にとってフラッシュを使う必要性などなく、律は興味がそそられたものから順に撮影していった。
そんな時である。
甲冑を見ていて、ふと律は何かと似ているのではないかと考え始めた。
特に兜である。
どこかでそのような意匠を全く別の状態で見たことがある。
しばらく悩みながらスマホを弄ると答えが出た。
それは「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」にてシャアが乗る「サザビー」の頭部に似ているということ。
そうなのだ。
実はサザビーをデザインする際、和式の甲冑が参考にされたのだが、その時に参考になったのは井伊家の赤備えの甲冑の兜だったりする。
赤備え。
元々は武田軍が用いていた赤い甲冑である。
信玄を中心に赤備えを身に付けた者達が甲斐などで大暴れしたため、その甲冑はすぐさま戦国大名の知るところとなった。
本来なら武田軍滅亡と同時に消滅してもおかしくはなかったものの、武田軍滅亡後は武田軍関係の者たちを中心にそのまま利用され続けた。
武田軍ゆかりの真田家なども用いたが、一見するとまるで無関係そうな井伊家が赤備えを用いる理由はというと、
武田軍滅亡後に武田の遺臣を新たに家臣とした井伊直政は、彼らのかつての戦闘装束にあやかり、彼らに赤備えの甲冑を装備させることを許しながらも自身も赤備えを用いるようになったからだ。
以降、井伊家もまた赤備えを戦場でも身に付けるようになったものの、
かつてコテンパンにまでやられて死を覚悟して大便すら漏らした家康からすると、井伊家の赤備えは輝きが強すぎて不満があったらしく、井伊家の者達に対して苦言を呈している記録が残っている。
しかも家康は甲冑を見ただけで武田の元家臣と井伊の家臣の違いすら見抜き、それを確認して事実だったことを知ると自身の目が節穴でないことを喜びつつも「あれぞ本来の赤備え」と主張したとされる。
実際、この後に幕末までに続く井伊家こと彦根藩による戦いにおいて、赤備えがまるで役に立っていないことからも、
武田家や真田家などと比較して、明らかに赤の色合いが強すぎてビカビカしすぎた赤備えはタクティカルアドバンテージ皆無の代物なのだが、それでも必死で使い続けたらしく、
博物館には実際に実戦でも使われて傷だらけの赤備えも展示されていたのだった。
このデザインの一部を参考としているという話なのだが、律はそれに気づいたのである。
律は「クリエイターにとっては、こういう所から着想を得るものがあるんだろうなー」などと呟きながらも博物館内を全てめぐり、博物館を後にしたのだった――
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一連の施設を堪能した律は玄宮園へと向かう。
玄宮園は彦根藩4代目藩主である井伊直興が作り、その後11代目藩主、直中が再整備して今日のような状態となったと言われている。
ここの特徴はなんといっても見上げる形で見える彦根城をバックとした全体像が非常に整っていて美しく、撮影スポットとして優れるのと同時に玄宮園自体が日本庭園としては名勝に指定されるだけに非常に趣のある場所となっている。
最大の特徴は元々は客殿として客をもてなした場所が「鳳翔台」として茶室として解放されており、500円支払うと茶菓子が振舞われるのと同時に客殿から名勝とされる風景を楽しむことができることだ。
律はパンフレットを見て鳳翔台と彦根城をバックにした風景写真は絶対に撮らねばならないと考えて玄宮園へと足を運んだが、鳳翔台自体もお金を払う価値アリと考え、茶室に入ることにしたのだった。
まずは広い庭園内を歩いてめぐり、池などを堪能しつつRX1RM2にとっての絶景ポイントと思わしき場所か写真を撮る。
丁度その時は風がなく、晴天でもあり、池に反射して逆さとなった鳳翔台と彦根城を綺麗にレンズに収めることが出来た。
しばらく玄宮園を堪能した後は、鳳翔台へ。
500円を支払うと畳みが敷かれた和室内に案内され、律は茶室の奥、庭園が見える場所へと向かう。
しばらくすると「埋もれ木」と呼ばれる和菓子と抹茶が出された。
「埋もれ木」とは200年前に創業した井伊家御用達だった老舗和菓子店「いと重」が提供している銘菓であり、表面に抹茶と最高級の砂糖「和三盆」をまぶした求肥で白餡を包んだ和菓子だ。
名前の由来は井伊直弼が自身の青年時代にすごした「埋木舎」から名づけたものだ。
庭園の姿はとても美しく、500円の価値があるだけのものがあったが、少しの間カメラでその姿を撮影すると、律は出された茶菓子を口にすることにした。
包み紙を開いた瞬間に驚いたのは、辺りに漂う抹茶の香りである。
出された抹茶よりも茶菓子である「埋もれ木」の方が強い匂いを発しており、スーッと鼻の奥を抜けるような抹茶の匂いに思わず勿体無くて食べたくなくなるほどだったが、
その匂いが食欲を誘い、律は少しずつ味わうことにした。
表面は砂糖をまぶしたことでザラザラとしているものの、噛むとふわっともちっとしていて、口の中に甘みが広がる。
抹茶の匂いはするものの、苦味などは殆どなく、生八橋などと比較すると割と甘みは強い方で、律は「これは抹茶と一緒に味わうものなのだな」と感じ、それを口にした後で抹茶を啜った。
しばらく埋もれ木と抹茶を味わった後は、風も出てきたので庭園に吹く風を体に受けて心を落ち着かせ、20分ほど瞑想するように茶室ですごした後、美味な茶菓子と美しい庭園に心を洗われた気分になりながら、鳳翔台を後にした。
鳳翔台を出た後は楽々園に向かい、そちらも見学した後はしばらく彦根城周囲を歩いて巡った。
すると馬屋を見つけ、そちらを見学し、たっぷり彦根城を堪能した後にアフリカツインの下へと戻るのだった――。
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アフリカツインの所へ戻った律は時計を見て悩み始める。
時刻は既に16時30分。
彦根城の堀周辺を歩き回るなど、あまりにも堪能しすぎてそのような時間となってしまっていた。
「(あれぇ……岐阜から100kmも離れてない彦根で身動きが取れなくなってないか俺……彦根や草津、野州、栗東以外の場所に移動したら、宿泊もままならない気がする……どうしよう)」
悩みに悩んだ律は、本日のこれ以上の移動を取りやめることにする。
たとえば無理すれば敦賀または舞鶴あたりに行けそうではあるのだが、そこに何があるのかわからない。
だったら、今からスーパー銭湯や温泉に向かい、そこで汗を流した後に近くの快活などで就寝し、明日に備える方が様々な面でリスクが低い。
急ぐ旅ではないので、銭湯、食事、ネットカフェという順番で今後の予定を組み立てた。
その上で「今度はキャンプ道具一式持ってくるか……そっちの方が安いもんなぁ」と、妙なところで準備不足だった事に再び反省しつつも、まずは汗を流すために近くのスーパー銭湯に移動するのだった――




