500kmのライダー
目覚めた律が向かったのは自室のPCだった。
それから朝食を採ることすら忘れ、ネットに没頭した。
たんなるライダーのブログだけでなく、動画配信サイトも検索して確認する。
すると「モトブログ」という単語が目立つ事に気になった。
モトブログ。
一体誰が最初に始めたかはわからない。
状況から推察するに最初は海外の人間がやっていた様子なのはよくわかる。
走りながら日常的などうでもいい会話をする者、ツーリング実況をする者、自身がどういう素状でどういう風なライダーとして今に至るかを解説する者。
人によっては元教習官がライディングテクニックを解説する動画も存在した。
その中で律が特に惹かれた者達がいた。
「1日の走行距離500km以下は俺達にとってロングツーリングとは言わない」と言い切るあるツーリンググループ。
またの名を「距離ガバ勢」
その者は雪が降る環境でも、台風の中でも、とにかく走っていた。
まるで「車の代わり」だとでも言わんばかりに「これぞ自分の足下駄だ」と、大型バイクを日常の足として使っていた。
その中でも特に印象的だった男を律は見つける。
本名は不明。
ネット上と動画内では「シゲユキ」と名乗っていたがシゲユキは本名ではないらしく、本名で呼ばれた際には動画編集を行っており、ピー音が入っている。
シゲユキが乗るのはX-ADV。
ホンダが送り出した摩訶不思議なスクーターもどき。
彼はこれの積載力を大幅に底上げして乗っていた。
そんな彼の話には律も共感する部分が数多くあった。
「都心部だとまともに車を維持するのは極めて難しい」こと。
「それでも尚、どこかへ行きたいので二輪を獲得する前は無理してレンタカーを借りて年に4回ほど超長距離を移動していた」こと。
「最終的に二輪にしたが全くもって不足を感じないこと」
その上で彼は「バイクというものは俺らみたいな人間が最後に求めた先にある自動車であり、X-ADVはどんな道も走破でき、自分の夢を叶え、そしてその先へ向かう手助けをしてくれる」存在であるという事を主張していた。
特に彼が参考になったのは、その現代的ライダーの装備と、X-ADVについての解説であった。
まず、律が知らなかったが今のライダーはスマホをバイクにマウントするのが当たり前だった。
その影響でナビに困らなくなったのだ。
おまけに、律が求めていた音楽などについては「ヘルメット内にスピーカーを仕込む」という方法でどのライダーも解決していたばかりか、それらは無線で接続され、さらに周囲のライダーと無線交信できるような時代となっていた。
それもそうなってきたのはつい5~6年前の話。
律が大学入学してすこし経った辺りの頃であった。
それだけではなく、バイクにとって最も重要な「防寒」について、シゲユキは電熱装備という近年、ようやく価格が下がってきたホットカーペットを着込むような比較的真新しい装備で解決しており、それ以外にも「グリップヒーター」なる謎の装備をバイクに装着することで寒さを凌いでいた。
律が考える冬のバイクの防寒用具といえば関西で「オバハングリップ」と呼ばれるハンドルカバーのみ。
電熱装備などまるで聞いたことが無い。
「そういえば、寒すぎるとかいってた五輪のアメリカ選手団がやたら軽装だったけど電熱式ウェアを着込んでいるとか言ってたっけ……」
律は数年ほど前にあったアジアのオリンピックでそのような装備を身につけていた選手団がいたことを思い出した。
それが元々は二輪のために作られたのかについては判断できなかったものの、
技術の進歩により、電熱用具を服に仕込んだ存在が登場し、冬でも比較的快適にバイクに乗れるようになったことに律は驚きを隠せない。
しかもシゲユキのX-ADVについては「バッ直」と彼が言う、バイクのバッテリーに直接接続する方式をとっていた。
一見すると感電死しそうな感じがするが、そこもきちんと絶縁などが施された状態となっていた。
そういうパーツがちゃんとあるらしい。
電熱装備自体は極めて高価な高級品だが、四輪の車に負けない力を二輪のバイクが手に入れていた事になる。
冬はオフシーズンで乗れないということが無いというのは律の中のこれまでの常識を完全に覆すものだった。
一連のサイトめぐりや動画配信サイトでの情報を確認した律はすぐさま細かい計算を行いだした。
現在の貯蓄は450万。
この中からいくら使えば二輪が手に入るのか。
車種の平均的な価格なども考慮すると200万前後は初期投資にかかるが、それでも貯金が半分以上残る計算だった。
また、律はライダーになるに至って強みがあった。
自宅の1階である。
自宅の1階には自転車を室内に入れるための簡易ガレージのようなものがあり、そこならハーレークラスの大型車でなければ十分に1台……いや2台~3台ぐらいは確実に入る計算。
父は「車が入らないので中途半端」と主張していたガレージが使える。
駐車料金で頭を悩ますことが無い。
「これだ! これしかない! バイクだ! バイクに乗るんだ!」
朝起きてから正午より2時間前までの5時間もの間、律は寝食も忘れてネットに没頭していたが、興奮のあまり自宅内のリハビリすら忘れて狂気する。
もう一度車に乗ってどこかへ行ける。それも自由にどこにでも行けるという幸福感がそうさせた。
思い立った律は共働きですでに出社していた両親にメールを出し、そのまま教習所に向かおうとする。
しかし父親からの返事によって一旦思いとどまる事にした。
――律。お前がどう思い立ち、どうして行動したくなったのかについては聞かない。――
――親としてそこは尊重するが、1つだけ今のお前には不安がある。教習を行うにせよ、一発試験を行うにせよ、バイクの免許取得の上では引き起こしが必要となる。父さんも普通二輪だけ持っているから知っているが、200kg近くかそれ以上のものを引き起こさなければならない。今のお前にそれが出来るのか?――
――取るなとは言わないが、引き起こしがまともに出来る時までもうしばらくリハビリした方がいいんじゃないのか。――
そのメールを見て律は現実に戻された。
今の自分の状態で果たして引き起こしがまともに出来るかどうかもわからない。
それだけではなかった。
律はMTの免許を考えていたがそれはクラッチが左腕にある。
調べてみるとこのクラッチレバーは教習仕様の場合、非常に硬く握力が必要となることがわかった。
今の律は左腕の握力に自信がない。
親をして「他人に見せられないような、直視できないような状態」だった左腕の握力は大幅に低下。
リハビリにおいても担当者から重点的にそこを鍛えられていた。
そもそも律はまともに歩けるようになったのがここ1週間程度のこと。
まともに走ることすらまだ出来る体力ではなかった。
律が何よりもショックを受けたのは、100mを走ることが出来ないほどの体力低下。
25mも過ぎれば息が上がって動けなくなる。
頭の中にはかつてどこかの熱血なテニスプレイヤーが同じような状況になってテニスを諦めかけたという話がよぎる。
8ヶ月もの期間まともに動かなかったというのは、それだけ律を弱体化させたのだ。
その状況からいきなり免許を獲得するのは無謀にも思える。
結局、その日は思いとどまり、そして時が過ぎていった。
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その日の夕食、母も父ももし取るとしても「AT」免許を取得すべきだと主張した。
しかし律は「全てのバイクの可能性を探りたい」として拒否をした。
理由はちゃんとあった。
クイックシフターと呼ばれる大昔から存在したが近年デファクトスタンダード化した存在によるものである。
クイックシフター。
ダイレクトイグニッションコイルに介入し、ECUより伝わる電気信号を一瞬カットすることで点火を制御。
そしてその力によってクラッチ無しでシフトチェンジできるようになるシステム。
バイクレースの世界で生まれ、その後、市販車にも導入されてきた背景があるが、
バイクレースの世界で生まれた頃は「シフトアップのみ対応」であった。
しかし近年発達した電子制御式バイクにおいては、「ブリッピングをオートで行う」というバイク自体がクイックシフターをうまく制御し、「シフトダウンも可能」なように発展しており、
近年のバイクにおいては、特に大型車種を筆頭に「デファクトスタンダード化」しつつある。
クイックシフター自体は1970年代には登場したシステムだが、シフトアップもダウンも可能になった上で純正オプションや標準装備されだしたのは2015年頃。
実に半世紀かかってようやくシステムとして完成した代物であり、その完成には近年の高度な電子制御が施されたバイクがあってはじめて成立したものだった。
この存在自体は律が取得したい普通二輪のバイクにもいくつかオプションとして存在する車種があったので、そこを考慮してMTとしたいのだ。
とはいえ、現時点において律が乗りたいのはスーパーカブC125だった。
スーパーカブ。
不動の地位を得たホンダの名車。
その初代を模したバイクがネオクラシックとして蘇ったのがC125。
美しいフォルムと、スマートキーなどの先進的な装備を満載。
さらにパワーも既存の110ccモデルから上昇したこいつに律は惹かれていた。
本来なら軽二輪免許、それもATでいい代物ではあったが、「大は小を兼ねる」ということと「高速が使いたくなるかもしれない」ということから普通二輪にすることにしたのだった。
だがそれでも重量は100kg近くある。
両親は「なら軽二輪から取ればまだ楽なんじゃないか」と主張したものの、何度も教習所に通いたくないので普通二輪に律は拘った。
大型二輪は今の所考えてなかった。
「どうせ重過ぎて乗れない」などと、その時点での律は決め込んでいたのだった。
そしてその日の夜のこと……
朝方より興奮して活動的であった律は体力を消耗し尽くし、すぐさま夢の世界へと入っていった――
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「情けねぇ。引き起こしぐらいで諦めちまうとは」
昨日夢の中で出会ったオッサンの登場により、律は現在夢の中にいることを自覚する。
周囲はまた例の湾岸のどこかである。
今回はオッサン一人とバブと呼ばれるバイク1台であった。
「腕立て伏せすらまともに出来ない今の俺じゃ……無理だよ……」
腕を組みながらどんな言葉も待ちうけようと仁王立ちするオッサンに律は弱弱しい言葉を投げかける。
「何が無理なもんか。やろうと思えばやれる。お前の覚悟ってのはそんなもんか?」
「そう言ったって――」
「いいから聞け!」
律が何かを口にしようとしたことを革ジャンのオッサンは手を前に出し、強引に遮る。
大声に律は思わずビクッとしてしまった。
「見ろ、ここにCB750がある」
ふと気づくと、目の前に先ほどまでなかったCB750の姿があった。
BIG-1仕様の方のCB750である。
ガシャン。
おっさんは愛車じゃないからどうでもいいとばかりにそのCB750をサイドスタンドのある左側を地面に向けて倒した。
「教習所じゃまるで持ち上げるみてぇにしか教えねぇからな。今からどんな弱者でも絶対に引き起こせる引き起こし方法ってのを2つ教えてやるが、片方は教習所で認めてねえ可能性がある。その前にまずは基本の方法を1つ見せてやる」
そう言うと、革ジャンの壮年の男がまず、どこかで見たことがある腰を入れてしゃがみこむようにして、まるで相撲の力士が回しを掴んで押し出そうとせんばかりに持ち上げる最も基本な方法で持ち上げた。
CB750はすんなり持ち上がる。
「イツツ……これは腰に良くねぇ……俺みてぇなジジイにはキツイ。次はこの方法だ。いいかよく見とけ、さっきとまるで違うからな!」
律はその様子を唾を飲んで黙ってみていた。
革ジャンの壮年の男は今度はうってかわって、ものすごく体制を低くし、バイクにまるで覆いかぶさるように寄りかかった状態となる。
左手は信じられないことに先ほどと異なり、レバー類を握らない。
左腕の肘より上あたりを器用にハンドルバーに当て、その上でボディ部分に手を当てる。
右腕なんと右側のクラブバーを掴んでいる。
まるで左腕に気を使うかのような方法であった。
「世の中、テコの原理ってもんがあって……な! フンッ!」
タイヤを地面に押し付け、それを滑り止めの支柱として使い。
足の力や腰の力など、体全体を用いてバイクを文字通り「押す」ような状態だった。
とあるスポーツ系TV番組でトラックを縄で引いていた時のような低い姿勢。
米国の映画などでガス欠に陥った車を押し出すようなシーンで見る低い姿勢。
持ち上げるのではなく、引き起こすのでもなく、「押し上げる」という言葉が正しく、
覆いかぶさった状態のままバイクを押し上げる。
律が見るに、体の状態は地面から大体20度~25度といったごく浅い角度をつけた状態で、片方の足は伸ばし、効き足とみられる右足部分は膝を曲げている。
その状態から先ほどよりも素早くCB750を持ち上げた。
「左腕の力は弱くとも、右腕と体全体でバイクを押しあげるようにしてやる。これが女性向きの力の弱い人間のやり方の1つ。そしてもう1つは教習所によっては禁止の方法だ」
そう言うと、今度は信じられないことにバイクに背を向け、尻を押し付けんばかりの体制をとった。
右腕をバイクの左ハンドルに押し付け、そのまま押し競饅頭のごとくバイクを持ち上げていく。
「あー楽ちん。なんでこれを禁止にする教習所があるんだかわからねぇ……」
先ほどの2回よりもさらに速い速度で持ち上げる。
「人間ってのはな、立ち上がろうとする時に一番力が入るような構造になってんだよ。だから今みてぇにまるで後ろに下がるかのように立ち上がるような構図になるほうが、前に進むように持ち上げるよりもパワーがあるわけだ。だから、この方法のためにハンドルと腰をくくりつけて引き起こすアイテムまであったりするわけよ」
すこし息切れした状態で、壮年の男は解説をする。
学がなさそうに見える男ではあったが、律にもわかるような説明を心がけている様子だった。
「いいか、運がよけりゃ今の方法を使えるが悪かったらもう1つの方法でやれ。やろうと思えばやれる。教習所ならずっこけなきゃ1回だけで済むのが引き起こしだ。気合で乗り越えろ。今すぐ乗りたくて仕方ねぇんならよ……やるしかねぇべ?」
男はそういいながら律の頭を撫でた。
「もう一度だけ最初のやつをみせて!」
その姿に再び火がついた律は最初のやり方について詳しく教えてもらうことにした。
衰えたとはいえ、瞬発力には自信があったためである。
「いいぜ、目が覚めるまで何度だって教えてやるよ……」
二人はそのまま何度も夢の世界にて引き起こしの練習を行ったのだった――
次回「引き起こしと岐阜のライダー」
次回、二人目のヒロイン登場。




