100点満点中80点の新車と、100点になった中古 (前編) ~岐阜美濃加茂市~
「なーるほど。1速はローギアだけどギアの噛み合わせの影響もあるから、Nから加速するならエンジン回しすぎずに発進して直ぐに2速に入れればいいのか。2速以上はある程度回せば、それなりに加速するんだ」
何度も試行錯誤を重ねた律は綾華のアドバイスなどもあって、ようやくクロスカブ110を乗りこなすようになってきた。
ギアチェンジはスムーズになり、スクーターにも負けない加速を見せる。
そのクロスカブを、後方から綾華の乗った黄色のスーパーカブが車間距離を近づけつつ、律に追突しないよう、やや道路右側に寄せた状態で併走する。
「そやねー。スプロケ弄っていないクロスカブなら3と4以外使わんでもええと思うけど、1速から加速させるなら直ぐに2速にした方がギクシャクせんね。律くんもカブを運転する姿がさまになってきたんやない?」
日も暮れた夕方。
買い物に出かける律と綾華の姿が街中にあった。
一度呼び出されて加茂レーシングに戻った律は、綾華と共に食事などの買出しに行くことになったのである。
本来はどちらか一人でも済むものだったが、律が今クロスカブに乗っているということを上田から聞いた綾華は律にカブの乗り方をレクチャーしたくなり、買い物がてらそれを行おうと画策したのだ。
そのため、本来は律に頼んで買いに行ってもらう予定が急遽短距離の買い物マスツーに変化した。
レンタル試乗のような状態から戻ってきた際に、律がライディングジャケット+GT-Airという姿だったので、
綾華は「そんな本格的なライダーな見た目でカブに乗らんでも」と、クスクスと笑ったものの、律には他にヘルメットなどを所有していないので現在もその状態のままである。
すでに買い物は終わり、律のクロスカブのリアキャリアには大きなダンボールが紐で括り付けられている。
中には食料や日用品がたっぷり詰め込まれた状態だ。
米なども5kgほど購入しているので、全体重量でおよそ12kgはある。
それでいてクロスカブは「カブ一族の俺がたかが12kg程度で音を上げるものか」とばかりに特段変わらぬ様子で大通りを走り抜けていた。
そのまま二人は帰宅。
綾華が夕食を作る間、律はクロスカブとアフリカツインを磨く。
上田がバイク磨きについてレクチャーしてくれるというので、彼からの教えを請いながら「バイク屋のバイク磨き」というものをやってみることになったのだ。
バイク屋のバイク磨き。
それは「水を使わない洗車」が基本。
コンプレッサーを用いたエアガンで埃を飛ばし、スプレー洗車や油洗車またはシリコン洗車と呼ばれる方法で磨くのが基本だ。
ようは「水」を極力使わない。
例えば、バイクでもオススメ製品とされている水無し洗車用品「フクピカ」だが、これはシリコン溶剤を基本としている。
律は以前からこれの常用者であり、面倒なのでこれ1本で済ませていたが、
上田は「金属部分はフクピカよりも油洗車の方がいいんじゃない? これは俺からのプレゼントだ。大した額じゃないから、そう心配しなさんな」と律に主張して、WD40を手渡した。
WD40。
日本、そして国外の検証大好き人間が検証して結果を出す高性能防錆浸透型潤滑剤。
バイク向けとしてはコスパ両立の最強クラスの防錆剤であり、これと同クラスの性能の防錆潤滑剤と言えばKUREの6-66がワンランク下に、同社のスーパーラストガードは2ランク上に位置する防錆性能。
一部でとても人気のあるラスペネは業務用として販売されるバイク店向けの商品が同等の防錆性能を誇るのだが、WD40は上記防錆潤滑剤の中で「最も安い」のが特徴。
スーパーラストガードは原液の色が茶色のために白系の塗装を変色させてしまう事から使い勝手は悪く、海岸線沿いに住むライダーにとって6-66とラスペネ業務用とWD40はいわば「錆対策のBIG3」という扱いだが、入手に難があるもののWD40が突出して安い。
スーパーカブの洗車系メンテナンスだと一部のカブマニアは「これ1本で全てやる」人間もいるぐらいであるが、本当に高性能でスーパーカブの弱点であるメッキパーツ保護などに有効な働きをする。
これらの防錆潤滑剤はその潤滑剤自体が生乾き状態で金属部品に張り付き、その溶剤自体が酸化することによって錆を防ぐ仕組みなのだが、当然にして「酸化しにくい」ほど優秀と言える。
逆を言えば油自体はどんどん劣化していくので定期的に塗布して常に一定の状態に保つのが好ましい。
前述のとおりWD40とラスペネ業務用はほぼ同一性能だが、量に対する価格ではラスペネ1本でWD40が4本分にもなるため、高性能を謳い文句に確かな品質で評価されるラスペネに4分の1の価格で並ぶというのがWD40がコスパ最強と言われる所以だ。
律は出先でも暇さえあればバイクを磨いているような人間であるが、常用しているフクぴかトリガーことシリコン溶剤もWD40同様、乾かずにそのままの状態で表面を軽く保護する効果があり、
メンテナンスがてらアフリカツインなどのボディを触った上田はそれを見て「これだけだと錆は防ぎきれないんだよなぁ」とかねてより思っていたが、
せっかくなので愛車を大切にする男に新たな洗車用スプレーとしてWD40を紹介したのである。
基本的なやり方はフクピカトリガーなどと同じで、錆が生じてほしくない金属パーツに塗布して、マイクロファイバークロスなどでふき取る。
これだけである。
バイク屋の場合は塗布した上でエアガンで砂や埃を吹き飛ばし、その上でもう一度塗布して塗装が傷つかないようにするのが基本作業。
上田は手取り足取り「傷がつきにくい」磨き方を律に教え、律はそれを実践することでクロスカブとアフリカツインは眩しいほどに煌いた。
まるでその輝きは「バイク屋の展示車両」のようである。
バイク屋の人間から教えてもらった方法で磨いたのだからそうなって当然なのだが。
そんな防錆潤滑剤洗車の弱点としてはシリコン系溶剤などと同じく「生乾き」になるので埃などが大量に付着しやすくなるというものがあるが、
律のように定期的に磨きつつも、水洗車のごとく洗車に長時間浪費したくない人間にとっては「些細な汚れ」でしかないので、汚れ具合を見て油の劣化状態を確認しながら磨きなおすのが理想と言える。
タイヤなど重要なゴム製品に対してはよからぬ効果を発揮するケースもあるので慎重な運用が必要だと言われるが、マイクロファイバークロスなどを有効活用することで飛び散るのは防ぐことが出来る。
慣れればタイヤ以外は完璧に吹きかけられるようになるので、後は場数だけの問題。
バイク屋においてある展示車両の場合、こういった溶剤を塗布したあとに極限にまで乾いたウェスなどを用いて触り心地に影響しないよう配慮して磨いてから展示していることが多いが、(ワックスを使うケースもあるが防錆剤の方が艶が出て錆も防げて一石二鳥)油洗車とはそれだけ割とバイク屋などではポピュラーなものなのである。
律はWD40という存在を知った上で製品ごと手に入れたことで、新たに金属部品の磨き方を獲得したのだった――
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そうこうしていると閉店時間になり、杉山と山本は帰宅。
杉山は、律と綾華が仲良く買い物に向かった影響で子鬼のごとく不満げな様子を見せていたが、
律は完全にそれを無視しつつ、それぞれに「お疲れ様です」と一言言って送り出す。
上田は店長代理としての閉店作業が終わってからの帰宅となったわけだが、どうやら光の帰宅が諸事情により本日の夕方頃から明日の早朝にずれ込むらしく、光と連絡を取りながら翌日の段取りを決めて作業をこなしていた。
律が「上田さんも一緒に夕食どうですか?」というと、「嫁が夕食作って待っているから」と言って丁寧にそれを断り、19時45分頃に帰宅。
律は「既婚者だったのか……」と驚いていたが、光と同い年ということなので年齢的には別に不思議ではないので「自分も、そろそろそういう歳に入ってきたんだよね……」などと、
「夫」として寄り道せず真面目に帰る上田を見送った後にややテンションを下げつつ、光の自宅部分の所へと戻り、綾華と一緒に夕食を食べたのであった。
光が帰宅したのは深夜3時ごろ。
律も綾華も就寝した後のことだった――
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「だからさ、KAMO Racingを見た時にも思ってたけど、一目見て誰が何をやってて、今預かってる車両はどういう状態で預かってるかわからないのってモヤモヤしない? 光兄はいちいち聞いて確認するの? 関与していない人間は現状だとまるで何も知らないのに。電話が来たと時にそのバイクの担当者じゃなかったとして、その人が外出中だったらいちいち折り返しさせんの? 例えば上田さんが何をやってるのか常に把握してる?」
朝6時。
加茂レーシング事務室内にて、律のハキハキとした言葉が反響する。
昨日自分が作ったシステムを律は光に説明していたが、光は「一体何をやっているのかすごすぎてわからない」というような表情でその話を聞いていた。
眠いので時折目をこすりながらも真剣に話を聞いている。
「つったってよー。いちいち入力とかしてたら、その時間が手間だし無駄だろ」
「だーかーらー。それ見越してICチップカードとバーコードシステムを応用したんじゃないか。そんなに詳しく判定するわけじゃないよ。この店でもあっちの店でも、1度そのバイクを担当したらその人以外触らないんでしょ? それをまずはデータベース上で紐付けしつつ、そのバイクが、修理で預けられたのか点検で預けられたのか最初だけ店内に配置したタブレットPCで入力しておけば、少なくとも今、誰が何やってるかは大体予測がつくでしょ」
律は事務室にあるタブレットPCをパタパタと操作しながら、光に言葉を投げた。
「ほら、顧客データベースとはすでにもうリンクさせたから、リアルタイムで確認できる方は会計が終わったら紐付けが無くなるようになってる。これで光兄がレースから戻ってきても、どの車両がどうなったか、この端末見れば一目瞭然でしょ」
律はデスクトップPCとタブレットPCの2つの端末を用いながら、昨日上田からも「覚えることが多すぎて何がなんだか……」と言われたシステムについて説明していた。
律が作ったのは4人分4枚のタイムカード兼社員証のICチップ内蔵カードを使い、顧客から預かってそのバイクを作業する者をリアルタイムで紐付けして常時確認が可能でありながら会計まで自動処理させるシステム。
加茂レーシングでは、山本が旧車主体、上田と光が特にジャンル分け無し、修行中の杉山は155cc以下のバイクとレンタル系車両(排気量制限無し)の整備に従事していたが、
加茂レーシングは認証工場となっており、(KAMO Racingは指定工場)この中で車検の作業も可能なのが杉山以外3名。
ただし山本は基本的に旧車のレストア依頼や、自身が手がけるレストア車両販売、旧車パーツのリビルド作業などを主としているので実質的に車検を行うのは上田と光の2名。
杉山は資格を所有していないので出来ないことになっている。
だが、その状態ですらそれぞれが「今どういう仕事を抱えていて」「何をやっているか」は口頭伝達。
律はたった数日しかバイク屋の様子を見ていないが、それだけでも口頭伝達による行き違いや勘違いなどが生じたちょっとした言い争いとまではいかない程度の掛け合いを何度も見ていたため、それを「無駄」だとした上で、
バイク屋はかならず顧客から仕事を請け負うのだから、その際に「何を頼まれたのか」は決まっており、
まず第一に顧客データを検索し、その上でワンボタンで「これから何をやるか」を入力して顧客データとも紐づいたリアルタイム業務進行状況一覧にデータ出力がされるようにし、
その際には最初の段階で「作業者無し待機中」と表示させ、その表記の作業待ちの車両をタブレットPC上にて選択した後に、
社員証とタイムカードが一体化していて個々のパーソナルデータが入ったICカードをカードリーダーにタッチさせると「○○が○○中(点検や修理など)」という形に表示が変更され、
その状態でその項目を再び選択すると「作業員を変更する」「作業を終了する」という二通りの選択肢が登場し、
前者を選択すると「作業者無し○○中」になって再びICチップ入りカードを読み取るような状態で待機するようになり、
後者の「作業を終了する」を選択すると金額入力が可能な画面に移動し、金額を入力すると、後々再び修正できるが、一旦その状態で「作業終了 会計待ち」で待機した状態となる。
会計の際にはタブレットPCをもちいて上記作業終了となった案件を選択し、「会計」を選択すればレジスターと連動して会計作業が可能で、
レジスターにて会計を終わらせると全てのデータがPC内の会計処理システム内に出力され、データがログとして蓄積されると同時にタブレットPCに表示されるリアルタイム進行状況の一覧からは消える。
顧客データの呼び出しはいちいち検索してたら面倒なので、加茂レーシングの会員カードを使い、それを読み取ると顧客データがパッと一気に出てきて「どの作業をやるか」選択できるようにしており、
ようは「顧客からバイクを預かり、会員証からパーソナルデータを呼び出し作業者と作業内容を設定」し、
その後「作業者」である4人のICチップとリンクさせれば、後は作業終了時にかかった費用を入力して会計を済ませれば全て自動化して会計処理までこなす一連のシステムを律は作ったのであり、
これによってタブレットPCを使えば「誰が今何をやっているのか」は大まかとはいえ、把握可能になる。
律は加茂レーシングのバイク屋としての特徴から「持ち込み修理」や「持ち込みカスタマイズ」なども多々ある点から、会員カードのデータを読み取った際には「愛車」として設定されているものを選択するか「その他」を選択することが可能なように調整し、
国内の既存の全ての販売車両をインプットしていて、メーカー名や排気量帯を選択すると車両データを簡易的に入力可能なように設定しており、(その他や外車という入力項目もある)
これによって常に「会員カード」を作った際の愛車が持ち込まれずとも対応可能なようにしておいたのである。
作業請負時刻が表示されるので、優先順位を間違って作業していないかもリアルタイムで確認できる。
これまでの掛け合いでは、4人がそれぞれ複数の作業を平行して行っている際に商談などを持ち込まれて誰かが離席。
その際に作業中で忙しい誰かが新たに作業を請け負うも、手が空いていないので他の誰かに回そうと請け負った内容のメモ書きだけ書いて貼り付けておき、そのバイクをとりあえず放置。
この時にメモ書きがどこかに消えてしまうと、メモを書いた人間は「メモが無くなったので誰かが作業を引き継いだ」と誤認することがあるらしく、
その結果車両が放置されて「クレーム案件」になって「誰が悪いのか」みたいなやり取りをやっていたのを律は目撃していたが、
律から言わせれば「全部機械化しろ」と言いたくなる話であって、今回のをいい機会だとばかりに律は加茂レーシング内に光が新たに購入してきたタブレットPC3台を使い、それぞれを事務室と会計レジに配置し、会計レジ近くのものと事務室にある2台は作業系入力が出来るよう調整。
事務室に配置したもう1台は休暇などの予定入力などが可能な端末として、3台全てが事務室にあるデスクトップPCにリンクされるようにしていた。
デスクトップ上からは「リアルタイム進行一覧」も「スケジュール表」も確認できるようになっている。
作業系入力端末は当然にしてリアルタイム進行状況の表示も出来るようになっていたわけだが(デフォルトがその表示で、タッチすると作業入力画面に移行する)、律からすると「1人1台、この端末を所有していてもいい」ぐらいであった。
「最終的には1人1台タブレットもってリアルタイムの状況確認しながら作業ができるようにしたほうがいいとは思うけど、今あるものだけで出来るようにした。バイクの売買関係もバーコードなどを利用して自動処理できるようにしておいたから。とにかくタブレットPCのOSをWindowsにしてくれてた助かった。AndroidやMacにされたらこうはできない」
律は上田から借りた上田の社員証兼タイムカードを使いながら一連のシステムを説明し、今後レシートには必ずQRコードを印字して、そのQRコードを読み取ってバイクの売買記録なども会計処理できるようにしたことなどを光に伝えた。(返品やキャンセル処理、過去の整備データとの照合などが出来るようになった)
そのためのマニュアルも昨日の時点で作り終えていたわけだが、すでに昨日の時点で上田をテスト要員にして稼動テストを試みており、上田が現在どういった作業を行っている最中で、どういう作業を終えているのかといったものが確認できるようになっていた。
当初戸惑っていた上田も、「覚えれば割と簡単」なシステムゆえに16時頃にマニュアルを渡されてからちょいちょいと試しはじめて閉店時刻の頃には使いこなしており、30代の男が2時間程度あれば覚えられる程度の内容でしかなかった。
一連の入力のおかげで昨日上田が行ったすべて作業と作業継続中のデータは全てデスクトップPCや作業入力用タブレットから確認できるようになっている。
律は「例えば上田さんと光兄、どっちが効率よく仕事できているかなんていうのは今後目に見えて分かるようになる」と、
上田がすでに7件以上の作業を終えて会計処理をする傍ら、それらの作業にどれだけの時間をかけたのかわかるように出力させていたが、
律が手に持つタブレットPC上には、上田がオイル交換などは20分未満、各種点検も15分程度で終わらせていることがハッキリと過去ログデータという形で表示されており、
データが蓄積されればエクセルなんかを使えばクレーム数などと比較して誰が最も「優秀な整備士か」透明化できると胸を張って主張していた。
「もちろん、自動車整備をしてるわけだし速さだけが全てじゃないのはわかってるけどさ、現場の人は作業の状態が荒いのか丁寧なのか、終わったバイクを見ればわかるはず。そこと時間を比較すれば答えは自ずと出る。上田さんは3台ほど担当している作業が残っているが、車種も作業内容も全て書いてあるでしょ」
律はリアルタイム進行一覧を見せ、上田が「どの顧客」から「何の車種」を預かり「どの作業を請け負ったままにしているのか」がわかる状態であることを作業途中のバイクも見せながら証明し、
「後はもう、不具合とか運用上の使い勝手とか試してみるだけだから」といって光に全てを押し付けたのだった。
最初は「非効率ではないか」と考えていた光だが、律から「俺は一切、代替入力などはやってない。一連のデータはあの人が自分で入れたもの」と言われ、
さらに自分で少しばかり試してみても1つの入力に5分も必要ない程度のもので、今までの「手書きによるメモ書き」などから比較すると圧倒的に使いやすくなっており、
「とりあえずコンピューターオンチの山本サンにも使えるか試してからKAMO Racingにこいつを導入するかは検討する」と、眠気を抑えるために体の筋を伸ばしたあとに応えるのだった――
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朝食を三人で食べた後は光は開店準備にとりかかる。
律は昨日の時点でNC750Xのレンタル予約を済ませており、本日はNC750Xで近場のどこかに出かける予定だった。
平日だったために学校に行かねばならず、マスツーに出かけられない綾華は残念がったが、律は「NC750X次第でそのまま数日中にさらに西に行くことになる」と言って
「いついなくなってもいい余裕のある心構えでお願いね」と、綾華に「ごめんね」と手を合わせながら謝罪交じりに自分の我侭を押し通した。
綾華は律の気持ちを理解していたので「そんなに遠くないなら土日になったら追いかけるだけやから!」と言いながら笑い、そのまま朝早くにスーパーカブで高校まで登校して行った。
そんな和気藹々とした兄妹のようなやり取りを見ていた光は心の中で「(オートレースが終わったらいろいろ環境が変わってタイムワープした気分なんだが……)」と、自身の周囲においてめまぐるしく変わる環境に眩暈がしていた。
「そういえばさ、俺のCBどこ行っちゃったの? 見当たらないんだけど」
律は初日に訪れた頃から自身のCBの存在がまるでなかったことを光に問いかけた。
昨日会計システムの動作のために確認していたシステムデータ上のバイクの在庫状況でも、まだ「売却済」とはなってなかったので売れていなかったはずだが、なぜかバイクがないのである。
「近日中に売れる。お前のアフリカツインと同じでこの店の常連の一人が気に入って試乗してもらってる。この店にはもうこれしか残ってない」
光はそう言って見せたのは、チューブがプラーンと垂れ下がったスコットオイラーであった。
律はそれを見てハッとして硬直する。
「あ、それは!!……外しておいてって言おうと思って忘れてたスコットオイラー!」
「だろうと思って外しといた。他はCB400用のパーツしかないけど、こいつとかナビ用ステーは汎用品だからな。お前が新しく買う大型二輪に必要なら取り付けてやるよ。工賃はCB400の買取価格に入ってると思ってくれていい。車両整備費用も買取価格には含めるからな俺は」
光はそう言うとスコットオイラー以外にも他のバイクにも流用できて、かつCB400を中古販売する上では不要と考えて同じく取り外したナビ用のステーや細かいパーツ類などをまとめた箱の中に丁寧に仕舞い込んだ。
「NC借りるのはいいけど、多分すぐに結論出ると思うぞ。そんな奥深くない車両だから。悪いって意味じゃない。アフリカとそんな大きな差がないんだ。乗れば俺が言いたいことがわかる。んなこと言うと雑誌記者なんかからお前の体幹はお粗末だとか言われそうだが、多分お前なら俺の言いたいことがわかると思う。2時間か3時間乗れば答えが出るよ。間違いなくな」
「何? 何か手伝ってほしいことでもあるの?」
律は光の様子から、何か頼みごとでもあるような印象を抱いていた。
普段なら「好きなだけ乗り回して来い」と言いそうな男がなぜか「3時間で切り上げろ」と言わんばかりの様子を見せるのには違和感がある。
こういう時、そういうことを言う際には「その後にやってもらいたいことか何か」裏心のようなものが光の性格であり、律は20年以上に及ぶ関係でそれをよく理解していたのでそのような言葉を発したのである。
「49日。こういえばお前もわかるだろ。今日がその日だ。ちょっと付き合ってほしいんだ。今6時40分だろ。49日の法要は10時から。NCは開店前に乗せてやるから、9時ごろまでにここに戻ってきてほしい。ダメか?」
「乗り足りなかったら、後でまたNCに乗せてもらえるなら」
律は前向きである意思を手を用いて示しながらも、もしもの場合にそなえた保険をかけた。
「いいよそれで。どうせ明日もそいつは借り手がいないから。よし、じゃあ今からNCで出られるように準備すっから、お前も出かけられる準備しとけ」
光はそう言うとNC750Xをレンタル車両展示スペースから引っ張り出し、点検などを行いはじめたのだった――
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「DCTの操作方法は若干違う。つっても以前のアフリカツインもこの操作方法だったんだが……それはさておき、なんてことはない。S、D、Nとそれぞれ書かれたスイッチを押せばそうなる。インジケーター上の表示を見て調整すりゃいい。この、いかにも後付っぽい左側にあるTマークのスイッチがトラコンな。アフリカツインと違って2段階しかないし、初期段階を保存しておく機能すらないが、こいつの場合は設定が絶妙で常時二段階にしとけば十分」
あれから10分。すでにNC750Xは外に出され、いつでも出発できる準備が整っている。
律は急いで着替えを済ませ、出かけられる格好で表に出て光から乗車説明を受けていた。
「アフリカツインと違うのはパーキングブレーキな。あっちとは違ってDCTにクラッチレバーのようなものは無い。左側にあるこいつを引くと……」
光がハンドル左側にある空力を意識したデザインのレバーを捻ると、カチッとボタンが飛び出てパーキングブレーキがかかる。
インジケーター上には「P」のマークも点灯した。
「わかってるとは思うが、パーキングブレーキはかけとけよ。でないと普通に滑っていくぞ」
「車と同じ要領だから忘れることはないよ。むしろ通常の車両にも欲しいぐらいだし」
「ならよし。解除する場合はこのボタンを押せば解除される。アフリカツインよりブレーキ解除方法はシンプルな操作だ。まぁ俺はこのパーキングブレーキの出っ張りが無駄だと思うからあっちの方式のがいいとは思うが、こいつはナックルガード標準装備じゃないからそうしなかったんだろうな」
光は転倒した際のパーキングブレーキの影響を考えるとナックルガードが無い状態での転倒は破損リスクがあるため、NC750Xはスクーターに標準装備されるようなパーキングブレーキの形式になったのだと主張し、
その分ハンドルバー付近はアフリカツインと比較してゴテゴテしているので自身の好みではないと言いながらも機能を全て説明した。
律は一連の説明が終わった後にNC750Xに跨る。
2018年からLDモデルオンリーとなってしまったNC750Xは普通の方法で乗れてしまうシート高800mmではあるが、870mmにローシートを仕込んで840mmとしたアフリカツインに対し、
純粋な国際標準仕様ですら830mmと低いNC750Xからさらに30mmローダウンさせたNC750Xは跨ると両足が普通に接地してしまうほどだったが、シート自体がやや幅広のもので足つき自体は、仮に同じシート高に調節したアフリカツインを想定すると悪い印象があった。
840mmのアフリカツインと800mmのNC750Xは大きく違う感じはしないのである。
ようはシート形状をシート高で調節しているような、そんな気が律にはしたのであるが、
実際それはあながち間違ってはいなかった。
シートの横幅だけ考えれば座面の広さはNC750Xの方がやや横に広い。
律はこれまでの経験からそういう目には見えにくい違いを体感で理解できるようになっていた。
すでにヘルメットも被った律はまずはNの状態のままアクセルを煽って様子をみる。
感触としてはそうアフリカツインと変わらない。
カブとは違い、そこまでスロットルを捻らなくても十分加速しそうな印象であった。
急発進のリスクを考えてちょっと操作してみた律だが、それを理解すると光るに対し――
「じゃあちょっと行って来る」と言い、DCTのモードをDにしてそのままゆっくりと発進させた。
ガチッというギアチェンジ音のようなものの後に、ドドドドドドドゥというパラツイン独特の音を奏でながらNC750Xは発進し、手を振る光を尻目に加茂レーシングを後にした。




