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沼田にある村民3000人の村が作った関東一の道の駅(後編) 栃木→群馬県(沼田市→川場村)

 日光湯元を通過した律はそのまま山側へと120号線を進む。

 あたりにはまだ雪が積もる場所があるが、冬タイヤ規制はされていなかった。


 このあたりは冬季に路面が完全凍結してしまう地域。

 真冬だと最低気温は-17度といった状況。

 生半可なバイクで訪れると行動不能に陥りかねない。


 そのまましばらく進むと湖のようなものが見えてきた。

 律はどういう名前の湖なのかとナビを見て見ると、ナビには「菅沼」の文字。


 そう、沼である。

 ボートなどで湖などのように楽しむ事ができる場所であるが湖ではない。


 そのまま走るともう1つ湖のようなものが見えてきた。


「……これも、沼なのか……」


 ナビの縮尺を変更して名称を確認すると「丸沼」と書かれていた。

 これらは両者共に白根山の火山によるせき止め湖。

 沼というには広すぎるが、正式名称で「沼」とされている。


 付近にはキャンプ場やペンションなどが立ち並び、丸沼の近くには白根山ロープウェーがある。

 紅葉の時期になると「丸沼高原」と呼ばれるこのあたりは多くの観光客で賑わうものの、現在のような冬明け直前でもペンションなどが盛り上がりを見せる。


 近くにはスキー場などもあり、秋~冬にかけて観光客が多く訪れる。

 実は日光湯元よりもこちらの方が食事などに困らない。

 やはり近年のキャンプブームやスローライフブームというのが尾を引いているのだろう。


 あの混沌とした昭和な佇まいよりも、閑静な森の一角にあるペンションの方が環境も整っており人気である。


 というか、価格面で日光湯元と変わらない。

 そのあたりも、この周辺の方が人気がある理由となっているのだろう。


「いいよなぁ……こういう所に別荘とか……さ」


 暗がりにボンヤリと明かりがついたペンションは目視すると明らかに木造であり、森に潜むファンタジックさに律は妙に惹かれ、ついついそんな言葉を口走ってしまう。


 CB400SBには明らかに不釣合いな建物が多く並んでおり、オールドネイキッドやアメリカンなバイクが似合いそうな感じがしたのだった。


 律が今走る日本ロマンチック街道自体はSSスーパースポーツなどもよく走り抜ける景観に優れたワインディンを楽しめる道であり、多くのライダーが行き交う場所。


 しかしライダー自体は湯元にもこのあたりの高額なキャンプ地においても足を休めることは殆どないという。


 やはりライダーというものはある程度節約したいと思う人間なのだろう。

 律もまたお金はないわけではなかったが、そこで休むようなことは考えずに沼田まで向かう予定であった。


 このあたりの場所についての宿泊も考えようとインターネットをめぐって見たが、最低金額が1万2000円などからとなると迂闊に手を出しにくいのだ。


「もっとお金を貯めて、時間にも経済的にも余裕ができたらこういう所に泊まってみようかな……」


 律をノスタルジックにさせるような環境の場所にひっそりと佇むペンションの姿を横目に、今日の目的地である沼田へとCB400を走らせたのだった。


 そのまま120号を走り続けると群馬県は片品村へと入る。

 

 片品村。

 あの有名な「尾瀬」を抱える自然豊かな地域。

 ネット上で嘲笑される「グンマー」な地域そのものな感じがする場所ではあるが、実はこの地には大昔より人が住んでいたとされる。


 各地を掘り返すと「縄文土器」などが大量に出土し、このあたりには大規模に集落が展開されていたことがわかっているが、これはなぜかというと当時の日本人が狩猟民族だったためである。

 稲作などが開始される弥生時代に入る前の段階において海岸沿いに住む者は少なかった。


 人々は高台を目指し、山を目指す。

 畑という概念が無い時代においては野生の作物と野生の動物が重要な食料源なのであるから、当然山を目指すことになるのだ。


 片品村は栃木県だけでなく福島県との県境でもあり北東の端に位置する場所。

 この場所では寒冷地でもあまりに寒すぎて作物がまともに育たず、弥生時代の形跡が殆どないまま古墳時代へと至る。


 その後は寒冷地向けの作物などで栄え、江戸、明治時代においてはタバコや養蚕などで生活を成り立たせていた。


 ちなみに有名な話があるが、片品村は真田の領地であったにも関わらず六文銭のマークが各地にみられない。


 真田が関わった地域では殆どが真田家へ敬意をこめてそういう神社や建築、構造物などを建てていたりするが、片品村は全くないのだ。


 それはなぜか。

 この地は作物に恵まれなかったため、当時真田家が統治していた沼田藩からこの地域のみ特段の重税を課された事があり、非常に苦しんだためである。(原因は身内の内部抗争というか後継者争い)


 その結果、幕府から真田家が領地を取り上げられた後も混沌とした状況が続き、何度も騒動が起きるが、古くから真田家に良い思いをしてないのは今でもミームとして伝わっているようで、信じられないことにNHKの大河ドラマ「真田丸」がヒットを飛ばした際にもまるでこの村で村興しのようなことは起こらなかった。


 全国の関連各地があやかろうと六文銭の旗を掲げていたのにである。


 余談だが、その時はまだ歴史の事実を知らぬ筆者はそれを不思議に思い、現地を訪れた際に現地の老人にそのことを聞いたのだが、「昔から真田は敵だと教わって育ってきたからそりゃあねえ」と上記の経緯を笑いを交えて教えてもらった。


 九度山や上田市周辺や律の通った嬬恋村つまごいむらとはまるで状況が異なっているのは正直言って驚きである。


 余談の余談となってしまうが藩が廃止された後に廃藩置県となった際、群馬県が生まれた時に片品村が群馬県の中に入ったのは沼田藩が新政府軍として戦った影響があり、村民は明日をかけて当時の沼田藩の領主であった土岐頼知と共に参戦したが、この参戦理由には真田家の暴挙を許した江戸幕府に対する遺恨が多分に含まれていたという。


 結果的にその行動から群馬県となったこの地は福島県や栃木県にするかどうかも検討されていた事を考えると、その行動が正解だった……のかは正直言ってわからない。


 ただ、第1次群馬県にこの地が含まれていた事を考えるとその行動は必ずしも間違いではなかったのだろう。

 そんな上州の地を律は走り、そして沼田市へと入っていく。


 途中、いくつか温泉施設があったもののそれには目もくれず、吹割の滝すら無視して一路沼田市の今日の寝床へと向かった。

 疲れていたためであった――。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ファミリーロッジ旅籠屋・沼田店へと到着すると律はCB400を停車させてバイクカバーをかけ、バッグ一式などを全て取り外して持ち込みつつ、チェックインを済ませ、そしてそのままホテルの室内へと進んでいった。


 到着するとまずは歯を磨き、その後で風呂に入って身を清め、ミッドシートバッグに何かあった時のためにと突っ込んでいたスポーツシャツとハーフパンツの寝巻きに着替え、そのままベッドに転がり込む。


 終始無言。

 流石に体力の限界であった。


 寒き夜の山道は必要以上に体力を削り、律の体を蝕んでいた。


 左手はCB400のやや硬いクラッチによって限界になっており、握力が落ちている。

 それでも以前よりかはかなり握力が維持できるようになっていた。


 律はそのまま意識を失う形で眠りについたのだった――


 ~~~~~~~~~~~~


「はっ!?」


 翌日、またもや夢も見ることなく一瞬のうちに目を覚ます。

 数秒の感覚だが数時間経過している。

 現在時刻8時。


「いって……」


 起きてすぐに律にヒリヒリとした痛みが走った。

 太ももからであった。


「あーもうっ……ニーグリップで……」


 ハイオクを入れていたとはいえ、カーブ時にリーンアウトの姿勢をとった際に強くニーグリップした影響により律は太ももを焼けどしていた。


 WR250Rではそのような事はなかったのでCB400によるものと思われる。

 やはり走行中は興奮しているのか痛みを殆ど感じず感覚が鈍くなっていた。


 しかし律も対策を怠っていたわけではない。

 軟膏などを持ち込んでおり、それを塗って対処する。

 それらによって多少痛みは和らぎ、律は朝食を採って次の行き先を考える事にしたのだった――。


 朝食時に係員にここらでオススメの場所などないかと問うと、「川場村」という言葉を投げ返される。


 律がまるで知らぬこの地域名、一体何なのかとしばし沈黙していると、なんとそこに「関東一の道の駅」があるというのだ。


 その名を「川場村田園プラザ」というのだという。


「それと吹割の滝は見たかい? いい所だよ。合わせて向かうといい」


 ニッコリとした笑顔でそう応える様子から、本当にオススメできる場所なのだろうと律は理解した。


(なんかそんな場所を通ったことがあるような……)


 律はなぜかその言葉に当てはまる文字が記憶の片隅にある。

 近くを通った、そんな気がするのだ。 


 朝食が終わった後、部屋に戻り荷物を整理しながらそんなことを考えつつ調べていると、案の定、律が昨日通った120号線沿いにあった。


(近くでよかった……同じ道を何度も走りたいとも思えないし、もし遠くだったら……)


 律はスマホの地図を広げ、川場村と吹割の滝を周回できることを知り、まずは滝に向かい、その後で田園プラザへと向かうことにする。


 田園プラザのオープン時間が10時であり、昼飯がてら向かおうというのだ。


 現在時刻9時。


 歯などを磨き、すでに朝食も食べたのでお腹一杯といった様子で、先に川場村に向かう利点などなかった。

 有名な場所ならば朝のうちに行かねば人で埋まるという考えから、人が少ない間に向かう。


 準備を整え、シャツなどの着替えを済ませると律はそのままファミリーロッジ旅籠屋を後にしたのだった――


 ~~~~~~~~~~~~~~


 再び120号線で来た道を戻る。

 15分もかからないうちに吹割の滝の駐車場が見え、律はそこにCB400を停車させた。


 吹割の滝。

 溶結凝灰岩を大量の水が流れて浸食して生まれた滝。

 国が名勝に指定する「瀑」に区分する観光名所である。


 なんといっても圧倒的な水量が魅力のこの場所は、水が流れるすぐ近くまで歩いて向かうことが出来る事から外国人観光客も多く訪れる。


 周囲の植物の影響で紅葉などのシーズン中ともなると多くの観光客で賑わうものの、春先の現在、まだ人はそこまで多くなかった。


 律はカメラを持ち込み、案内に従って川を下ったが、その圧倒的な景観にそれを評価する言葉すら思いつかない。

 只管に豪快、そして川の音しか聞こえないほど周囲は物静か。


 どんな言葉も水の中に吸い込まれていき、不平、不満による愚痴を叫んでもかき消されてしまうような力強さがある。


 そしてそんな汚い言葉を述べたくなくなるほど川の水は美しく透き通り、大量の水を下流へと送っている。


「知らなかった……群馬にこんな名所が……でも夜に通っても意味無かったな」


 群馬というと富岡製糸工場や尾瀬などのイメージしかない律は、その自然が生み出した存在に圧倒されてしまった。

 デジカメで必死に何枚も写真に収めるが、どうも写真写りが悪い。


 この目で見なければその美しさと力強さは理解できない。

 ハッキリとそう理解できる。


 周囲の木々によって日が遮られた川は光を殆ど反射することもなく、川底を見事に映し出している。


 ここは「音」「水しぶき」「川独特の冷気」の3つが合わさって初めて成立している場所であるのだと、律も理解することが出来た。


「バイクがあればこういう場所にも何度も来れるようになるんだよね。東京から100kmちょいでこういう場所があるんだ……」


 まだ見ぬ場所にこういう所があると思うと、ワクワクして武者震いする。

 律は川の流れを見つつ吹割の滝について調べると、明治初期の頃、かつて存在していた冒険家と名乗る者達もこのあたりを通ってその美しさに圧倒されたということを知った。


 (そりゃそうだ。これを超える場所がそうそうあるわけがない)


 そのまま20分ほど周囲を見回り、

 関東にひっそりと佇む吹割瀑と呼ばれるこの場所に満足した律は次の目的地へと向かう事にしたのだった――。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 吹割の滝を後にした律は120号を北上する。

 目的地は「川場村田園プラザ」である。

 スマホで調べたところ、山間のワインディングの良さそうな道を見つけ、そちら側から回り込んで向かうことにした。


 県道64号であった。

 目的地まではどちらも距離的には同じである。


 北上した律は120号を進む途中「尾瀬市場」などという看板が掲げられた場所を目撃する。

 無料の足の湯が提供されている市民市場のような場所であるが、興味本位でそこに入ってみることにした。


 中にはレストランや土産屋が広がっており、食事も中々に楽しめそうだったが本命は川場村なので、ほどほどに過ごしてそのままこの場所を後にした。


 そこから10分ほどすると信号のある交差点があり、そこから左折すると県道64号へと入っていける。


 県道64号。

 またの名を「奥利根ゆけむり街道」という。

 街道沿いにはいくつもの温泉施設があり、片品村が経営する花の駅、花咲の湯などが有名。


 道沿いにある殆どの温泉施設が飲食も提供している上に冬季でもバリバリ営業していることから、こういった施設が充実するためこの辺りでは食事にまるで困らない。


 本当に困った場合は沼田市のど真ん中まで向かえばチェーン店のレストランなどもあるが、この辺の地域特産物を利用した料理は美味であり、休日になるとそれなりに多くの観光客が訪れる。


 また地元住民のたまり場ともなっており、昼食を採りながら談笑する姿を目撃することが出来る。

 律は「こういう場所もいいけど共同浴場ってあんまり好きじゃないんだよなあ」などと考えつつ県道64号を西へと進み、20分ほどするとついに目的地である川場村へと入った。


 川場村。

 村民約3000人の小規模な集落。

 提携都市は世田谷区であるが、平成の大合併の際、この村は信じられないことに本気で「世田谷区」と合併しようとしたことがある。


 つまり群馬のど真ん中に「東京都」が生まれる可能性があったのだ。

 もし本気で生まれていたら群馬はネット上でさらにネタにされていた事だろう。


「群馬の奥地の山奥の集落にはなぜか東京都の特別区が存在し、彼らは都民で区民で都知事選などに投票する」などといったことになり、都知事選になると候補者はそこに向かうことになったのだろうか。


 当時、双方は本気で検討していた際に政府や都、県は「法的には不可能ではないが……」としつつも、手続き上の問題などから元来は「島」などに許された遠隔地における扱いを内陸、それも本州に生むのはどうだろうかという事になり、最終的に全てを白紙にして合併自体を取りやめた過去がある。


 尾瀬という一大観光地を抱える片品村、鬼怒川温泉などと並び寂れて廃墟だらけとなった水上温泉を抱える水上町、そしてすぐ近くにある沼田市、こういった地域との合併話があったにも関わらず、川場村は3案だけ提示し、一切合併しない1つ目の案と沼田市と合併するもう1つの案とは他に出したのが世田谷区との合併なのである。


 そんな不思議な経緯をもつ川場村であったが、ここの村民の底力は凄まじい。


 1990年代後半。

 少子化の波はまずこういった地域に訪れ、国や県は地域の再編成を余儀なくされる。


 今後訪れる過疎の波。

 そうなった際に生き残るにはそれまでの名を捨てて、別の地域と統合するしかない。

 そんな状況が関東地方にもあったわけだ。


 これが先ほど話題とした平成の大合併と呼ばれるものの動きである。

 群馬県も周辺地域は川場村、片品村、昭和村以外の町村は全て沼田市に再編された経緯をもつのだが、その中でも村民が少ないのが川場村だった。


 しかし、様々な村興しの活動によって川場村は2000年に過疎地域を離脱。

 これはつまり「人の減り方が緩やか」ということを意味している。


 この修羅の時代とも言うべき少子高齢化時代において、村民の年齢層を見てもそれなりにバランスが整っており、周囲には平均年齢60歳以上なんていう町村があったことから比較すると10代~40代までが均等に揃ってある程度の数を確保しているというのは珍しい例なのだ。


 そんな川場村といえば、酒やリンゴでとても有名な地域であり、日帰りや1泊程度のバス旅行の中継地の名所として「原田農園」が有名だ。


 川場村は知らぬという人間も旅行好きだと「原田農園」という言葉を出すと反応することであろう。(お土産やレストランなどの複合施設であり、サービスエリアのようなもの)


 しかし、逆を言えばそれまでここは、リンゴ狩りやぶどう狩りなどの農園を除けばそれぐらいしかなかったのだ。


 だが原田農園はあくまで「バス旅行客」の立ち寄り中継地点。

 中継地点として立地的に優れる川場村は、なぜかそれを抱え込むような存在がなかった。


 そんな時である。

 川場村出身のとある企業の社長が「道の駅を作ろう」と言い出したのは。


 丁度、1990年代後半、過疎化が現実的に嘆かれはじめた頃だった。 

 そんな中もがく当時人口4500人程度のこの村は、この地に最終的に50億円以上にのぼるすさまじい投資を行い生き残りをかけたのだ。


 1996年に組織が発足すると、まずは牧場関係の加工施設を作り、以降は順次増築して道の駅の規模を拡大していった。


 この場所が注目され始めたのは平成25年頃からである。

 施設の規模が充実し現在の大規模となった頃からだ。


 元々中継地点として優れた場所にある川場村において、リーズナブルな価格で良質な農産物や現地の畜産物そのものやそれらを用いた料理を提供することから、口コミなどによって広まり、訪れる者が増大していった。


 現在では年間120万人という凄まじい数の者が訪れ、国土交通省も「道の駅のモデル」として評価し、関東随一の人気度と売り上げを誇る一大施設として名を馳せている。


 その売上げ利益「年間30億円強」

 施設に投資した額はすでにここ数年で全額回収済み。


 村の生き残りをかけた一世一代の賭けは見事に成功を収めたのだった。

 人口3000人程度の村が、年間30億という凄まじい利益を叩き出すに至ったのはそれだけ優れた農産物や加工品を提供できる力が元からあったということだけでなく、


 村民の村の存続への意思の強さや協力体制あってのことであろう。

 周囲にはスキー場や温泉施設などに恵まれ、日光まで1時間程度で向かえる立地の良さと合わせ、ワインディングに優れた道にも囲まれたこの場所には多くのライダーも集まる群馬の一大拠点である。


 行けばわかることだろう。

 P-7と書かれた駐車場を見た時、その規模の大きさの違いを理解する事ができる。

 第七駐車場まである道の駅など関東に他にあるのだろうか。


 しかも近年は道の駅のすぐ近くにガソリンスタンドまでこさえてしまったほどだ。

 完全に今の日本の過疎地域と真逆の方向へと進む発展具合である。


 休日、それもシーズン中ともなれば凄まじい数の二輪、車、大型バスが押し寄せ、レストランなども満員状態となる。


 律もその光景に目を疑った。

 まず目に入ってきたのは巨大な電光掲示板による駐車場の案内である。

 P1~P7まであるだけでなく、それらの混雑状況がまるでサービスエリアのごとく表示されている。

 そのようなものは今まで目にした事がなかった。


 二輪専用駐車場には凄まじい数のバイクがすでに停車されており、美しく整備された施設の周辺には多くの人で賑わいを見せている。


「こ……こんな山奥の村にこんな施設が……!?」


 旅を扱う雑誌などを見たりしたことがない律は、あくまで口コミに近い形でその場所を訪れたが、その施設の広さ、駐車場の規模、そして道の駅を行き交う人の多さに圧倒される。


 それはまるでテーマパークであった。

 ここは温泉施設や宿泊施設もあるばかりか、信じられないものが存在している。

 それは「SL」である。


 歩いて15分、車なら5分の距離に田園プラザのホテルが存在するのだが、その裏手に「本当に走ることが出来るD51」が存在している。


 村興しの一環として持ち込まれたかつて北海道で走っていた「D51-561」であるのだが、信じられないことに「ただの見世物」ではなく本気で走ることが出来る。


 これが実は凄まじい存在なのだ。

 2016年。

 逝去してしまったとある機関士がいる。


 その者は流体力学などの技術に長け、村興しの一環で持ち込まれたSLを再び走らせようと協力してくれたのだ。


 しかし問題は「蒸気機関車として蘇らせるには多額の資金が必要」なこと。


 蒸気機関車というのは今現在生き残っている大半の車両が耐用年数を過ぎたものであり、元々酷使されて使われる存在だったため、生態保存された車両を動態車両として復元するには保存状況等、様々な条件を満たさねば揃わなければ行えない。


 この時村に持ち込まれたD51-561は元々生態保存を前提としていた車両。

 ただし、各地でSLファンが血の涙を流すような適当な保存方法ではなく、しっかりと丁寧な保存が行われているため「お金さえあれば復活できる」とは言われていた。


 だがそのお金など地方の人口3000人の村が簡単に捻出できるわけがない。

 当時すでに田園プラザが管理していたそのSLは、客車をホテルとして改装し、SLホテルとして展開されていた。

 D51はその先頭車両だったのである。


 しかし長年の運用により客車が老朽化すると、田園プラザは年々売上げが増加していた影響で本格的な和風ホテルを新たに設置。


 そんな最中、「SLを復活させないか」という機運が高まった。

 そこで中心的に活動したのが大日方さんという方である。


 彼は元々、本物の機関士でさらに整備なども出来うる蒸気機関車のスペシャリスト。

 国鉄を退職した後、ダンプカーの運転手をやっていたというが、自身が偶然訪れた御世田という地域にて保存された車体がまだ復活させられそうな状態でありながら朽ちていく様子に心を打たれ、修復を直談判。


 そして彼は己の脳髄に眠る全ての技術を結集し、機関車を別の方法にて作動させる方法を考案する。


 それが圧縮空気である。

 元々ピストンを蒸気で動かす蒸気機関車。

 高熱の蒸気は凄まじい圧力と熱によって少なからず車両にダメージを与えていく。

 そしてその結果、単純にボイラーなどを再整備して蘇らせたとしても元通りの走行など出来ないような状態となっている。


 SL修復活動にてこの一番の問題が「熱」であることは有名であったが、その対処方法に一早く気づいたのが大日方さんなのであった。


 ようは「ピストンを動かすだけでいい」という事から「同じ圧力の空気を送り込んで機関車を動かせないか?」と考え付いたのだ。


 ハッキリ言えばこの活動は、それそのものが10話ぐらいで別のストーリーとして展開できる話なのだが、詳細情報があまり残っていない上、当人が亡くなってしまい半ばロストテクノロジー化している部分があるので今後どうなるかわからないが、とにもかくにもこの手法によって「鳥取県のような地方の過疎地域」ですらSLを走らせることが可能となった。


 500万~1000万円ほどで修復すれば、蒸気機関車は圧縮空気機関車として走行可能になる。

 通常の修復方法では修復後の整備、維持費用も含め天文学的な額がかかることを考えれば非常に安価といえよう。


 特に蒸気機関車の生存を左右する軸焼けについては高熱が最大の原因として元来言われ続けてきたことから、やろうと思えば冷やすことが出来る圧縮空気というのは凄まじい可能性があった。


 方法はこうである。

 ディーゼルエンジンにて生み出した圧縮空気をボイラーなどを通して送り込み、その圧力によって蒸気ピストンを空気で稼動させる。


 つまり殆どの既存のコンポーネントを再利用できる。


 ディーゼルエンジンと燃料は元来石炭を積載していた所に搭載すれば良い。

 蒸気ピストンはかなりの圧力に耐えられる上、空気の圧力もかなり高く、車体全体がそれらを制御できるようある程度は出来ていることから「割と信じられない速度」まで出す事が出来る。



 ただし基本的にそのまま元の配管を利用すると熱による循環(熱力学)で動く蒸気機関車のシステムでは対応できないため、圧縮空気の気圧を利用した形へ配管を切り替えねばならない。


 蒸気ピストンは熱によって冷まされた水の水圧を利用して動いていたりするが、これは圧縮空気だと同じシステムで動かすことが出来ないのだ。(この辺りの説明は航空機用エンジンを作れなくなった世界で最高の航空機を作ろうと思ったという別作品にて解説している。)


 これが一時期ロストテクノロジー化してしまった原因。


 川場村もその技術を利用して「D51-561」を復活させたのだ。

 しかもそのD51の運行も彼が担当していた。


 そんな彼の修復活動は鳥取の若桜鉄道のC12、栃木の真岡鉄道のC58、山北町が保存していたD52などにも及び、非常に注目されていた。


 そんな最中の突然の訃報により、SLファンや筆者のような技術オタクは大いに嘆いた。


 だが希望の火は潰えなかった。

 各地では相次いで運行取りやめや修復取りやめになったところ、立ち上がったのはなんと鳥取県であった。


 大日方さんは技術を秘匿するような事はせず、理解できる人間に丁寧に圧縮空気SLというものについて流体力学の基礎を交えながら解説している方であったが、鳥取の若桜鉄道はその技術を熱心に取り込み、ついにその技術を獲得する事に成功したのである。


 その中心人物となったのが谷口剛史という方である。

 彼は大日方さんの弟子を自称するが、若桜鉄道は町おこしに住民などが命を燃やす傍ら、彼の技術を吸収し、整備や修復が可能となったのである。


 これにより山北町など一時的に修復が中断された所は作業が再び継続され、2018年、ついに運行も行える状態にまで復活した。

 そんな彼の意思がこの川場村にも眠っているのだ。


 現在、川場村は代替の機関士を探している最中であるが、そんな動くD51がある道の駅こそ、この「川場村田園プラザ」なのである。


 様々な物語を内包しつつも悠然と佇み、この地で展開される道の駅に訪れた律は、風に混じって流れる魂の息吹のようなものを感じ取っていた。


 そしてそれが、律を自然とSLの方へと向かわせたのだった――

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