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目覚めた先の絶望と希望

 それはまるで幻想の世界にいるようだった。

 何度も目の前が明るくなったり暗くなったりする。


 意識というものがはっきりしない。


 おそらくそれは朝と夜なのだろうと律は辛うじて考えることが出来た。

 しかし体は全く動かず、体というものの感覚はなかった。


 思考が鈍く、考えるのを諦めそうになる。

 しかし死の壁はなぜか感じなかった。


 律は考える。

 この状況で起き上がるには、何か強いショックを己に与えなければならないと。


 自分が起き上がって何かしたい事を思い浮かべ、金縛りにあった時のように強靭な意志でもって起き上がらなければ現実世界に帰還することは出来ないと。


 今の自分にしたいことと言えばたった1つだけ。


「走りたい」


「どこかへ行きたい」


「自分がまだ見ぬ地へ自らの力で、自らの意思でもって向かいたい」


 事故に遭遇したにも関わらず、彼の意識は事故前と変わっていなかった。

 もう一度生行きたい場所、一度行ってみたいと思いを寄せる場所が大量にある。


 小さな頃から車が好きだった。

 物心がつく前から、母方の田舎に帰省すると親戚のお下がりの足こぎ型の自動車のおもちゃに乗り、


 物心がついてからもいっつも軽トラックなどに乗り込んでハンドルを掴んでいた。


 律に死の壁について教えた祖父は「お前はレーサーか何かの生まれ変わりかもしれない」というほど車が好きだった。


 冗談抜きで米国では16歳で運転免許が取れると聞いて英語を習うほどであった。


 父方の親戚の一人が「10代で車が欲しいなど見通しが甘い」などと勝手な主張をした時には「お前に俺の夢を勝手に貶す権利など無い!」といって、元来真面目で暴力を嫌う性格だったにも関わらずビール瓶を投げつけてケガをさせるほどだった。


 当然その件については一切謝らず、以降親戚は律に対して車の件について一切触れなくなった。


 そんな律に対して、母方の祖父は自分の愛車である86年式の前期型ジェミニを遺産として譲ると主張しており、律もその話に乗っていた。


 そのためにバイトをし、免許を獲得しようとしていた程だった。


 全ての歯車が狂ったのは母方の祖父が亡くなってからだった。

 当時、律は17歳。

 免許獲得までまだギリギリ遠い時期。


 この時周囲は、律の祖父が律に対し、ジェミニを本気で譲る気だったことを知らなかった。

 実は遺言まで残してあったのだが、その遺言書に気づかなかった。


 ジェミニは葬式のしばらく後に訪れた遠い親戚が「丁度今自動車が欲しいんで」といってほぼ無断に近い形で持ち去った。


 当然、律はこれに激怒したが、周囲は「免許が無い」ことを理由にこれを強引に正当化した上で「次の車を買うまでの繋ぎだから、返す予定だと聞いている」といって律を嗜めようとした。


 しかし、その車が戻ってくることはなかった。

 86年。

 すでに生産から30年過ぎた車がまともに維持できるわけもなく、ジェミニは雑な扱いによってすぐ故障。


 次に律がその親戚と直接出会ったときに、親戚は律がどれだけその車を欲していたか知らず「いやあ、ひどいボロ車ですぐ故障したから廃車にしたったわー」などとヘラヘラ笑いへつらって律に向かって言い放ったのだった。


 律はその時の記憶があまり残っていない。

 気づくと、土下座して謝る親戚の姿。

 顔は真っ赤に腫れ、鼻血を出し、頭からも出血している。


 この時、律の手には祖父の遺言書が握られていた。


「お前は俺からッ全てを奪い取ったッ!」


 血の涙を流さんばかりの激怒。


 親戚の中では以前より「律は車の事について何かあると唯一無二の機会でもって我を忘れる」と注意喚起されていたが、遠い親戚はその事を知らなかった。


 律と殆ど面識が無かった。


 また周囲は身内でゴタゴタになるのを避け、この親戚に対しては「新車になったら返して下さいね」程度しか言わず、「絶対に返せ」とは言わなかったのだった。


 律が乗りたかったMT車、それも走行距離1万km程度の極上の二代目前期型ジェミニはその使命を全うする事なく、その車としての生を終えて重機の餌となった。


 この車を祖父はとにかく大切に乗っていて、手入れを欠かさなかった。


 その祖父の姿を見て車の手入れの仕方などを覚えた律に対し、祖父は「唯一、律にならこの車を任せられる」と周囲にも言いふらしていたものの、「子供が一時的に憧れを抱いているだけ」と多数いる親戚は勝手に断定していたのだった。


 しかし、中学時代からバイトまでして教習所の免許費用を自分で稼ごうとし、その後の駐車場も本気で借りようとしていた事を知っていた両親は、律の衝動的な暴力にこそ「暴力を振るう事だけは許されない」と非常に強く批判した一方で、


 遠い親戚に対しても同時に激怒し、本気で慰謝料を請求する事にした。


 当然、法的に認められた遺言書の記述があったにも関わらず強引に奪った事から民事訴訟では圧勝ではあったがものの、民事訴訟には大きな穴が存在した。


 それは「ジェミニの車としての資産価値が全く無い」


 クラシックカーなどならいざ知らず、これはただの1500ccスポーティーカー。

 かつてトヨタと戦っていたいすゞがカローラに勝った事もある街の遊撃手は「資産価値5万」という判定。


 律が受けた精神的苦痛についても相手に暴力を振るったという事から相殺され、最終的に「総額15万」という恐ろしく低い価格に留まった。


 後に残ったのは遺恨だけ。


 律にとってあのジェミニは200万円の価値ある自動車と同レベルであったが、


 いかんせん「人気車種じゃなくただの乗用車」「すでに30年落ち」「すぐに故障した件から車としての機能を果たしたかどうかわからない」などの理由により、福沢諭吉5人分という大変不服な額に終わった。


 まるで律にとってはそれまで車にかけた人生を1年1万円で見積もられたような気分だった。


 己の価値が20万円しかないのかと思うと怒りが込み上げたが、法治国家のルールはジェミニの存在を認めなかった。


 律がそれまでと一転して法学系の道に進んだ要因はここにあった。

 同じような思いをした人間を救うためという闘志と同時に、現在の日本国において若くしてフェードアウトして自動車旅行に勤しむようになるには法曹になるしかないと考えていたのだった。


 しかし残念ながら律は法曹としての才能は一部しか開花せず、ロマンチストすぎる点から「不向き」という烙印を押される。


 特に周囲が律に対して不向きとしたのは「20年後、30年後を考えて法律を語る点」にあった。

 法律関係では常に「今」が求められる。


「30年後を想定して法を論理する」というのは政治家のやること。


 法律家がやるべき事ではないとされた。


 そういったゴタゴタにより就職も失敗した律はそれでも車が諦めきれず今に至る。


 父方の祖母はそんな律の姿に「音羽の一族には代々放浪癖があるんだけれど、律も放浪癖があるわいねぇ……音羽の血は濃いさね」と律がデタラメに車を求める理由をなんとなく理解していた。


「も…いちどだけでいい……車に乗るんだ……死ぬ最後に見る光景は夕日と決めているんだ……」


 律は心の中に強い意志を宿した。

 走馬灯のように蘇った嫌な過去。


 それをも乗り越えて必死にもがいた先の今。


 大好きな車に裏切られ、殺されかけ、ヘタすると実はもう黄泉に入りかけているかもしれない現在。

 それでも尚、諦めきれないものがあった。


 動かない体を必死に動かそうとする。

 起き上がろうとする。


 体の感覚はまだ掴めない。


 そんな時だった。

 目の前がボヤーっと暗くなる。


 まるで夢の中のようだった。

 トコトコと律の目の前を猫が近寄ってくる。


 律が17年生活を共にした愛猫であった。

 サビ猫と称される色合いの悪さから誰も里親を名乗り出なかった状況で一目ぼれした猫である。


 当時、飼い始めて1年で交通事故により猫を失って悲しみの最中、初めての猫を失ってわずか3ヶ月で再び出会い、それから人生の半分以上を共に歩んだ猫。


「ハル!」


 呼びかけに対し、ハルというサビ猫は尻尾を立てながら近寄ってくる。

 しかしハルは律に近づき、スリスリと頭を擦り付けると、そのまま律の後ろに向かって再び歩んでいった。


 そして振り向いて一度「みゃおん↑」と独特の泣き声で、まるで「さよなら」というような泣き方をすると、暗闇に向かって歩いていく。


「待ってくれ! どこに行く!」


 その姿にたまらず追いかけてしまう律。

 しかしハルは追いかけようとする姿を目撃すると「シャアアア」と今まで一度も律に見せたことのない顔で威嚇する。


「ウウウゥゥウウウウ!」


 ハルは「絶対にこっちに来るな」とばかりに律を威嚇した。


「お前……そっちに行くのか……」


 その状況に律は全てを悟った。

 ハルがお別れに来ているのだと。


 そして、己にはまだその時ではないのだと言いたいのだと。

 17年という長い年月により、律はハルの意思がしぐさや泣き声である程度わかるようになっていた。


 だからこそわかる。「絶対に来るな」という強烈なハルの意志が伝わってくる。

 気づくと頬から涙がつたってきていた。


 ハルは戻れとばかりに右手をあげ、律の後ろを猫の手でさした。

 そこには白く光が差し込んでいた。


「ああ………あぁ……!」


 声にならない声を出しつつも、律は振り向いて白い光の方へ向かっていく。


 ~~~~~~~~~~


 気づくと病室らしき場所にいた。

 体が重い。


 周囲ではピッピッピッという音が聞こえる。

 心電図を測る機械の音であった。


 スコースコースコーと空気が流れ込んで何もせずとも肺が膨らんで呼吸している事に気づく。


 今の時間はわからない。

 必死の思いで首を動かすと、オレンジ色の光が見える。

 凄く久々に見た気がする太陽。


 それも夕日だった。


 あれからどれほどの時が経過したのかわからない。


 目からは大量の涙が溢れていた。

 生きていたという幸福感と、間違いなくこの後に大切な者との別れを伝えられるという絶望感が彼を襲う。


 そう思うと涙が止まるわけがなかった。


 手に力を入れようとすると左腕がしびれて上手く動かない。

 しかし感覚が消えたわけではない。


 右腕は辛うじて動く。

 必死の思いで頭の後ろあたりを右手で探す。


 看護婦を呼ぶスイッチを律は探していた。


 10分、15分ほどだろうか、律はついにその呼び出しスイッチを見つけると、懇親の力で押した。

 すると数分もしないうちにドタドタという音が聞こえ、数名の看護婦が入ってくる。


「音羽さん! 音羽さん! 気づきましたか!? 私がわかりますか!? ここは病院です!」


 看護婦は息を切らしつつも必死にそれが誤報でないことを祈り、律に確認を取った。

 律は右腕を天井に向けて動かし、空に手を伸ばすように振りあげる。


 それが青年の帰還だった――

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