眠り姫は白を纏う
私は微睡の中からゆっくりと覚醒し始める。
とても長く深く眠っていた気がする。
ぼやけた視界の先は明るい花園…
あれ…私は何で花園で眠っていたのでしょう…
未だに眠っている思考で辺りを見回せば、記憶とは少しばかり花の変わった花園がそこにはある…
そうだ…
此処は神域…
そう思い出して今一度周りを注視すれば、中央の開けた場所に光に包まれた御仁が佇んでいらっしゃる。
「おはよう、スピカ。もう目覚めの時間だよ」
どこかすっきりとしたような朝露を思わせる笑顔の人がいた。
「初代様…」
ニッコリと微笑む彼女は明るい一筋の光の道を指さす。
「待っている人たちが居るよ。今日この時までありがとう。貴女がきてくれて多くの人が救われたわ。
ありがとう、スピカ」
私は役立てたのだろうか…しかしこんな事を聞くのは野暮なのだろう。
私が初めてお会いした時のような諦めにも似た焦燥感は消えていらっしゃるのだから。
「私の方こそ今日までお世話になりました。初代様もお元気で…」
元気などと言うのも変な話なのですが、凡庸な私の頭はありきたりな別れの言葉を紡いでおりました。
「うん、スピカも元気で幸せな残りの時間を楽しんでね!またいずれ魂の導く光の先で会いましょう。スピカに感謝と祝福を…さようなら、私の大切な友達」
多くを語る時間がない事は何となく察していました。なので私も初代様へと最後のご挨拶を致します。初代様が教えて下さった彼女の真名で。伝えられる初代様の名はパリスニーナ…しかし彼女の真名ではなかったから…もう呼ばれる事のない、その名で私は別れを告げる。
「はい、ありがとうございます。鉤素 新菜様の御霊と再会できる日を楽しみにしております。さようなら」
私達は互いに笑顔で別れる…
目指す先は光の道向こう…
途中で光の向こうから一際明るく光り輝く花がやって来る。
嬉しそうに、何処か誇らしげに…
悲しみなどなく未来に対する希望を胸に秘めたような強い意志を感じさせる。
あゝ…この子が当代様だ。
彼方は私に気付かない…
私の横を通り過ぎる刹那私はその子を抱きしめた。
一瞬だけ彼女の歩みが止まる。驚いたのが伝わって来る。
クスッと私は笑いながら彼女に語りかける。
「初代様と結界を宜しくね、御当代様。明るき未来の光が貴女に降り注ぎますように」
私はそう告げるとくるりとまた光を目指して歩き出す。
一瞬見えた神域の座の花は白百合から大輪の芍薬へと変わっていた。
こんなにも頼もしい次の世代が育っている。
私達の思いと志はしっかりと紡がれている。
それがわかれば心残りなどない…
一層強い光の先へと私の意識は足を踏み出した。
一瞬私の意識は途切れる…
私からしたらほんの一拍ほどで意識が戻る。
光の先は闇だった。
そうだ…私の瞳はアレクお兄様へとお譲りしたのよね…
不思議と今は生身の体なのだと自然に理解する。
神域では不思議と見えていただけに未だに慣れない漆黒の世界に少しばかりの恐怖がある。
恐る恐る身を捩り、上半身を起こす。
少しばかりフワフワと寝過ぎた後のような感覚がある。
「大聖女様、長きお務め誠に有難うございました。貴女のお陰様を持ちまして多くの国民が救われました。皇帝陛下よりこの後は栄誉ある時間を過ごされよとお言葉と共に貴女へは大聖女の称号を賜っています。私からも貴殿に感謝と敬意を表します。お帰り、スピカ」
「ありがとうござい…ま…す…?」
私の返答は疑問符のまま止まる。
そんな…まさか…
私は自身の胸元の聖石を握りしめます。
私の胸は苦しく締め付けられたような、それでいてどこかへ駆け出したくなるような心地にさせられます。
だってその声音は私が恋焦がれた人のそれと違わないのですから…
いえ、記憶の声音よりも幾分と落ち着き、深みを感じ取れます。
「まさか…アーサー…アーサー殿下ですの?」
彼は「ええ、そうですよ、我が愛しの人」と言って
髪を一房手に掬い上げ唇を落とされる気配が致します。
「我が眠り姫はとても真面目にお務めを果たされた。おかげで私はすっかり年老いてしまったよ。
君は相不変わらず美しく清廉な乙女のままだと言うのに」
アーサー様は少しばかり寂しそうな声音で私に語りかけます。少しばかり茶目っ気を帯びた物言いは昔の彼を思い出します。
夢か幻かと私は歓喜で打ち震える胸の高鳴りを抑えてアーサー様にお聞きしました。
「アーサー様、お手を握ってもよろしゅう御座いますか?」
彼は「勿論」と言って私の手を取って下さいます。
その手は温かく、剣を握っていた人特有のマメがあるのを感じます。しかしハリは無く、皺が刻まれている事は明白で記憶の中の彼の手よりも柔らかだった…残酷にも此処に時の流れを感じてしまう…
「アーサー様、お顔に触れてもよろしいでしょうか…?」
はしたなくもお願いすれば彼は触れていた私の手を自身の顔へと運んでくれます。
そして触れたのはやはり記憶の中よりも時を刻まれたとわかる懐かしい人のそれ…
「残念だわ…」
私の一言に彼が身を竦ませるのがわかる。
きっと私の一言を違う意味で捉えたのねと私は苦笑する。
「アーサー様はきっと素敵な年の重ね方をされて、益々素敵になられたはずなのにそれを一目見る事が叶わないなんて残念でなりませんわ」
そう言葉を紡げば少しばかり彼の力が抜けたのが分かる。
「スピカ…いや、スピカ様、嘆く事はございません。また世界を見る事は出来ます」
私はもう1人の声にビクリと肩を振るわせます。
此処に彼以外に人は居ないと思い込んでいたのですから…
しかし、かけられた声音に私は懐かしさを感じます。
「そのお声は、もしやカイン…様でしょうか?」
私はお兄様と昔のように呼ぶ事が躊躇われて恐る恐る敬称を付けてお呼びしました…
「もう、昔のようにお兄様とは呼んでくれないのかい?」
お兄様もやはり年を重ねた声音で寂しそうに言うのです。
「お兄様とお呼びしてもよろしいのですか?」
戸惑いながらも聞けば少しばかり鼻声で答えて下さいます。
「勿論、君が良ければ。私達は家族なのだからね。それから…私は謝らなければならない。スピカにとても辛く悲しい思いをさせてしまった…それは私だけでは無い、家族全員の罪だ。
こんなにも遅くなってしまったが謝らせて欲しい。スピカの事を蔑ろにし、傷付け、神送の宴すら気付けず、家族として送り出してやらなかった。あまつさえ追い出すような真似をしてすまなかった…」
また家族だと言ってくださるのですね…
鼻と喉の奥がキュッと締め付けられる。
嬉しい…私はまだエメンタールの一員なのだと言ってもらえて嬉しいのだ。
「はい、お兄様…カインお兄様!
もう終わった事は良いのです。全ては創造神様の御導きなのですわ。夢であった女神様のお手伝いも叶いました。
何より私は今、こうしてお兄様と再会出来て幸せですもの」
瞳のない私は今涙を流しているのかさえ分からない。口元に手を当て、嗚咽だけ漏れないように必死になれば懐かしい温もりが私を優しく包む。
お兄様の抱擁だろうか…
いえもっと柔らかい温もりと香りです…
「私もいるのよ、パール」
私はまたも驚きます…
「シャーシャ…?」
「ええ、そうよ。貴女のシャーシャよ。
お帰りなさい、パール。お疲れ様、よく頑張ったわね、パール」
私を包み優しく頭を撫でる優しい温もりに私は、はしたなくも抱きついた。
もう私は令嬢などの仮面を脱ぎ捨てて幼児のように感情のままに泣き縋る。
また会えた…誰も待っていてなどくれないと思い込んでいた…でもまた会えたのだ…
皆私が落ち着くのを待っていてくれた。
そして提案をお兄様からされる。
「先ずは視力を戻そう。私は身体の補助を目的とした魔道具開発の研究を続けてきてね、魔眼では無いけれど目の代わりとなる魔道具も作ったんだ。
視力を戻してもいいかい?」
そんな魔道具を作り出すなんてお兄様はやはりすごい方なのだと考えつつ、私がコクリと同意を示せば少しの説明の後「では、いくよ」と寝台に座ったままの私の目元に大きな手が当てられる。
「3.2.1…」カウントダウンの後に私の目元はひんやりとした違和感が襲う。おそらく義眼と魔道具が入れ替わったのでしょう。その後しばらく目元にはお兄様の手が当てられたままだった。
その間に私は家族の事をお兄様に質問する。
お兄様は時折困った様子ながらも教えてくれる。
あれから48年もの月日が流れていました。
今の季節は夏…
お祖父様もお祖母様もお父様もお母様も既に神の国への橋を渡られていました。
そしてアレク兄様も3年前に橋を渡られていた…
その臨終の床で託されたのが私が提供した魔眼だったそうです。
元々研究を進めていた所でその瞳を譲り受けて、今私の瞳となった魔道具を完成させたそうなのです。
瞳の構造は複雑で中々実用化に至らなかったけれど魔眼のおかげで解決策が見えたのだと熱っぽく語られました。
お兄様は相変わらず研究熱心なのだと笑みが漏れます。
魔眼は幾度もの移植には耐えられませんでしたが、この魔道具がこれから多くの暗闇しか知らぬ者の助けとなる事でしょう。
フレット兄様は過ちを正す旅に出たとお兄様は言いました。
その声音は硬く、私に知らせたくない何かが有るのだと察せられます。
私もお兄様が語るまでは深く聞く事はしないようにしようと思うのです。
カイン兄様も実は家督は継がずに新しく家を興されたそうで今はクラーク前伯なのだそうです。
私がここへ来る前にメリュジェーヌお姉様のお腹に居たのは男の子でその後に3人の子宝に恵まれ、今では9人の孫のお爺ちゃんなのだと教えてくれます。
元々、大領地の領主などの器ではなかったのだと苦笑が聞こえます。
そのような事はないと思うのですが、エメンタールを離れてからの研究の日々の方が性に合っていたと言われてしまえば、先程の物言いも相まってそれもそうかもしれないと思いもするのです。
お父様の後は叔父様が引き継ぎ、現在のエメンタール家はお兄様の長女の息子が継いでいるそうです。
何故そうなったのかは私の知らないドラマがある事でしょう。
それから、ステラお姉様は私がここへ来た年の翌年に病でやはり神の国へと行かれたと話されます…
私は夢の中でお姉様によく似た寂しくて悲しい背中の女性を抱きしめた気がしていましたがそれはやはり夢だったのでしょうか…
「アーサー殿は死別によって婚約解消となりその後は今日まで誰も娶る事なくこの地にいるのだ、健気だろう?」
お兄様はそう続けます。
アーサー様は「私の話など後で良いのです」と気恥ずかしそうにお兄様の話を遮りました。
私は其処こそ聞きたいのに…そうも思いましたが、お兄様に代わってシャーシャが私が務めの眠りについてからの乙女の在り方についてを話してくれました。
神域で初代様が話して下さったように、今では3年の眠りの後に乙女は目覚めて人の営みに帰って行くと聞きホッとしたような、こうして待っていてくれる人が居たからこそ何故自分の時は…などと考えてもしまいました…
初代様も憤っていたことだと己を叱咤致します。
そして結界の乙女へとなりたがる令嬢が後を絶たないと聞き胸が熱くなる思いが致しました。
初代様がありがとうと言った意味がやっと心に落ちてきたのです。
そして、私の後のエメンタールの御当代様は驚くことにシャーシャの孫娘なのだと言います。
シャーシャがこの場に居合わせる事が出来たのは御当代様の付人だからなのだと説明をされました。
多くの家族が付人として手を挙げたのをシャーシャが一蹴して勝ち取ったと笑いながら言うのです。
その御当代様も私の後任の争いは熾烈を極めたそうですが幾多の好敵手を蹴散らしてその座を掴み取ったのだと血の争えぬ話をしてくれます。
「大聖女様の後任だもの、年頃の娘のいる家はこぞって手を挙げたのよ。教会へのお布施だって今年は過去に遡っても類を見ない額なんじゃないかしら」
シャーシャはそう笑うのです。
私はその物言いが可笑しくて、いつの間にか笑っておりました。
しかし、先程も聞いた気が致しますが大聖女とは何のことでしょう…まさか私の事ではないだろうと思いつつ尋ねれば是と返され気が遠くなる心地でした。
私は何もしていないのです。全ては初代様の成された偉業だと説明しても皆にそんな事はないと即座に返されてしまいました…
そんなふうに、家族の今や乙女の在り方を聞いているうちに瞳の調整が終わったようでお兄様はゆっくりと手を離されます。
目元の温かさが無くなると同時に先程まで感じなかった赤みを感じるのです。
これは光なのだと思うと居ても立っても居られずお兄様の注意も聞かずに思い切り瞼を開けたのです。
視界はぼんやりとですが確かに世界を教えてくれます。
幾度か瞬きを繰り返し、視界のピントが合ってくると3人の人影が見え始めるのです。
はっきりと映し出されるその人影は私の想像以上に歳を重ねた3人の姿…
私1人が取り残されてしまった錯覚に陥ります。
いえ、実際に時から取り残されているのでしょうね…
3人とも記憶の面影を残しつつ全く違った人となっていました。
まず目に飛び込んできたお兄様…
色を失った長い髪を後ろで結うように撫で付け、口元には立派な髭を蓄えていらっしゃいます。
右眼にはモノクルをかけ知的な魔導士と言った佇まいでいらっしゃいます。
お母様に似た温もりのある目元は相変わらずで、彼がカイン兄様なのだと直ぐに理解致しました。
次に確認したのは女性の人影のはずでした。
私は驚きに目を瞠ります。
シャーシャはドレスではなく軍服を纏っていたのですから…
御淑やかさは形をひそめ、勇敢な女性騎士が其処には立っていたのです。
長い亜麻色の髪は邪魔にならないように1つに結い上げられ、いつの日か私を迎えにきた辺境の地での彼女を思い出させます。
シャーシャは悪戯が成功したかのような純真な笑顔を向けています。別れた頃のお祖母様と同じ年頃に見えるのに、あの神送の宴の時のままの彼女が重なって見えます。
「驚いたでしょう?彼女は我が帝国初の女性騎士団長になったのですよ」
そう言って彼女の奥から出てきたのは真っ白な法衣に枢機卿を示す金糸と銀糸の飾り帯姿のアーサー様でした。
驚きのあまり私は開いた口が塞がらずにおりました。
この法衣姿という事はアーサー様は皇籍を抜けて出家されこの場にいらっしゃるという事です…
それに枢機卿とは生まれの家に左右される職務では御座いません。
長い修練と行いによって授けられる尊き位なのです。
故に彼が長い時を聖職者として歩んできた事が直ぐに理解出来てしまいます。
彼はこの人生で未だに伴侶を持っていないと兄は言っていました…
それは…こうして教会籍になってまで、皇族としての己を捨ててまで…
更には7人の枢機卿がそれぞれ要となる教会には配属されその地を護り、儀式を執り行うのです。
彼がこの場に居る枢機卿という事は彼こそがこの地の枢機卿なのです。
私を守っていてくれたのは彼だったのです。
私を待っていてくれたと思って良いのでしょうか…
彼の白くなった髪も、顔に刻まれた皺も、変わって行く様を見る事が出来なかった事が心苦しい…
あの時「待たないで」と言った自分が恥ずかしい…
変わる事ないビスクバイトの瞳が私を見つめ…私だけを見つめて離さない。
「アーサー様、そんなにも素敵な紳士となられるなど反則です…お近くで歳を重ねる事が出来なかった事をこんなにも悔やむ日が来るなど考えてもいませんでした」
未だに寝台の上に座り込む私へと近づいた彼の頬を今一度撫でる。
彼の瞳の端に光るものが見えます。
「スピカ…いや、大聖女スピカ・ルチアーナ様…
どうか哀れなこの老人の残りの人生、貴方様のお側で貴女様を愛し、支え共に時を過ごす事をお許し願えませんか?
叶うならばこの指輪を受け取っては頂けませんか?
お役目を終えられた君と直ぐにでも一緒になりたいと私は思っているんだ。私を貴女の伴侶にしてはいただけないだろうか?」
そう言って彼は真珠とビスクバイトで彩られた象牙に似た材質の指輪を私に差し出された。
『この聖石を受け取っては頂けませんか?』
『学園を卒業したら君と直ぐにでも一緒になりたいと僕は思っているんだ。私の伴侶になってはくれないだろうか?』
あの夏のプロポーズの言葉が私の脳裏に甦る…
私の答えは一つしかなかった。
「はい…はい… 是非…アーサー様、謹んでお受けいたします」
私の目元の涙を掬い取りながら彼は私に力強い抱擁を下さる。
いつか皇城で交わした抱擁よりも優しく力強くそして儚い抱擁だった。
彼は泣き崩れた。
「ありがとう…よかった…よかった…本当に…」
私の肩が熱いくらいに湿るのを私は彼の背に手を回し、頭を撫でて宥めた。
そして彼の耳元で囁く。
「アーサー様、私夢を見ているのでは無いですよね?私、幸せすぎてこの夢から醒めたくありません」
彼もまた「私もだ」と返して下さいました。
「ヴ、ウン!ウォッホン」
しばしの抱擁を夢見心地で味わっていると徐に咳払いが聞こえてまいりました。
そうです。此処は2人だけの空間ではありませんでした…
咳払いをされたお兄様も、あらあらと事の成り行きを見守っていてくれているシャーシャからも生暖かい視線を感じるのです…
あまりの気まずさに私は思わずアーサー様を突き飛ばしてしまいました…
彼は年の功なのか少しの赤面の後に直ぐに取り繕って、2人に言うのです。
「御二方、この時この場に居合わせたのも女神様の差配。どうかこの若輩者達の門出の立会人になってはいただけませんか?
神父は、此処におりますし、皇帝陛下の承認も新婦の親御殿からの許可も此処に御座います。
幸いにして新婦からの答えも得ました。
後は女神様の御前で証人に見守られながら宣誓を行うだけで我等は夫婦となれます。
私達の門出の証人に貴方達ほど相応しい人もおりますまい」
そう言って私の知る皇帝で、彼の父の名が刻まれ帝印の押された古びた羊皮紙と、懐かしい筆跡の父の名とエメンタール家の当主印の押された羊皮紙が彼の懐から出されます。
それはスピカを想うアーサーが国賊討伐の褒賞として願い出た物だった。
スピカがくれたアーサーが本当に心寄せる人と婚姻を結ぶ権利。その相手にアーサーはスピカを指名していたのだった。
やはりずっと彼は私の帰りを待っていてくれたのだと今一度胸が熱くなります。
2人はやや呆れたように顔を見合わせて苦笑し、「喜んで」「謹んで」と願いを聞き入れてくれた。
その日、エメンタール領都キイワにある教会の最深で一組の男女が誓いを交わした。
神父は新郎となり、真っ白な法衣は彼の婚礼正装へと変わる。
大聖女は新婦となり、真っさらな死装束は花嫁衣装へと変わった。
真っ直ぐにお互いを見据える2人は、1人の親族、1人の心友、眠る姫、そして一柱の女神の見守る中で永遠の愛を誓いあう。
健やかなる時も、病める時も、悲しみの時も、喜びの時も、未来永劫お互いを慈しみ支える事を誓い合った。
最後にアーサーは付け加える。
「私は貴女が神の国に召されたら生きては行かない。私の時もそこで終わりを迎え、貴女と共に来世へと飛ぶだろう。
我が最愛の人、スピカ。我が生涯の伴侶、スピカ。
だから残りの時間の全てを私に下さい。
そして来世は共に時をその身に刻もう」
私はこんなにも幸せで良いのでしょうか?
もう見ることの叶わないと思っていた人や情景を見る事が出来て、もう会う事が叶わないと別れを告げた人々とまた再会する事が出来て、もう聞くこともないと思っていた言葉を聞けて…
そして愛しい人と今世で共に歩めて、来世の約束までしていただけるのですから…
私は不意に鼻の奥がツンと痛むのを感じます。
乙女としての務めの先のご褒美があまりにも幸福で、光が溢れる胸の内のままに私は答える。
「はい。アーサー様。残りの時間は片時も離れないで下さいませ。
今世で共に歩める夢を、来世での再会をお約束致します」
そして2人はまた立会人の前で誓いの接吻を交わす。
スピカは知らない。
アーサーの宣誓が誓であり、神々に聞き届けられた願いである事を…
そしてまたスピカの宣誓も誓でありその願いが叶う事も…彼女はまだ知らない。
その後は麗らかな陽の光へと向かい全員が聖域を後にする。
一度スピカは後ろを振り向く。
寝台は昔のように光を浴びては見えない。
しかしそこに確かに息づく御当代様を感じる。
見守る女神像は微笑みを絶やさない。
翌年、大聖女スピカ・ルチアーナとその伴侶、教皇アーサー・ルチアーナが崩御し、国葬が執り行われた。
多くの国民が涙し、エメンタールの地へと黙祷と感謝を捧げた。
お務めを終えられた大聖女は最愛の伴侶と共に穏やかな余生を過ごした。
彼女を慕い彼女の事を知る友も、存命の者は皆駆けつけたという。
そしてエメンタール家とクラーク家の人々に見守られながら大聖女は静かに旅立った。
時を違わずその伴侶である教皇もまた神に誘われた。
エメンタールの海の見える丘の上の墓所で大聖女と教皇は彼女の両親と並び、同じ棺で寄り添いあい、手を握って眠っていると伝わる。
お読みいただき誠に有難う御座います。
次の話で終幕となります。
初代様の真名の苗字は創作です。国際結婚で帰化した方で数は少ないけれどある苗字らしいですが漢字は違うかも知れませんので悪しからず。
また最終、枢機卿から教皇に役職が変わっているのは出世したからです。
わざとです。間違いでは御座いませんのでご安心下さい。




