ドラゴンとトカゲ
豪奢でありながら洗練された装飾品でまとめ上げられた教会の一室にて2人の男が対峙していた。
どちらも穏やかな笑みを湛えれば人々に安心や安らぎを感じさせるような聖人の顔をしている。
上座に座る部屋の主の方が一回り程年嵩だという以外は大差ない。
「私は貴方の元に辿り着くまでに長い時間をかけてしまいました。
しかしその旅路も今日までです。
どうか若輩者の戯言と思い昔語りをさせて下さい」
若い方の男は語り始める。
年嵩の男は先達らしくその話に静かに耳を傾けた。
アーサーは自身の婚約式が終わった事よりもスピカが旅立ってしまった事に放心していた。
自身の婚約者など眼中に無く、ただ愛しい人との思い出を頼りに城を彷徨っていた。
スピカとの思い出は城のあちこちに散らばっている。
ただただ歩いていけば皇族控え室の前に来ていた。
中では人の話し声がする。
そこにスピカの名が聞こえた気がして耳をそばだてた。
中から聞こえて来たのは父である皇帝とその母、自身の祖母である皇太后の話し声だった。
「全てはジルのしでかした事です!私とて飼い犬に手を噛まれたようなものなのです!
私は皇后の推すステラなどよりもよっぽどスピカ嬢を気に入っていましたのよ!」
やはりスピカの事を話している。
しばらく息を殺して話を盗み聞く…
自分の想い人が結界の乙女となってしまった裏には皇室の特務機関にいる男の思惑があったらしい…
父はその事を祖母に責めている様子だった。
祖母は祖母で自身との魔法契約にかからない範囲で勝手に動かれていた、自分は被害者だと訴えているようだった。
なんて事だ…結局彼女を追い詰めたのは皇室…私の家族だったのだ…
私は静かにドアを押し開ける。
一瞬2人が驚いた顔をして居たが流石に国トップだけあって直ぐに取り繕う。
「どうしたのですか?アーサー。いきなり公務の場に入ってくるのは些か無礼ですよ?」
祖母は嗜めるように言うが私は逆に問い返す。
「今のお話は本当ですか?スピカを苦しめた元凶が彼女の家族以外に居たというのですか?」
問い詰めれば初めこそ知らぬ存ぜぬと返してきた。盗み聞きしていた事もマナー違反だ、品位にかけると言われたがそんな事はどうでも良いとばかりに問いかけ続ければ、父が取りなしてくれた。皇太后は折れて説明してくれる。
仇の名はジル・ド・モンモランレーというらしい。
元の名はジルバート・バローヌ・マルハサン。
今は没落したマルハサン男爵に連なる者だったそうだ。
そこからは耳を疑う様なことのオンパレード…
正直怒りでどうにかなりそうだった。
知識としてギフテッドと呼ばれる神秘を宿した使徒達を皇室が保護しているのは知っていた。
しかし、その実態は知らなかった。
彼等は代々皇后が実権を握る組織として秘密裏に活動していたのだ…
その中でもジルという男は強く有用な力だった為に皇太后より重宝重用されていた人物なのだという。
主にはギフテッドや不穏分子を見つけ出す諜報のような活動をさせていたそうだ。
そいつの活動報告からスピカもギフテッドであると報告されており、祖母は目をつけていたのだという。家柄、聖力、聖力色、教養と、全ての素養を兼ね備えていたのも要因だった。
しかし何を思ったか件の男は魔法契約の穴を突いて皇太后を裏切り、ステラを皇后へ報告してエメンタール入りさせた。
その際の報告は全て皇后へと届けられていた。
ステラもまたギフテッドだった。その話は少し聞いたが、どのような力なのかは知らなかった私は戦慄した。
彼女の帰還からスピカに対する家族の態度に違和感があった…スピカが暗い顔を時折見せていた事にも納得がいった…知らなかった自分が情け無い…
帰ってきた姉に家族の情が向くことに寂しさを覚えているだけかと思っていたあの時の自分を殴り飛ばしたい…
皇后はステラの力を利用しようとしていたそうだ。
皇子妃、ひいては後の大公妃ともなれば外交の場に連れ出す事も容易と考えたのだろう。
その力を使い外交にて国益となる契約を締結させるのが狙いだろうと父は語る。
裏切りが判明した段階で男を呼び戻し、今度は地方へと追いやったが事態は好転しなかった。
その頃には既にステラの毒はエメンタール家に回りきっていた…
気付いたのが私の婚約者が勅命で決まった直後だったのも災いした。
そして彼女は…スピカは結界の乙女へと志願することを皇太后に願い出た。
負目や罪悪感と共に、強い聖力を宿すスピカが人柱になる事の利益を見込み皇太后はそれを後押しする約束を取り交わしたのだという…
婚約の件は皇后の提案を呑む形でそれを承諾承認した事を父には詫びられた。
そして私はステラとの婚約を継続するか否かを問われる。
答えは「否」だ。即座に答えれば今後のステラ嬢の処遇について聞かされる。
彼女は半年後に病死として発表される。
家族には皇室に対する罪で断罪されたと伝えるそうだ。
実際には皇后預かりの特務機関管理の元、国益の為にその力を使う仕事に従事するらしい。
私は男の現在について聞いたが答えは芳しく無かった。
男には贖罪も含め反省させる為にステラを預ける事にするそうだが、手元に置いていたギフテッド達の指揮権も今回の件で全て皇后へと譲渡される事になるそうで、男の指揮権も魔法契約ごと皇后へと移行するのだと目を逸らして皇太后は口惜しそうに語る。
実質的な罰は無いに等しい…
彼が行ってきた事は皇太后に対しては裏切りだが皇家に対する裏切りでは無いし、エメンタール家を引っ掻き回したのは実質ステラだ…
彼は職務に忠実に仕事をこなしつつ自分の欲望に従ったのだ。
皇太后によればかなりスピカに心酔しているようで、新たな神が降臨したと興奮しながらスピカが務めに入った事を知らせに来たらしい。
皇太后にとって権限の剥奪…彼女にそれは屈辱だろう。
飼い犬に手を噛まれ後足で砂をかけられたに等しい。まして敵対する皇后の元に有能な手駒を全て取られる事は彼女のプライドを大きく傷つけているのが見て取れる。私から言わせれば自業自得だ。
そしてそれは私にとっても芳しくない…
皇后は私にとっての実母ではない。
表面上は友好的ではあるが私や母を彼女はよく思っていない。
それは嫁姑問題や夫婦間の問題など様々な要因があるのだろう…
私からしたら優秀な皇太子がおり、将来も安泰な方ではあるがそう簡単に割り切れる問題では無いのが厄介なのだ。
嫌われているのが分かっていて情報が引き出せるとも思えない。
皇子などと言う立場に未練などないがこんな話を聞いた後で直ぐにその権力を捨て去れる程私に力など無いのが心苦しい…
案の定、皇后には知らぬ存ぜぬを通された…
権力という特権階級の前に私は無力だ…
竜の紋章を頂く者の末席だと言うのに私はちっぽけなトカゲに過ぎないのだと思い知る。
しかし何度か食い下がるうちに情報への見返りとして皇后の望む事をすれば幾らか情報を融通して貰えるとの密約を交わした。
その一環として私は聖騎士団を率いて国賊討伐へと向かった。
皇后との密約など無くとも国を守るスピカの為にその任務に志願するつもりだった私にとっては何の支障もない。むしろおまけが付いたくらいの気持ちだ。
皇后からしたら自身の息子を危険に晒さずに済んだし、あわよくば私が死ぬか大怪我でもして皇位継承権を放棄してくれれば御の字とでも思っていたかもしれない。
私は辺境の地で山賊とも他国の間者ともわからない賊を毎日のように討伐した。
そして毎夜彼女の心を握り締め会えない孤独を癒した。
掃討後、引き出せた情報はあの男の現在についてだった。
今は名を変えて国外の任務をさせているとの情報しか得られなかった…
婚約者だった彼女の姉も名も籍も変えて、すでにその男に付いて国外にいるとの事だった。
しかし収穫はそれ以外にもあった。国賊討伐の褒賞を父からもぎ取った。
それは私が喉から手が出るほどに欲していたものだった。
私はその褒賞と共にエメンタール伯と密約とも取れる約束を取り交わした。
これは彼女が起きるまで秘密なのだろうな…
そんな少しばかり浮ついた心で居た私を現実に引き戻したのは彼女の家族達だった…
家督相続に関する開示をすると皇室に一報があった。
私は真っ先に立会人として手を挙げた。大領地の相続開示の際は皇室から代理人が行くのが慣例だったからだ。
何より彼女の身内の事は彼女の代わりに見届けなければと思った。
その場でまさかあのような惨劇が起きようなどとは思わなかった…
まず、スピカが本当の娘である可能性が非常に高いとは聞いていたがそれが事実である事に驚きと納得をしていた。
彼女の纏う雰囲気や仕草などは他の兄弟や夫人ともとても似通っていた。
彼女は血縁のある封臣家門の出身だからだろうと昔笑っていたが事実は本当の家族であったからだったのだ…
彼女の愛した家族はやはり彼女の家族で間違いはなかったのだと感傷に浸っていて、私は反応が遅れた。
フレットが夫人を斬りつけた…私は家令とカインに庇われ何も出来ない無力感に苛まれる。本来ならば直ぐにでも斬り殺さなければならなかったかも知れないが、私の手出しは禁止されている。何より皇位継承権のある私が無闇に動く事は許されない…
そうこうしているうちにフレットはアレクの瞳を奪い取り飲み込んだ…あれはスピカの瞳だったものだ…
彼がスピカに恋慕の情を抱いていたのは遠征の頃から気付いていた。私が彼女の聖石を身に付けているのを見られてから彼からの視線に敵意を感じていた…
それが兄としてなのか男としてなのかを測りかねていたが彼の発言から男としてのものだったのだろう。
何より彼が憐れで仕方なかった。
全てを認めず己の願望にすがり狂ってしまった友が…
やめてくれ…スピカはそんな事望んでいなかっただろ?
家族がこんな形で傷付く事を望んではいなかっただろ…
大好きだった家族がこんな形でバラバラになる事を彼女は1ミリだって望んでいない
そんなこと血の繋がらない私にだって容易にわかる事なのに…
故に慣例を無視して私は彼に哀れみの手向けに言葉をかけてしまった。
本来皇族とは約束を違えてはいけない。
約束事は血を介して誓を行う事と同義だからだ。
皇后のように皇帝の伴侶は初代皇帝の聖石があしらわれた指輪を着ける。これは一種の契約で一度はめると退位するまで外すことが出来ない。
そして皇妃にはそれが許されない事から超えられない格の違いとなる。
そしてそれによってやはり約束という契約が誓となる。
そしてそれは皇位継承順位が高ければ高い程に作用する。
現在皇位継承権第五位の自分でさえ大変気を使う。
今回は約束では無く慣例であったのが幸いして私は罰を免れたのだろう。
しかし、何故今回『誓』が発動したのだろうか…皇族は、血の制約で受け継がれるものだが一般では廃れて忘れ去られた文化である。
彼のあの額の印は神罰者のそれ…彼にも皇位継承権がある?いやそんなはずはない…
私の中では疑念が渦巻いていた。
その後フレットは捕らえられ、皇族がいる場で抜刀した咎もあって島流しとなる事は決定した…
これは変えようが無い…国としての沙汰なのだ。
私は、これ以上目覚めたスピカが悲しまないようにと出来る限りエメンタール家を支えるようにと気をかけた。
皇室医務官も派遣して夫人やアレクの治療にあたらせた。
その甲斐もあってか2人とも一命は取り留めたが代償は大きかった。
夫人は二度と歩けぬだろうし、アレクも片目の視力は戻らない…
何より夫人の心が壊れていた。闇を見れば怯え、息子達が見舞えば叫び声を上げる…
到底まともな人のそれでは無かったのだ…
彼女ならどうしただろうか…きっと寝ずに付き添い手を握り締め、優しい声音で「大丈夫ですよ、お母様」と励まし続けたかも知れない…
しかしそんな事自分に出来るはずもない。
結局私に出来るのは彼女の愛した母が人として過ごす為に心を守る方法を示すことだけだった。
それでも対価は必要だった。皇后の指揮するギフテッド機関から人を借りる提案をした。それは受諾され、人の記憶を改竄するギフトを持つ者を借り受けた。
恐ろしいギフトを、持つ者がいるのだと慄くが、彼の力もスピカのお陰で国内での使用には制約が付き勝手には使えないのだという。
私が差し出した対価は皇子としての在位中の婚姻をしない事だった。
エメンタール家には特別な魔法使いとして彼を紹介した。
彼女の母は彼女の存在すら忘れてしまったが、それでも心は守られたと思う。
夫人は今もスピカがデザインした服や一緒に楽しんでいたお茶を好むと聞く。
アレクは「片目は元から縁が無かったのかも知れないが今は右目としてスピカが側にいてくれるのです。彼女の分も人生を歩まなければ彼女に対する冒涜だ」といって自分の分野で贖罪を果たすようだ…
彼の文や音は元々人の琴線を刺激する…しかしスピカが役目に赴いてからは作品の発表はしてこなかった。
そんな彼が今後どのような作品を残すのだろうか…
彼の作品は歴史になるだろう。
己の罪をそのままに書き起こし後世にまでその汚名を刻むのはどんなに勇気のある事なのだろう…
自分には真似できない贖罪だと思う。
周囲の何も知らない人々はエメンタール家を口さが無く罵り悪し様に噂語りをしていた。
実際はある男による被害者達である事を言えない私は「聖女を輩した家門の者達を悪し様に言い、結界の恩恵にあやかるような恥知らずは、まさかこの帝国には居るまい」と言って表面上は黙らせた。
しかしそんなもの、私の耳に入らぬように言われる…
彼女の愛した者達を悪く言うなと思うが、エメンタール伯は「私達の行いは事実です。その誹りを受ける事も一つの罪滅ぼしなのでしょう。スピカさえ悪し様に言われなければよいと思っております」と何処か悟ったように語るのだ…
そしてその時に私は1人の罪人の処遇について伯から相談された。
その男はスピカ拐かしの犯人だという…
私は伯からその男の処遇を預かった。
私が任されている直轄領の魔鉱石採掘場へと取り敢えずは送り監視する事とした。
強い瘴気のある場所で聖力持ちか魔道具無しでは到底立ち入れない過酷な場所である。
定期的に慰問し、診察診療をして死なない様に注意を払った。
元凶の男でも死ねばきっとスピカは喜ばない…
そんな思いからだった。
建国祭から半年、ステラの病死が発表された。
巷では聖女を虐げた呪いだと噂されているらしい。
事実は皇室からの粛清だがそんな事極一部の人間しか知らない。
しかしこれで彼女の姉は大罪人としてではなく、結婚を前に哀れにも病死した令嬢として歴史には残る。
程なくして私の元には多くの縁談が舞い込むが全て私は拒否をした。皇后との約束もあったが私の本心から縁談など受け付けられなかった。
婚約者を亡くしたばかりで傷心なのだと言えば大概は引き下がった。こんな事で口にしたくも無いステラの名を使い気が引けたがこのくらいは許されるだろう。
それから間を置かずにエメンタール家は代替わりした。
それに伴って前伯は領地へ夫人を伴い戻る事を宣言した。
「家門の汚名と誹りは自分へと向けよ。エメンタールのこれからは当主の働きぶりで評価してもらいたい」と新たなエメンタールと自分達は違うのだと宣言を残して旅立った。
正直彼女の側にいられる事は羨ましい…しかし、それは彼にとって嬉しい事ばかりでは無い筈だ。
嫡男であったカインもエメンタールの籍を抜け新たな家を興した。
カインはスピカにした事以上に自身の夫人に対する罪があるのだという。
今後は家族や弱者に寄り添って生きたいのだと言った。
しかし、それと同時に妹達の事実も解き明かしたいと彼は語る。
私は彼の願いが叶うようにと皇后にまた頼み込んだ。
今回の代償は任されている直轄領地の一つを次兄に譲ることだった。
長子の皇太子家に嫡男が誕生してから私達兄弟の継承順位は下がった。それに伴って臣籍降下も近いだろう。それもあって自分の息子に持たせる取り分を増やしたい親心が見える。
私は快く差し出した。そんなもので済むのなら幾らでもくれてやる…
カインは結果を出し続けてくれた事もあって皇后からそれ以上の追求は無かった。
カインはこっそりと情報も流してくれた。
バレたら今度こそ身の危険もあるだろうに…
彼も彼なりに真実に辿り着いたのかも知れない…
しかしそれを私は問わない。
今は身体に欠損や障害のある者達向けの魔道具やギフテッドの力に対抗する魔道具開発に心血を注いでいるらしい。
父は大層喜んでおり叙爵も近いかも知れない。
祖母である皇太后は引退という形で直轄領の離れに蟄居となった。これは皇后の差配だ。対立していた政敵を押し出し、事実上の勝利としたのだろう。
エメンタール家の問題が一段落した頃合いを見計らって私は国外へと見聞を広める為と称して旅へ出た。
表向きはボンクラ皇子の気まぐれと思われるだろう。
それでも構わない。
供も無く1人私はあの男を追った。情報も少ない中で…
各国を転々とした。
その男の今の名も容姿も分からないが必死で足取りを追った。その過程で件の男と思われる人物は数人に絞れたが未だに確証が持てない。
十数年が過ぎた頃に私は国外から男を探す事をやめた。
あの男はきっとスピカの元へと行きたがる。
諸々の情報からそういった性癖だと容易に推察できる程に奴は異常だ。
そんな奴をスピカに近づける訳にはいかない。
そしてまた数十年の月日が流れた。私はもう皇子では無い。
自称するならば大聖女の聖騎士だろう。
そうやってずっと待ち続けた…
仇が姿を見せる日を…
スピカを苦しめた罪を後悔させる為に…
「そしてとうとう貴方に辿り着いたという訳ですよ。ジル枢機卿。名を戻して帰ってくるとは思いませんでした」
ジルはさして関心もないと言った様子で白く伸びた顎髭を撫で付ける。
「それで、今日はその話をしに来たのかね?」
アーサーは首を横に振った。
「私は今日は貴方と賭けをしに来ました。」
そう言ってテーブルの上に上等な一本のワインと紫色の液体の入った小瓶、そして豪奢なゴブレットを二脚置いた。
「私は大聖女スピカを心から愛している。そして彼女も私の事を愛してくれている。何十年とたった今でもその思いと事実は変わらない」
余裕ぶっているジルの眉がピクリと引き攣った。
「貴方も大聖女を慕っているのでしょ?
でしたらその愛を証明しませんか?
貴方の思いが神に届いていると言うのなら出来ない事はない。ただその事実を神に問うだけなのですから」
そう言ってワインを二つの装飾されたゴブレットに注ぐ。
それから小瓶の液体を両方のゴブレットに同じだけ入れた。
「ベラドンナの根の毒です。
貴方が本当に神の御使として正しき行いと正しき心根でいたならば死ぬ事はない。
私は大聖女への愛と献身と彼女の心が私の側にある事を神に問いましょう。
貴方は大聖女に貴方の献身が届いているかを問われるがよろしい。いかがかな?」
そう言ってゴブレットを持ち上げる。
ジルにとってベラドンナの毒などとうの昔に克服した毒だった。自分にとって何の不都合もない。
元々大聖女の周りをうろつき、婚約の話まで出たこの男の事は気に入らなかった。
あまつさえ権力に物を言わせて彼の地に居座るこの男が…
この賭けで死ぬとしたらこの目障りな男1人なのだと頬が緩む。
「いいでしょう。我が天使に私の想いが伝わっていないはずなどあり得ません。
アーサー様こそそのような賭けをしてよろしいのですか?」
問題はないとアーサーは頷く。
そして2人はゴブレットを持ち上げる。
「この世の神々に宣誓致します。私アーサーの愛と献身が大聖女スピカ・ルチアーナと共にあり、彼女の心が私と共にある事を。それが真実であるならば私に祝福を、偽りならば死を」
「この世の神々へお伺い致します。私ジルの愛と献身が大聖女スピカ様の元に届き、彼女の心が私と共にある事を。それが真実であれば祝福を、誤りならば死を」
そして2人はゴブレットを鳴らし、それを飲み干した。
2人の視線が交わる。
アーサーは咳き込む…
勝ち誇ったようにジルは聖人らしくない残虐的な笑みをアーサーに向ける。
アーサーはジルから目を離さない。
「賭けは私の勝ちですね…」
この男は何を言っているのだと思うと同時にジルの視界は傾いた。
馬鹿な…あり得ない…私は…私の愛は届いていないというのか…
ジルは己の異変に驚愕をしている。
「ジル枢機卿。貴方の負けです。
貴方の想いは彼女には届いていない。
彼女は貴方など知らない。貴方が何を彼女の為に成して来たのかも知らない。
貴方の愛は独りよがりで一方的な押し付けでしか無かったのですよ。
このまま彼女に知られる事なく、認められる事なく、声をかけられる事もなく死んで下さい。
そして、どうぞ黄泉の国で懺悔して下さい」
その言葉をジル枢機卿は机に突っ伏して聞いた。
そしてそのまま瞳から生気が消える。
額には神罰者の印が浮かんでいた。
こんな復讐をしてもスピカは喜ばない…むしろ悲しむのは分かりきっていた…
でも自分の為にアーサーは事を起こした。
アーサーはフレットの事件の後から神罰について調べた。
城の禁書も教会の神秘も、他国の神罰者についても調べられる物は全てと言って良い。
そして自身が辿り着いた答えが「誓」だった。
普段は何でもない神への誓いは条件次第では神へ届くのだと先達は教えてくれた…
神への問いと、誓いが本当であり正しければ神は祝福を下さる。そしてそれが偽りや誤りであれば神の御前で偽りを騙る不届者として罰せられるのだと知る。
その条件とは、神に繋がる聖遺物を使い神に宣誓する事。ただそれだけである。結果を望めばその通りに神々が差配して下さる事もある。
有名なのは皇帝への戴冠式の宣誓や結界の乙女としての契約などだろう。
どちらもその宣誓に偽りがあれば神罰が下ると伝わる。
戴冠式は神の子孫たる皇帝の血、契約の書は神からの賜り物だ。
それを寄る辺に誓は成立する。
声に出すのはそれを周りに知らしめる為であって、心の中で行っても誓は成立する。
この方法が正しいのかの検証はスピカを拐かした犯人で何度も試した。
私の血を媒介にしたり、教会の女神像を使ったりと試行錯誤を重ねた。
今回アーサーが媒介としたのは伝承などの不確かな物ではなく、スピカの聖石だった。
幼い日にスピカが作って兄たちへと渡した小さな聖石をゴブレットに嵌め込んだ。
ゴブレットの作製はアレクに依頼した。
その石は今や神の末席の存在の残した品物。それを寄る辺に誓は成立した。
こんな復讐にスピカを巻き込んだ事は申し訳無く思う…
しかし確実にこの男の息の根は止めなければと思ったのだ…
心は晴れないが、これでこの世界からスピカに対しての脅威が減る…
目覚めた彼女が安心出来る世界であって欲しい。
アーサーは1人やり遂げたのに虚無感に囚われつつ男の亡骸に献杯をした。
その哀れな骸に…
こいつのせいでスピカとは離れ離れとなった。
しかしこいつが動いた為にスピカによって救われた命も確かにあるのだ…
スピカの犠牲の上に…
控え室のドアがノックされ、1人の女が入って来た。
顔には酷い火傷の痕がある女だ。ジルの側仕えをしている女で歳はアーサーとそう変わらない。
女はアーサーに深く頭を下げる。
「ありがとうございます。これで私もゆく事が出来ます」
アーサーは何も返さない。
かつて婚約者だった女に何の感情もない。
彼女は男と違い改心している。自分の行いを嘆いている。悔いている。
国の為、スピカの為にと彼女はその力を晩年は使った。
彼女の事は正直憎い。しかし彼女もまたこの骸に踊らされた駒であり、人生を狂わされた哀れな人なのだ。
スピカに会う事も許された女にアーサーは何もしなかった。
男との魔法契約で自決も許されていない彼女は今自由となった。
この後何をするのかも自由だ…
数日後に1人の枢機卿の除籍が発表された。枢機卿という立場にありながら裏でよく無い事を数多していた事が発覚したのだと云う。
彼が神罰で死んだ事を知る者は少ない。
とても寒い…気が遠くなる程の寒気を感じる。
瞼は思うように開かない。
体も言う事を聞かない…何かに拘束されているようだ。
ジルは意識を集中して今一度瞳を開ける努力をする。
しばらく瞑ったままだった視界が鮮明になると、そこは何処までも続く凍土だった。
所々に人の頭が生えた異様な大地だ。
自身の身体も凍土の中に埋まっている。
道理で動かないはずだ…しかし、なぜこんな状態になっているのか…
未だにはっきりとしない意識の中で、男に声をかけられた。
「よう、新入り。お前は何の罪でコキュートスまで落とされたんだ?」
ユダと名乗る男はここについて聞いてもいないのに語り出す。
ここは神や神に連なる者達を裏切ったり虐げたりした最も重い罪の魂が行き着く異界の最果て。
地獄の最下層。転生すら拒まれた魂の墓所。
そんなはずはない…我が天使の為に私は人生をかけたというのに…
愛が届かなかったのはまだ私の愛が足りなかったからに他ならない
しかし男の言う事が本当ならば、もう二度と我が天使に会う事は叶わない…自分の魂が巡る事は無いのだから…我が天使がこんな所まで堕ちるはずが無いのだから…
ジルは絶望した。
この地獄で今後無限にする事となる初めての絶望だった。
お読みいただきありがとうございます。
諸々の都合で更新が遅くなりました。
お詫び申し上げます。
あと2話、もしかしたら3話でこの物語の本編は終幕となります。
最後までお付き合い願えれば幸いです。
急に寒さが増しましたので皆様どうぞご自愛下さい。




