薄氷を踏む足音
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皇帝陛下の元からマスキーはやっとの思いで自宅へと帰り着いた。
未だに心は追いつかないし、思考も纏まらない。
玄関先では心配そうに妻が出迎えてくれた。
早朝に皇室からの呼び出しで出掛け、昼前に帰ってくると言う事態にビオレも不安が募っている。
「スピカ…スピカは…」
顔色も悪く憔悴しきったマスキーの顔色にギョッとしながらもその乾いた音を夫人は拾った。
「スピカはまだ帰ってきていませんよ…全く何処に行ってしまったのかしらね…婚約式からあの子宛の手紙も溜まっていると言うのに」
夫人は呆れたようにこぼす。
少し前の…それこそ昨日までのマスキーならば全くだと頷いたかも知れない。しかし今のマスキーには頷けない。
「ビー…あの子の部屋は何処だった?」
夫人は思案するが答えられない…
「そういえばどの部屋をあの子に与えていたかしら…マアサ、あの子の部屋を、スピカが使っていた部屋を教えて頂戴」
侍女長のマアサは頭を垂れてバツが悪そうに答える。
「奥様はスピカお嬢様にお部屋をお与えになってはおりません。お帰りの際には西の緑の客室をお使いになっておりましたが…」
夫妻は絶句した。そんなはず無いと思った。だってとても可愛がって育てた娘だ。部屋を与えないなどという愚かしい事があるはずも無い。
2人は緑の客間へと向かう。
そこは人が暮らしている様子の無いただの客間だった。クローゼットの中にも衣類は無く、備え付けのドレッサーに宝飾品も何も無い。
ただ窓辺の机の上にステラの婚約式以降に届いた手紙が積み重なって置かれている事でここにスピカが居たのだと語っている。
夫人は愕然としている。
何故…
誰も答えられない問いを自問している。
答えは簡単だ。
夫人がスピカに部屋を与えてなどいなかったから。
しかしそれは夫人には認められない事柄だった。
「どういう事だ…何故あの子にこんな客間を与えていたんだ…」
マスキーは問うがビオレは答えられずただ呆然と部屋を見つめる。
そんな2人に言い出しづらそうにしつつも意を決して家令が声をかける。
「スピカお嬢様が最後にお使いになっていた部屋はこちらでは御座いません」
その言葉に2人は安堵した。そうだ、こんな他人行儀で家族の外に追いやる様な仕打ちを自分達がしていたはずも無いとお互いの顔を見てホッと息をついた。
「ウェィバー、案内しなさい」
年嵩の家令は唇を噛み締めて一礼した。お仕えしている主君を傷つけるとは分かっていたがどうしても知らせずにはいられなかった。あの幼い日から見守っていた少女の嘆きを…
「こちらで御座います」
家令は静かに歩み始める。
途中でカインが合流する。
彼は上の階の自室から降りてきたところらしい。
慌てて家を出て行ったはずの父が今どこへ向かうのかと訝しむ。
「何事ですか?父上、母上」
体調が思わしく無いのか不機嫌さを滲ませた表情である。もっともその不機嫌は体調のせいだけで無く、身重の妻が実家から帰してもらえない不満もあるだろう。
『今のエメンタール家に大事な娘と孫をかえす訳にはいかない』と何度も突っぱねられているのだ。
「今からスピカが最後に使っていた部屋へ行くんだ…お前も一緒にどうだ」
「えぇ、ご一緒しましょうか」
こうして家令を筆頭に屋敷の外れまで皆は足を進める。家の中にこんな場所があったのかと思うほどに彼らの居住区とは離れた場所までやってくる。
本当にここなのだろうか…両親や兄はそんなわけがないと、家令が年でボケてしまったのではないかなどと考え始めた頃に、家令は半地下へと降りる階段を下った。
マスキーには覚えがある。カインにも…ビオラはピンときていない様子だったが、子供の頃に屋敷を探検して見つけた懲罰房だった。
木製のかんぬき錠を家令は開けると「此方のお部屋で御座います」と通される。
日中でも薄暗く少しばかり湿り気を帯びた空気は想像よりも埃気はなくひんやりとしている。
中は古びたベッドと薄い毛布が畳まれ、木製のデスクセットがあるだけの何も無い狭い部屋。
申し訳程度に石壁のコート掛けに学園の女子制服と見覚えのあるドレスが掛かっている。
奥にはタライと蓋付きのバケツが置かれており大凡貴族の令嬢が住まうのには相応しいとは言えない。それどころか使用人の下女の方が幾分まともな部屋を与えられているだろう…
一同は絶句する。
しかし残念な事に先程の客間よりも幾分か人の営みの後が感じられるのが切なく胸に痛い。
そして机の上に置かれた便箋に夫人は気付きそれをペーパーナイフで切りあげる事もせずに中身を取り出して読み始める。
『大好きなエメンタール家の皆様へ
お義父様、お義母様、3人のお義兄様方、そして本当の娘であるステラ義姉様へ最後の贈り物を記します。
私、スピカを18歳になるまで育てて慈しんで愛してくださり本当にありがとう御座いました。
皆様の家族として過ごした時間は私にとってかけがえのない宝物です。
とても心苦しいのですが家族の皆様から頂いた御恩と愛に報えるものを私は私自身しか持ち合わせていません。
ですので私は私の意志で皆様にご恩返しをさせて頂きたいと存じます。
まず、当主であらせられるお義父様と次期当主のカインお義兄様へ
結界の乙女としての役割を頂戴したく思います。
勝手な事では御座いますが、当代様のお力も弱くなってきてしまっているとお嘆きのお二人のお力になりたいのです。
次にお義母様へ
お義母様が褒めて下さっていたので何点かお義母様用のドレスと宝石をデザインさせて頂きました。気に入らないかもしれませんが今後の仕立ての際に思い出して頂ければ嬉しいです。あと、お義母様用のお茶のブレンドは調理長と侍女長のマアサに伝えてあります。不調の際にはお飲み下さい。
アレクお義兄様へ
私の魔眼をお譲りします。もっと早く差し上げなかった非礼をお許しください。これからはお義兄様が私の目を通して世界を見てくれるのですから寂しくはありません。
フレットお義兄様へ
フレットお義兄様は私の拙い作品をいつも褒めて下さいましたので、剣につける房飾りと私の聖石をお渡しします。
最後に
ステラ義姉様へ
私の大切な家族です。私のものではなかった本当の家族を義姉様にお返しします。本当にごめんなさい。
スピカ・フォン・エメンタール 』
その手紙は涙に濡れた跡が所々にあり、胸を締め付けるような切なさを帯びていた。そしてもう父や母、兄ではなく義の文字が付け加えられている事にスピカの決別の意思を強く感じ、愛娘に突き放されたかのような衝撃が駆け抜ける。
夫人はその手紙を読み終えると冷たい床にガクリと頽れる。
「ウソ…嘘よ…こんな…ありえないわ…嘘だわ…」
母の異常な様子に母の手元から落ちた手紙をカインも読む。
驚愕に打ち震え、何を信じて良いのかと葛藤する様子が窺える…
呟く言葉はやはり母と同じ…
そのままカインは手紙を父に託し他に残された物がないかと机を漁る。
乱暴に引かれた引き出しは古いせいもあって一度抵抗を見せたが、力負けして中身を部屋へとぶちまける。
クロッキー帳に描かれたデザイン画は綴じ紐が緩み散らばり、聖石を組み込んだ青のタッセルが付いた房飾りは石の床にカツンと小さく音を立てて跳ねた。
それ以外は何も無い。
しかしそれが全てだった。
スピカの残した全てがそこにはあった。
父は手紙を読むと「やはり…やはりそうなのか…」と涙を流して天井を仰ぎ見る…
そこには見慣れぬ我が家とは思えない天井が映る。
これが愛しい娘の見た光景なのかと思うとゾッとした
「誰がこんな場所にスピカを…」
その呟きに家令は残酷にも答えを与える
「旦那様で御座います」
マスキーの目は見開かれる。
「はぁ…?私が…私が追いやったと言うのか?」
幾分かの怒気が含まれていたが家令は冷酷に真実の刃を突き立てる
「はい。お嬢様は自分が賜った部屋だからと謹慎が解かれた後もこちらで過ごされておりました」
「何故…何故知らせなかった‼︎知っていればこんな…こんな場所に…」
マスキーは憤る。しかし家令を責めることはそれ以上は出来ない…確かにこの部屋へ一度でも押し込めたのは己なのだと思い出したのだ。
どうしてこんな場所に…此処がどんな場所か知っていたのに…
後悔、懺悔、憤り…大凡言葉で紡いだらそれとなる胸を掻き乱すような苦しみが一同を襲う。
「スピカの…あの子の専属の侍女を呼びなさい…今すぐに…何故黙っていたのか白状させてやる…」
血走った眼の夫人が控えていた侍女長マアサへと視線を向けるがマアサはオロオロと取り乱す…
「奥様…申し訳御座いませんがスピカお嬢様に専属の使用人はついていないと私は記憶しております…私の娘をステラ様付きにご指名された後の後任は指名されておりませんでしたので…」
夫人は理解が追いつかないと言った様子で表情が抜け落ちる。
「何故私に言ってくれなかったの…?」
それは誰に対しての問いだったのか…
己が問われたと思ったマアサは苦しく答える
「ステラ様が不憫でしたので…ついスピカ様を蔑ろに致しました…」
マアサは誘拐されたステラに対して罪悪感がある。あの日自分がしっかりとしていればとの負目が、罪悪感が彼女の中でステラを特別視する要因となったのだろう。
パチンと乾いた音がした。
夫人がマアサの頬を叩き付ける音だった…
「私にとってスピカもステラもどちらも大切な娘ですわ!それを…」
そう言って泣き崩れるのだがマアサはそれを許さない
「奥様だって、ステラ様を優先してきたでは無いですか…それにスピカ様に侍女を付けなかったのは他でも無い奥様で御座いましょう?」
正論は正しい。
正しいが故に納めようが無いほどの刃となる。
激昂した夫人は今一度マアサを叩きつけようとするもそれは息子によって諌められた。
「母上、落ち着いてください。今こんな事をしても何の解決にもならない。マアサの言っている事が本当ならばこの部屋然り、私達はとんでもない過ちを犯してきた事になる…それは今更変えようが無いではありませんか…」
次期当主としての才覚がこんな形で観れると言うのは皮肉だろう。
夫人は近年の茶会で言われていた言葉の裏を此処で理解した…
『エメンタールは安泰ですわね。本物の娘のステラ様は本当に羨ましい限りですわ。スピカ様もお一人で学園生活に励まれているご様子ですし』
裏を読めば
『本物が帰ってくれば偽者は用済みですね。使用人も付けるのが嫌なほどなんですものね…』
「あぁぁぁぁ…‼︎‼︎‼︎」
悲鳴が半地下にこだまする。
そんなつもりなど皆なかった。
「ステラ…ステラに聞けば分かるはずよ!あの子は私がどんなにスピカを愛していたのかを知っているわ!」
マスキーはそっと妻から視線を外す
「それは出来ない…」
「あなた!何で!スピカが結界の乙女になってしまったのよ?私達のせいで!私達家族の絆をステラはよく知っているはずなんだから話くらい…」
「先ずは落ち着きなさい…理由は…場所を移そう。
こんな場所で…話すべき事柄では無い…」
マスキーの唯ならぬ様子に一同は気圧されて移動をする…
マスキーの執務室に着くまで全員が口を開くことは無かった。
ただ静かに衣擦れと足音だけが反響する。
部屋に入っても皆の口は重い。
机の上に置かれた置き手紙と拾い集められたデザイン画、そして房飾りが置かれそれぞれがその物をじっと見つめている。
重い重い沈黙を破ったのはマスキーだった。
「何から話すべきか…
今日、皇城へ呼ばれたのはスピカの偉業を讃えるため…そしてステラの処罰が決まった事を知らせるためだった」
「「はぁ?」」
当主夫人と次期当主は訳がわからないと驚きをそのまま音にした。
スピカの件はまぁ分かる。
しかしステラの方は何のことだろうか…
2人は訝しみながら続きを当主が話すのを待っている。
「ステラは逆賊として捕えられた。しかしスピカが結界の乙女として類を見ない偉業を成し遂げた事で我が家には本人以外に連座の責は取らせないとの恩赦を頂いたのだ」
「そんな!ステラが一体何をしたと言うの⁈」
夫人は苛立ちもあらわに腰を浮かすがマスキーによって静かに制される。
夫人は知る由もないがその仕草は娘のステラと同じものだった…
「神の…人ならざる力を皇族に向かって使ったのだそうだ。既にそれは皇室によって証明され、異論は認められない。異を称えればそれこそお家断絶だろう…」
できる事ならば助けたい。しかしそれは同時に家門の破滅を意味する。
此処に集う者はエメンタールを背負う者、そしてその未来を背負う者達である。
その事が判らない者はこの部屋の中には誰1人居なかった。だが敢えてマスキーが口にしたのは己にそれを今一度知らしめるためだろう。
「父上が先程の手紙で驚かなかったのはスピカの事は知っていたからなのですね…」
マスキーは「あぁ、そうだ」と頷き部屋は一層の空気の重さを感じる。
この家は常に中心になる娘が…2人の愛する娘達がいた。その娘達を一気に失った家族の絶望など誰にもわかるはずがない。
そんな場に来客が告げられる。
本来ならば追い返されて然るべきタイミングで家格の低い男の来訪であったが、マスキー達はこの重く苦しい空気の垂れ込める部屋へとその者を招き入れた。
それは彼らの長い長い後悔の序章に過ぎなかった。




