カインの婚礼 〜後編〜
私が人気の少ない屋敷に帰り着いたのは予定よりも小一時間程前のことでした。
突然の帰りを出迎えてくれたのは昔からの家令と侍女達でした。
汚れたままの私を見るとすぐに湯浴みの準備を整えてくれる。
やはりうちの人達は優秀です。そして何があったのかを聞かないだけの配慮と優しさがあります。
私は汚れたアクセサリーを簡単に会場で運悪く飲み物を浴びてしまったのだと事情と共に家令へと預け洗浄をお願いしました。
久々に人に手伝ってもらって入る湯は気持ちも良くすえた臭気が髪や肌から流されると同時に私の中の黒い気持ちも流される心地でした。
湯浴みから上がれば果実水と軽食を用意してもらえました。
私は、あぁ、夜会がある度にこうやっていつも世話をしてもらっていたんだなぁと遠くない過去を思い出す。
ひと心地ついた頃に家令が洗浄したアクセサリーと共に部屋へと訪れました。私も小さい時からお世話になっている御仁で名をウェイバーと言います。お父様よりも20は年上で深夜に差し掛かる時間に家令とは言え異性が入るのは憚られるとドア扉を開けておいてくれる紳士的なおじ様です。
「スピカお嬢様、宝飾品ですが芯糸にシミと一部の巻の光沢が変わってしまっている箇所が御座います。」と告げられる。「そう…」と私は短く返して渡された宝飾品を眺める。
一眼見ただけでは分からないがよく目を凝らせば真珠を束ねる芯の糸に薄らと赤紫の色が浮かんで見える。光沢は自分では気が付かなかったが彼が言うのだから間違いないのだろう。
「失礼ですが、これは大奥様からのお借り物ですね?」
私が驚くと実はですね…と語り出してくれる。
「私はこれの元の持ち主の頃からお屋敷に勤めております。ですのでこのお品がだいぶ古い事も、大奥様の手に渡った事も存じているのですよ,」と朗らかに笑う。
「今回はお嬢様が早急に対応してくださったのでこのくらいで済んだのですから気を落とされないで下さい…真珠は他の宝石と違い時を生きる宝石ですからね、年を重ねた真珠はどうしても弱くなるものです。それに大奥様はこのような事で感情的になる方では御座いません」
「ありがとうウェイバー…お祖母様には早急にお手紙でご報告してみるわ」
それがよう御座います。今宵は頑張られましたねと好好爺然と笑われる。ほんの少し沈んでいた心が浮上する。
そのまま、ゆっくりお休みなさいませと頭を下げて彼は退室する。
1人残された部屋で私は手紙を書く為にレターデスクに手をかける。
元が客室な事もあって予想通りデスクにはガラスペンとインク、そして部屋の調度品にも似た植物が縁に押し絵されたレターセットが入っていた。
私がそれに手をかけると同時くらいに次の客が部屋をノックする。私はそっと引き出しを戻すと「どうぞ」と客人の入室を促す。まだ家族が会場から帰ってはきていないので誰だろうと思えば、遠慮がちに扉を開けたのはアリッサだった。そしてアリッサの後ろにはアリッサと同じかそれよりも少しだけ若いお仕着せ姿の女の子が居る。確かアンといったはずだ。
「2人ともどうしたの?もう少ししたらお姉様とお兄様のお帰りのお支度で忙しくなる時間でしょうに…」
2人の表情は硬い。そして唐突にアンは床にひれ伏した。
「申し訳ございません!お嬢様の大切なドレスをステラお嬢様にお出ししてしまいました」と謝られる。
それこそ床と頭がついてしまうくらいまで頭を伏す彼女を私は慌てて制して顔を上げさせる。
「謝罪は要らないわ…お顔を上げて頂戴な。でもお話を聞かせてもらえる?」と問えば今日のことを語り出してくれた。
パレードからお戻りになったカイン兄様とステラお姉様は屋敷に入るなり、白いドレスを出すように言ったそうだ。アリッサは咄嗟にデビュタントの白色ドレスを諦めていないのだと悟ったらしい。
白を基調としたドレスを出すとカイン兄様はどれも首を横に振り、これ以上は白いドレスはありませんと言ったところでアンが1番奥にしまってあった私のデビュタントドレスを出してしまったのだそうです。
そして刺繍が入った前身衣に細工をするように言われレースを縫い付けたのだと教えてもらいました。
因みにですが今日初めにステラお姉様が着ていたドレスは速攻でお兄様から却下されたそうです。アリッサは「今日のために仕立てたんだからあれを着ていけばよかったんですよ!」とご立腹のようである。
「確かに貴方の行動は軽率だったわ。あれは私の宝物でしたもの…」アンは絶望の表情です。
「でもね、貴方を責める事は出来ないわ。だって次期当主命令なんて断れないもの」
私を罰しないのかとアンには聞かれたがこれだけ自分を責めている人に鞭を打つ事は出来ない。
それにアリッサの話だとお姉様は最初から私のデビュタントのドレスを気にかけていて、取りに行くように言ったのもお姉様だったそうだ。
私がアンを許すとアンは安堵の為か涙を見せる。どうやら解雇も念頭に謝罪に来ていたようだ。
その代わりにと、今日汚れて戻ってくるであろうドレスの染み抜きと今後屋敷に私が滞在する際に手が空いていたら手伝ってもらうようにアンとは約束した。
やはり1人で支度するのは大変でしたからね…
そして、先にアンを帰すとアリッサは今日の事を聞きたがりました。主人が汚れて帰ってきて気にならない使用人はいませんと言われれば話すほかありません。それに私も誰かに聞いてもらいたかった。
一通りの顛末を話せば私の心も軽くなった。アリッサが憤慨してくれたのも私の支えになる。私のために怒ってくれる人がいるのは心強かったのです。
そしてアリッサは私を甘やかすようにホットミルクを用意してくれると言う。
「甘くしますか?」とアリッサに問われれば「ハチミツたっぷり入れてくれる?」と答えて笑われた。
そして私がミルクに口をつけた頃に屋敷が騒がしくなり始める。誰かが帰ってきたのだろう。
私は甘いミルクを飲み干して1人ベットへと潜り込む。出迎えには行かない…久しぶりの社交の舞台は些か疲れた…トラブルも多かった…瞼を閉じれば直ぐに闇が私を夢へと誘った。
翌朝いつもよりも少しだけ早く目が覚める。
そして昨日の約束通りアンが洗顔用の水を運び着替えを手伝ってもらえた。
そして朝食へと向かう。
磨かれたテーブルには今日から一席多く準備されている。義姉様が今日から家族の一員として受け入れられていることが私は嬉しい。
私は所定の入り口に近い席に腰を下ろす。
ややあってからフレット兄様、お父様、お母様、アレク兄様、ステラお姉様の順に入室された。皆一様に昨夜の疲れが程よく残っていらっしゃるようです。
カイン兄様とメリュジェーヌ義姉様は昨夜が初夜。
こちらにいらっしゃらない事は無粋ですので聞く事は致しません。
「昨夜はスピカが先に帰ってしまって私は寂しかったのよ?急なトラブルで帰ったと聞いたからしょうがないけれど今度の夜会の時にはステラと揃ってダンスを踊る姿を見せて頂戴ね」
お母様は心底残念で次に期待しているようにおっしゃいます。
「えぇ私も一曲しか踊れなかったので次の会の時にはお姉様と一緒に踊れる事を楽しみにしていますわ」私は無難に答えます。
「母さん!上達したとはいえまだスピカとステラには力量差がある…一緒に踊って比べられたらどうするんだよ…それにスピカはそんな事くらい分かるだろ?本当になんでそんなに意地悪くなってしまったんだ」
フレット兄様の言いようにどう答えて良いのかわかりません…憶測ですが「一緒に踊るのは…」などと答えれば姉と母を思いやる気持ちはないのかと言われてしまう事でしょう…
「わたしは気にしないわ!スピカが完璧な令嬢って言われてるのは知ってるもん。だから次の機会には一緒にフロアに立ちましょうね」
突然の助け舟はお姉様からでした。「はい喜んで」と答えれば昨夜のことに触れられます。
「それにしても昨夜はごめんなさいね…わたしったらあの時はカインお兄ちゃんの結婚式だと言うのにやらかしてしまった恥ずかしさに気が動転していたの…許してくれる?」と小首を傾げられます。
「もとよりお姉様に怒ってなどおりません。あれは事故なのですからお気になさらないで下さいませ」
「ドレスのことも謝りたかったのよ!せっかくのデビュタントなんだから白いドレスを着ようってカインお兄ちゃんが言ってくれて、私も一応お断りしたんだけど一生に一度の晴れ舞台なんだからって後押ししてくれたの!メリーお姉ちゃんもいいよっていってくれたし、屋敷の人も白いドレスを出してって言ったら出してくれたの…あとからスピカの大事にしていたドレスだって聞いて驚いたわ。スピカもあんなに素敵なドレスでデビュタントだったんでしょ?しかもパートナーはアーサー様だったんでしょ?羨ましいなぁ」
私が返答に困ると同時にお父様が咳払いをされます。
「その件だがあの後皇室には話をしておいた。こちらの不手際が原因だが奇跡の令嬢ならばと特例をいただけた。だからステラもスピカも気にする事はない。だがスピカは今後あのドレスを着る事は控えてくれ。あのドレスはステラに譲られた事になっているんだ。不遇の姉の社交界への選別にと1番大切な衣に手を加えて託したのだと…これは家のための方便だがわかってくれるね?」
お父様にそう言われてははいと答えるほかない…
全くカインにも困ったものだとお父様はため息を吐かれる。
また一つ思い出の品が手元から溢れてしまった…
綺麗にシミが抜かれ洗いから戻ってきたらしっかりと保管しよう思っていただけに態度や表情に落胆が出ないようにするのには苦心しました…
家族の会話は昨夜のお姉様の話題に移っていく中砂を噛むように私は食事を続けました。
最後のお茶を楽しもうと言う頃になって食堂の扉が開き、来るはずのない者が入室されました。カイン兄様です。
「兄さん、どうしたんだい?昨夜はその…初夜だったじゃないか…朝からこんな所に来るものじゃないんじゃないのかい?」恥ずかしそうにアレク兄様が尋ねられました。他の家族も疑問に思って知りたい事柄でしたので誰も声はあげません。
「メリーはまだ休んでいるから私だけ朝食をとりに来ただけの話だ。お前には関係ないだろ」
ムッとした声色は家庭をもったばかりの幸せを全く感じさせず、むしろ不機嫌を感じます。
やはり不機嫌を隠す事なくいつもは洗練された動きの兄様が音を立てて席に座られました。
「父上、母上それと他の皆も昨日はありがとう。私個人としては良い式になったと思っている。」
態度は不機嫌そうですが声色はいつもの通りで驚きます。
「うん、お兄ちゃんもかっこよかったし、お姉ちゃんも素敵だったわ!それにパレードもとっても楽しかったわ!」
空気を読む事をあえてしないお姉様の天真爛漫さに兄達は頬を緩めます。
「あぁ、そうだな。私もステラを皆に紹介出来て誇らしかったよ。」とカイン兄様は目を細められます。
「だと言うのに、兄の門出にスピカ!お前は問題を起こしたそうだな…式前のステラの衣装手配を怠った挙句に罵り、挙式の親族席ではわざと末席に座り、披露宴では早々に退場したそうではないか!兄をメリュジェーヌに取られるとでも思ったのか?恥ばかりかかせて満足か⁈」
言われのない罵倒に流石に私も黙ってはいられません。
「お言葉ですがお兄様、ドレスを手配したのはお姉様ご本人ですし、それが場に合わなければ指摘するのは家族だからこその優しさでございます。それに親族席の件は私も案内を受けて疑問でした。わざとあの席にいたわけではなく案内されたのです。そして早々に退場したのは申し訳ない事でございましたがトラブルでしょうがなかったのです。身なりを整えても退室時間に間に合うか否かでしたので退席させて頂いた次第です。お兄様とお義姉様を祝福する気持ちは私が誰よりも持ち合わせていると自負しております。」
言い終わればカイン兄様は私の言葉を信じられなさそうにしております。
そして小さく「それではなぜ彼女はあんなにも泣いているんだ」と呟くのです。
彼女とは多分メリュジェーヌお義姉様でしょう…
成程…初夜早々に、お義姉様に泣かれるか拒絶されるかしたものとお見受けします。そしてその原因の一つと私を糾弾しにいらっしゃったのでしょう…
「すまぬ、スピカ。席の件は相手方に合わせたのだ。彼方の侯爵夫人は後妻であるのは知っているな?そしてメリュジェーヌ嬢の末弟が現婦人の連れ子で侯爵様とは養子縁組をしているのだが、家督権を継承しない等の条件から昨日の席は末席だったのだ。故にこちらも養子であるお前を末席に置く事であちらに敬意を表する形になったのだ。説明が遅れてすまない…」
お父様はとてもバツが悪そうに言葉を紡がれます。
忙しくて伝えるのを忘れていたと…
一気に場は白けます。ですがお兄様だけでも昨日の席に疑問を持たれていたことが私は嬉しかった。気にかけてもらえているのだと安心したのだ。昨日は他の誰も指摘をしてこなかった事柄でしたので誰も私の事など気にしていないのだと内心落ち込んでいました。
「それにしてもカイン、あなた昨日はステラを構いすぎよ?あんなにステラばかりを可愛がっては花嫁が拗ねてしまっても文句は言えなくてよ?私子育て間違えたかしら…」
話を聞けば私が帰った後もお姉様とダンスをしたり他の貴族家へとお姉様を紹介したりと世話を焼いていたらしい…
「そうだぞ、カイン…それにお前が突然スピカのドレスをステラに貸し出すから私は陛下方や女官長達に謝罪しにいかねばならぬ事になったんだぞ…」
「年頃の娘の人生で一度のデビュタントに白のドレス以外はあり得ないではないですか!それに似合わぬドレスなど着ていけばそれこそ一生の辱めだ。それにあのドレスを出してきたのは私ではありませんよ父上」
「まぁ、確かに最初のドレスは似合ってなかったもんなぁ〜おまけにあんなに大きなリボンはセンスというか品がなさすぎる」
ステラお姉様は少しだけ私を睨み口元を真一文字に引き結んでいます…
「僕は薄らとしか目視できなかったけれどそんなに酷いのかい?その点スピカのデビュタントの時のドレスであれば刺繍以外は誰からも文句を言われることのない一級品だからね…結果として笑いものにならずに済んだならよかったじゃないか」
先ほどよりもお姉様は、一層強く唇を噛み締めています…どうやら傷口に塩を塗り込まれたような気分になられているかもしれません…
「そうなのよ!スピカも姉のためにと皇帝からお叱りを受けるのも覚悟で奇跡の令嬢にドレスを着せたなんて美談にもなっているのよ!」
お母様は嬉しそうにはしゃいでいらっしゃいます。
私はこれ以上あの思い出のドレスについて聞きたくないのも手伝って思案します。
「それよりもカイン兄様はお義姉様のご機嫌を直されないといけませんわね…丁度庭にチューリップが咲いていますからブーケを作られたらいかがかしら?」
カイン兄様の顔は見る間に紅潮して行きます
「そうしよう…スピカ…その…すまなかった」
そう言って兄様は食堂を後にされました。
チューリップの花言葉は色々あります。色や本数ごとに変わります「愛の告白」「誠実な愛」そして「永遠の愛」
お兄様がどの色を何本束ねて行ったのかは定かではありません。
しかし2人揃って朝食の席に現れたのは1週間後であった事は記しておきましょう。




